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7月31日 日本の小説は、ふぅ😩(溜息)


“小説家と読者の関係は、共通理解のトスとパスを延々とし続けているようなものだと思う。”

https://note.com/embed/notes/n480b6bc4bc44

と書いたのが7月18日。
この時は日本の小説家と読者の間にあるズブズブの関係を明らかにしてやろうと思ったが、結局話が外れ「読書」が日本人にとって褒められるべき習慣であり、それぞれ属している社会の規範やルールから自分を解放するという方法で現実から解き放たれる方法であることがわかったアンケートを紹介して終わった。

いつも不可解なのは、なぜ逃避した先にすでに用意されているレールに読者違和感を感じないのだろうかということ。前にも書いたけど、読書する時の姿勢は首を垂れる服従のポスチャーだけに自分の中に入ってくる情報をそのまま受け入れてしまいやすくなる。なぜその小説を自分は面白いと感じるのか、一度自分に問うてみたらいい。読んでいるその時点で話がどういう方向へ展開するか読者が自身の推論を立ててみたらいい。推論は、純粋に延長線上のものと、こうあって欲しいという希望の双方を立ててみると、何を小説に求めているかがわかるだろう。

大河ドラマのモデルになった紫式部が書いた「源氏物語」は世界最古の長編小説と呼ばれている。その内容はフィクションとされているがベースにあるのは当時の位の高い人たちの恋愛と日常。そうであったらいいという希望とか、嫉妬、羨望みたいなものをストーリーに載せて果たしている。フィクションは作家が作るものだから、何を書いても文句を言われないが、不自然な展開は受け入れられない。でも現実は、結構ストーリーのようにはならない。読者として事実を観察したとき次の展開として起きそうなことは、現実であれば登場人物が早々に察知して、自分の都合の悪い展開にならないよう努力なり防御するからだ。

芥川龍之介は小説を使って、客観と主観による事実把握の相違を呈したり、生まれる前に生まれてきたいか否かを問うてみたり、実験的なことをやった。小説には読者に没入させる効果があり、読者は登場人物の感情を体験できる。特に『藪の中』ではそれぞれがそれぞれの現実を生きており、相手や出てくる人間にさまざまな感情を持つが、それが混じり合うことがないことを表している。そもそも事実は一つでも、関わった人間の数だけ感情はあり、相反する感情まで入れたら数え切れない感情が交錯する。

それなのに、なぜちかごろの読者は、昔からある嫉妬や殺意やそういった後ろめたい感情の共通理解の中での表出法にじっくり浸かりその中を泳ぎ回るような小説にばかり走るのか、不思議で仕方ない。
ストーリーの中に起きた事実、事象はありきたりな悲劇でしかない。それを百片のフィクションがあれば百通りの感性で読者を振り回す。最近のお定まりは、毒親、虐待、いじめ、ネグレクトである。人権のパーセプションが甚だ乖離しているこの30から40年のジェネレーションギャップに、果たしてそれは目新しい何かを提供するのだろうか。手を替え品を替えた方法で、社会の暗部をほじくり返し瘡蓋を剥がしているに過ぎない。そんな中でも主人公は明るく自分の人生を信じて生きてゆく、なんて結末にした暁にはすっかり没入した内向的な読者は自分にはそんなことはできないと思い込み、生きるのは辛くなるのではないだろうか。余計な心配をしているんだろうか。

ないものをあたかもあるかのように振る舞うことで、その事態が起きやすくなる、そんな傾向があるのをご存知だろうか。とても良い例が、小学生の登校班。安全に学校までの通学させたいのなら、子供に交通安全教育や人を安易に信じてはいけないことや、いざ時うとき身を守る術を教えて、バラバラに登校させた方が危険が少ない。集合しているものは標的になりやすいし、そういう心理を生みやすい。そもそも登校班はなぜ生まれた?朝起きできな子供を同級生が呼びに来るなど、すでにプライバシーの侵害じゃないか?学校は勉強する場所で、授業サービスが提供されるまでにその場所にいれば良いのじゃないのかなぁ。穴があるからテープで貼る。テープの端っこがめくれてきてかえってきたない。問題があるところは、問題自体をなんとかすればいいわけだ。それだって、問題にしてみれば、問題にされていることに文句があるかもしれない。
つまり、ありもしないことをヂクヂク突つく、これは問題だと親切ごかしで取り沙汰する。というのは、逆に良い結果を産まないという例えだ。小説はそうやって、陰湿ないじめやネグレクトを増やしては、いまいか?

小説なんてもんは、そんなふうに人の目を引きたい物好きが目を塞ぎたいような事象を文字にして、「文字は学のある人間のお遊び」とでもさも言いたさそうに自分の立ち位置を確立するために書かれているが、人の品性、人間性はそれによって読者をどこへ連れていきたいかの行き先に現れる。そういったことにあまり頓着してこなかったのが、日本の小説じゃないか。

頭の切れる、秀才でありながら、世間を厭世的に見る次男坊。体が弱く、あるいは世間に認められない癖を持ち、立派な大人と尊敬されるような(昭和一桁あるいはそれ以前の古いお話です)人となりには近づこうとも思わず、戦争というくらい影は世襲制に関わらない自分には命を尽くして国を守るという言い訳になったが、病弱で行けなかった。せめて・・・、そんな気持ちで真っ向から筆をとりぐちぐちとこねくり回した鬱憤は、平等とは名ばかりで未だ食べるのが精一杯だった人たちの、富裕層への嫉妬を別の意味で昇華させてくれた。ザマアミロ、という大概の感想のおかげで、あの頃の『文学』は売れた。文字に娯楽を感じた読者も、食べることに懸命だった現実からペロリと剥がれたパラレルに、自分より馬鹿らしいことに死ぬの生きるのと苦悩している主人公を見つけ、自分はまだマシとほくそ笑んだに違いない。

日本の文学はそんなふうにして育ってきたから、なのだ。いじめ、ネグレクト、毒親、そんなものをほじくり返して。もう公然暴力ではないか、とさえ思うことがある。
小説は危険な毒なのですよ。中毒性があり、姿勢にも魔力があり、読書が良いことのように思われている世間体にも問題がある。
売れる本の基準は、そういうことが好きな読者の基準が決めているとしたら、丁寧に正し言葉で書かれていても、たとえ売れるとしても、今の問題となっていることを『問題ですよ』と微に入り細に入り優れたストーリー性の中に埋め込んで発信すればとんでもない危険なものになりうる。それこそつっこんでくださいと、黄色い帽子をかぶって延々並んで登校している小学生の列みたいなもの。

以前、贔屓にしている美容室で、もう新刊書の本屋には行けないと言っている美容師がいた。本が好きとも言えないと言った。いい本です、賞を取りました、そういう本は本好きと知れると必ず回ってくる。でも、それは大抵暴力的なことが多い。いつからこんなふうになっちゃったんだろう、とその人は嘆いていた。小説好きはそうやって、暴力的に人に新刊本をすすめてくる。賞を取った本を読んでいないと、本を語るなとでも言いたそうだ。

「世代が違うのかしらね。」
80になろうというある人が言っていた。
「あたし、日本のものは夏目漱石しか読まなかったわ。あとはゲーテとか海外物ばっかり。日本のは暗くって、どうしてみなさんあんなもの読むんでしょうね。読んだって、なんの答えも見つからないんですもん」

答え、とは目から鱗だった。海外物にのには答えがある、のだそうだ。日本の風土とは全然違うからこそ、何か見つかるのかもしれない。海外物ばっかり読んでいたら、そうね、もしかしたら今の日本の問題が、何が問題なのかわからないかもしれない。だって問題にすら見えないんだから。

あー、
それでわかった気がした。アンケートだけど、現実逃避というのは本当にそうで、現実から逃避しなくちゃいけないほど詰まされているのね読者は。海外物を読んでいる人からはきっと「現実逃避」という答えはでない。せめて「時間潰し」とか「娯楽」とかじゃないか。

踏襲している現実は、みんなと同じ現実じゃないからね。

翻訳は今や頼まれもしないのに、勝手に翻訳して送ってくるなって時代だ。パパラギにせよ、そのほかの名著のせよ、語学とは全く関係ない人間が感銘を受け、現地の人からの推薦も受け、けれどもどこも商業的に動こうとしないから勝手に訳して持ち込んだ時代があった。目の前の泥沼をこねくり回しているような日本の作品に対して、直接的に泥沼を埋める方法ではないにしても、放っておいて乾かすとか、そもそも泥沼などぐるっと回って回避してしまえとか、いずれにせよ新たな見地を見出す糧になるようなものには、今の御本を作る方々は興味がないらしい。
売れないと意味がないらしい。

私はどうせ自分の脳を洗うなら、陽気で全然違う風を感じさせてくれるものがいいけどね。

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