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昭和時代のtip② 『頭の中の引き出し』

 還暦近くなって過去の経験を書いたものを自分史のコンテストに応募したところ文章は選ばれなかったものの、中に書いた処世術が面白かったというのを若い編集者から聞いたという経緯は➀の頭にも書いた通り。
 今回は処世術というより、個人の記憶管理のお話。

 第二回は頭の中に引き出しを作る
 です。

 安部譲二さんという作家をご存知でしょうか。先日、おそい新年会があったのですが、同じテーブル座らせていただいた80歳の御大。その方が阿部譲二さんの名前を言ったとき誰も知らず、その事実に私はショックを受けました。
 阿部譲二さんといえば、『塀の中の懲りない面々』という自身の経験をベースにした1986年に文芸春秋社が出版した小説がベストセラーになり、その後メディアにもでられていた人生経験豊富な御仁です。亡くなったのはコロナがパンデミックになる直前の2019年でした。ベストセラーになったこの小説には十代で暴力団組員となり3回の服役経験のある安部さんが塀の中で出会った人たちのことが明るく描かれています。母とほぼ同世代の阿部さんは、私にとっては大人の代表のような人でした。『酸いも甘いも』という物事の裏も表も知り尽くしたという人生を地でゆき、逮捕歴があれど若い頃のヤンチャがすぎた、若さゆえの狭い視野での一貫性が起こした顛末、そんな言葉が自然と出てくるような具合で、法律は荒馬をコントロールする手綱にすぎず縛り付けるものではなかった時代ではなかったでしょうか。安部譲二さんはその後、日航のスチュワートなども経験しておられますから英語も堪能で、つまり能力が高かかったんですね。
 スチュワートなんて! 「ああ、フライトアテンダントね」と思った方はお若いです。スチュワート、スチュワーデスは確かに古い呼び方です。女性と男性で語尾が変わるのなんて今は考えられないでしょう。でもねぇ、このスチュワートは、大きな家に雇われ人で使用人を管理・監督を任されるポジションだったから使用人の中でも地位が高く管理能力を問われる仕事だったのです。ですから飛行機のスチュワーデスが女性の仕事というより、スチュワートという言葉がまずあり、それを飛行機の安全保安員とサービスを一手に引き受ける女性乗務員にも引き継がれた時、わざわざ語尾を換えて女性名詞にしたという感じではないでしょうか。ちなみに昨今流行りのバトラーは、スチュワートの下で働く食堂担当の食堂支配人のことでした。
 義理堅く豪傑な安部さんが、語学能力を操り大きな体躯に小回りきかせサービス精神旺盛にスチュワートの仕事をしていたなんて想像すると、飛んでいた飛行機の中であの愛嬌のある丸い目をキョロキョロさせてどんなサービスをしていたんだろうかと想像が走ります。

 これからするの38年前のお話です。
 どこも本気で正社員になろうと思って応募するのですが、数日働くと自分の将来が閉ざされてしまうような気がしてしまうのでした。それで面接、就職、辞める、仕事探し、面接、就職・・・を繰り返していました。自慢できる話ではないですが、少しばかり英語ができたのと海外就職の経験が生きてありがたいことにここぞと思うところでは仕事をさせていただけました。おかげでいろんな世界を見ることができました。
 でも少し残念なのは、今なら『派遣』という仕事もあったなと思うのです。今は派遣も十分に市民権を持っていますが、あの頃はそうではありませんでした。35年まえ自分が何を仕事にしたいのかわらなくなった私は、母に言われるまま登録制のそこに向かったのです。その頃、派遣業法などという法律もなく概念も普及していませんでしたから、勝手に思いついた人が勝手に人を集めて登録しこれまでの人脈を使って人を送るという荒っぽいやり方でした。時給は普通のアルバイトと比べて良く、大卒の初任給ぐらいでした。それにあの頃、会社は派遣先を紹介してくれるだけで、お給料は直接派遣先が私の口座に直接振り込んでくれていましたから、今で言うイベントのための短期バイトみたいな扱いでした。そんなシステムでしたから紹介料を踏み倒したり高いと文句を言ったりする人がいたんでしょう、派遣期間が終わって紹介料をお支払いに行くと、「自分には怖い人がバッグにいるんだから」と、その元新聞記者だったという社長は、訳のわかないことを言っていましたっけ。
 胡散臭い人でしたが、その2ヶ月間のお仕事はちゃんとした大きなグループ会社の旅行部門でしたし、のちに正社員に推挙していただくことになったきっかけを作ってくれた仕事でしたから、紹介料を踏み倒すなんて考えもししませんでした。おかげでいろんな面白い人たちにも出会えたんですから。
 その旅行部門は主に国際会議を手掛けていて、私が派遣された時は都内で開催される医学会議の手配の最中でした。都内の医大の教授からアレンジを全て任されていて、出欠の管理から飛行機の手配、リムジン・宿泊先の予約、会議場までのシャトルバスの運営・時刻表づくり、一緒に来日する夫人のための観光・アトラクションの提案など、目新しくて面白い仕事が山ほどあり目まぐるしく時間はすぎてゆき、飽きることはありませんでした。
 それにあの頃、事務所はいくつかの机の島で別れていて、机ごとに守備範囲がありました。島一つで皆が情報を共有しながら仕事を進めるので、孤独感はありません。それぞれの島にお金を担当する人と、連絡係、社内調整が上手い人、外回りが好きな人という具合に自然と得意が分かれてきますから、それぞれ得意分野で貢献することになります。自分の担当でわからないことがあれば、別の島で同類の分野を守備としている人に尋ねます。それぞれの机の上にパソコンという壁はありませんから、何も言わなくても何か問題を抱えていればわかってしまいます。
 個人主義や一人ひとりの能力を重視する現代は自由でとてもいいのだけれど、このことは私には残念な点でもあります。のちにパソコンが普及した時代に社会復帰した時、全員が着席したオフィスで誰も言葉を発することなく一人一人黙々と仕事をしているのを見た時にそう感じました。『会社の歯車』という言葉は決して褒め言葉ではありません。誰でも替がきく個性のない部品のような意味合いですが、あなたが特別な歯車で会社を回すために欠かせないものだったらどうでしょう。そういう歯車ばかりが集まっているのが会社だとしたら、自分と同じように特別な歯車たちと力を出し合い、一人で起こすより大きなことを会社全体でするのを楽しみにしてはどうでしょう。 個人主義は、カラクリよりも歯車自体が磨きをかけ、先端を尖らせているように思えます。

 そんな時代でした。
 おかげで私は島の人たちからいろんなことを教わりました。派遣だったのにお昼に誘われたり、歓迎会をしていただいたり、わずか2ヶ月の間に何年も旅行業に関わってきたみたいに色々な話を聞かせてもらいました。
 仕事は多岐にわたっていて、通常の業務からちょっと外れたものが回ってきました。シャトルバスのダイヤを作ったり、観光バスのパンフレットを翻訳したり、主催の教授にチケットを届けに行ったり。突然言われます。そしてそれが結構重要だったのです。ある時、徒歩と電車で届けたチケットにが変更になり急いで届けなくてならなくなりました。就業時間終了間際でした。はじめていやーな気分になりました。すると隣の机島で飛行機手配を担当していた40代のK氏が助け舟を出してくれました。車を出してくれるというのです。
 実はこの方は役員にヘッドハントされて入社した契約社員で、以前は日航のスチュワートだったという経歴をお持ちでした。同時に犯罪級に若い彼女と同棲中。そんな噂も聞いていました。
 待っていると社屋ビルのスロープをK氏の車が登ってきました。大きな白いセダンでした。通勤用とたかを括っていましたが、クラウンだったかもしれません。革張りのシートに広々とした車内。座席の間のコンソールのうえにはお弁当箱ぐらいの大きさの携帯電話がありました。会議のオペレーションのために一台借りることをKさんが提案していたのを思い出しました。当時は個人が買うのは珍しく、必要な時に高額なデポジットを支払って借りていました。確か70万円とか、それくらいの額だったかと。それだけの価値はあるよ、とKさんが話していたのも、自分で持っていたから言えたのかもしれません。ランチに近くの中華料理を食べにゆく、それが楽しみだったその頃の自分とは比べ物にならない世界がそこにありました。
 さらにK氏は、憧れの安部譲二氏と同じスチュワートだったのですから、興奮しないわけがありません。車で行けば30分もかからない道すがら、私はスチュワートだった頃の話を聞きたいとお願いしました。ずいぶん前のことですからどんなことが聞けたのか残念ながらもう覚えていません。でも若い彼女がいるという浮いた話からは想像しなかった落ち着きで、その話について「こんなおじさんじゃぁ、可哀想でしょ」と軽くかわされました。
 さて、目的の大学に近づくと、Kさんはやおら口を開いて言いました。
 「あのね、頭の中に引き出しを作るんだよ。
  机の引き出しみたいなやつじゃなくて、書類が段々に入るやつ。
  そして、途中の仕事を一段ずつに入れて閉めるの。

  そうして、必要な時にひらけば閉めた時の状態でそのまま出てくる。
  そう自分に暗示をかけるんだ。
  そうすれば一度に幾つでも仕事をこなせる。
  いいかい、引き出しは一度閉めてしまえば、そのまま変わらない。忘れ ることもないんだ」

 どうして言われたのか、言葉の意味も、その時はわかりませんでした。私はただ言われる仕事を懸命にやっていて、自分を客観的に見ることもなかったのですから。正直仕事量も多かったかどうかわかりません。
 でもこの、ペンディング中の内容を引き出しに入れておくという概念は、その後どんな職場でも役に立ちました。そして、案外この引き出しに入れてしまっておく時間が重要だということにも気づいたのです。引き出しを閉めている時間、つまり考えていない間も見ていないところでそれは育っていて思いもしないアイデアに転換していたりするのです。

 さらに心理的にもプラスの面が。仕事中、他の仕事を頼まれても、ひとまず引き出しにしまいます。私が私のその引き出しを開かない限り中身は無くならないし変化しないと、暗示をかけているから焦る必要はありません。安心して急ぎの仕事を優先させられます。その引き出しは絶対的な安全地帯なのです。

 家で仕事をするようになってもこの引き出しは活躍しました。家庭と仕事を分ける時、息子たちへの腹立ちと学校行事を分けるとき、複数の案件を同時進行させる時、私の能力じゃなく、物理的な引き出しがわけてくれるのだからというくらいにはっきりとビジュアル化すると効果的です。

昔語りになってしまいましたが、
あの頃は、有象無象の塊が社会で、それが全ての前提だったから
自分はいかに良い人間か、道徳的な人間か、いつも襟をただしてアピールする必要があった。そんな気がします。それがフィランソロピーの発端にもなったし、電車の中で腰をうかして席を譲ったり、泣いている赤ちゃんにそっといないいないバーをして笑わしたり、そうすることが当たり前じゃなくて自分が気持ち良くなるためのもの。単純な良い行いが、無条件にいい気分に直結していた。今はそうじゃないとしたら、難しい世の中になりました。

仕事は楽しくやってナンボ。
その仕事で頭を切り替えるにはこの考え方は最強です。

そういうわけで、安部譲二さんのお名前を聞くたびに
頭の中の引き出しを思い出すのです。

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