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道標【キナリ杯2020、あとがき】

 僕が初めて公に向けて書いた文章を、初めて応募してみたコンテストが、岸田奈美さんが主催された「キナリ杯」だ。



注:コンテストはすでに終了しています。受賞作品を読んでみたい方は、以下のまとめからご覧ください。



 もともと数か月かけてなんとか文章を完成させて、そろそろ投稿しようかなと考えていた矢先、誰かのいいねがTwitterで流れてきた。何やら、給付金の10万円をそのまま賞金にしたコンテストが開催されるらしい。

 「面白いこと、考えるなぁ」

 興味をそそられたので、まずは岸田さんの作品たちを観に行った。
 ……、うん、面白い。岸田さんの周りで起こる出来事だけでも笑顔になってしまうのに、彼女の文章表現でさらにその面白さに拍車がかかっている。まるで、どこかから飛んできた珍しい調味料を難なくキャッチし、それらを用いて様々な美味しい料理を創作するシェフみたいだな、と思った。故に、笑える記事もあれば、泣かせる記事もあり、考えさせられる記事もあった。

 「よし、応募してみようか」

 多くの人に読んでもらいたい。その一心で書いた文章なのだから、コンテストに応募した方が人の目に留まりやすい。それに、最低でも主催者に読んでもらえることは確定する。note初投稿でどのくらいの人に読んでもらえるかがわからない不透明な状況下で、それはとても大きな安心材料だった。



 素晴らしい文章を書く人が、僕の文章を読んでどんな感想をもつのか。
 父を亡くしている岸田さんが、僕の父の死の経過についてどう思うのか。

 受賞しないと講評は書いてもらえないのだから、現実に岸田さんの感想を聞くことは不可能なわけだが、僕には読んでもらうだけで十分だった。
 ただ、コンテストに応募するにあたり、気にかかることがあった。それは、キナリ杯の応募要項に書かれていた一項目だった。

 ・特定の誰かや何かをひどく傷つけるものではない

 文章を書くときに、誰かを傷つけようという意図はさらさらなかったが、メディアの方々やXを批判する内容だ。「批判=傷つける」ではないし、あくまで客観的に事実を描きつつ、自分の意見を述べたつもりだったが、誰かを傷つける可能性はあった。それに、賛否両論となる文章であることは、薄々察していた。どんな否が自分に突き付けられるのかわからないけれど。
 悩んだ結果、

 ・実際にあったことを題材にしている
 ・なんか知らんけど、異常な熱量を感じる

 この部分には当てはまっていると思い、キナリ杯のタグをつけた。たぶん、人生で一番熱量は注ぎ込んだし、散々苦悩しながら、もがきながら、懸命に言葉を紡いだ。何千回読み返したのか、わからない。幾度となく推敲を繰り返してもなかなか納得できなかったのは、もし適当な文章で公開してしまったら、新聞記者だった父に怒られそう。そんな思いが心の奥底にあったからなのかもしれない。







 当初、素人の文章はそんなに読まれないと考えていたから、TwitterとFacebookに公開して、自分の知り合いに届けば満足、くらいに考えていた。
 しかし、予想に反して多くの人が読んでくれた。今までで一番リツイートされたし、今までで一番シェアされた。1週間で15000人以上もの大人数に読んでいただき、全く知らない赤の他人からも、記事に対するコメントがSNSを通じて僕のもとに届いた。 


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 純粋に嬉しかった。時間をかけたものが何かしらの成果を持って帰ってきたら、人は誰だって嬉しくなる。ただただ、素直な感情だ。
 しかし、事態が好転すると調子に乗ってしまう。それもまた、人の素直な感情だ。御多分に漏れず、自分もそうなってしまった。時間が経つにつれて、色々と比べてしまう。選考基準にスキ数は反映されないのだから、他の作品とスキ数を比べてみる行為に意味はない。noteという右も左もわからない世界で、どの文章がいい作品なのかは読んでみないと判断できないし、そもそも文章をそこまで読み込んできたわけでもない自分が、他人様の作品を自信をもって批評できるはずがない。応募作品すべてを読み込む時間もないため、必然的にタイトルとスキ数だけを追っていく日々が続いた。
 note初心者の僕は、どのくらいスキ数がつけばすごいことなのか、基準をいまいち掴めていなかった。ただ、note初投稿の作品にしては、割とスキ数が多いのでは、と感じた。
 ちょうど僕が投稿した時期の少し前に、西先生がキナリ杯へ作品を応募されていた。



 突飛なことは言っていないのに、スッと文章が入ってくる。夢を応援することを、風呂を焚いて家で待つことに例えられる人は、なかなかいないんじゃないかと思う。「周りに夢に向かって走り出している人がいて、その人を心の底から応援したい」と考えている人には、ぜひ読んでほしい。
 初めて読んだ西先生の文章も好きだったけど、今回の文章も自分好みだった。誰を否定するわけでもない、一つの解決策の提案だった。

 ちなみに、僕が最初に読んだ西先生の作品はこちらになります。



  西先生のキナリ杯の記事は、当時スキ数が二桁だったと記憶している。同じ頃、僕の記事のスキ数は三桁まで伸びていた。

 「……ひょっとして、そんなに悪くはない文章を書けたんじゃないか?」

 単純な比較はできないし、文章に優劣をつけることは不可能だけれど、自分が「いい」と感じる文章よりも多いスキ数を自分の文章が獲得しているという事実は、一人の若者を勘違いさせるには十分すぎた。

 普段は出てこない汚い欲望が、顔を覗かせた。









 2020年6月3日、キナリ杯結果発表の日。

 コンテストの最終的な総応募数は4240件。これを岸田さんが一人ですべて読んだというのだから、すごい。単純にすごい。本当に岸田さんは、面白い文章が読みたかったんだな、と感じた。
 当日は仕事だったので、仕事が終わってから自分のデスクのパソコンを起動し、結果発表の記事を眺め始めた。

 「どの文章も面白いな~」

 どの作品も素晴らしかったし、岸田さんの講評からも「少しでも多くの人に読んでほしいんじゃ~!!」という気持ちが溢れ出ていた。(その思いにまんまとハマり、数日間で受賞作品を全て読ませていただきました)

 個人的に、ワンチャン受賞しないかなと期待していた。53人も受賞するんだから、優勝まではいかなくても、敗者復活優勝くらいならマグレで引っかかるんじゃないか、と妄想していた。
 一時間毎に発表されていく、珠玉の作品たち。まず、特別リスペクト賞では受賞しないと考えていた。文章がほぼ完成してからキナリ杯というものを知ったし、一部の人は特別リスペクト賞を狙って文章を書いたらしい。自分の作品は暗くて面白くないので、どこにも該当しないだろう。
 可能性がある賞を挙げるとすれば、特別リスペクト賞32「生と死をかんがえる賞」くらいかなぁ、とボンヤリ考えていた。「父の死」をメインにした文章ではなかったけれど、「どう生きるのか、どう死ぬのか」という事柄には関連していたし、そもそも「死」が関連する面白い文章は、誰も書けないと思っていたからだ。もしキナリ杯に応募された作品の中に、「死」が関連する作品が僕のものだけだったら、不戦勝?(全く本意ではないが)
 僕が受賞する・しない関係なく、どんな作品が受賞するのか、興味があった。



 圧巻だった。

 タイトルに「美しい」と書かれていて、流石に盛りすぎだろう、という第一印象で読み進めていったが、僕が勝手に高く設定したハードルは、かすって揺れることすらなかった。
 「死」には、どうしたって暗いイメージが付き纏う。色々と理由はこじつけられると思うけど、たぶん生物的な本能から忌避しているのだろう。私たちが、今生きているから。
 その「死」を扱って、どうしてこんなにスッキリとした作品ができるのだろうか。何度か身内の「死」に接してきた。まだ病院で働き始めて1年ちょっとしか経っていないが、それなりの「死」に接してきた。でも、こんなに美しい「死」を、僕はまだ見たことがない。

 『もしキナリ杯に応募された作品の中に、「死」が関連する作品が僕のものだけだったら、不戦勝?(全く本意ではないが)』

 自身の浅慮を恥じた。

 「自分の死に方や家族の死に方、およびそのタイミング」について悩んでいる人には、ぜひ読んでほしい。






 徐々に受賞者が多くなっていく。20時の発表記事を読んで、最後の発表記事の前に帰宅しようと荷物を纏め始める。なんとなく、もう受賞はないなと思ったからだ。きっと最後の記事を読んでしまったら、帰る気力がなくなる気がして。
 それでも、心のどこかでちょっとばかしは期待していた。コンテストや大会に参加された経験のある方には共感してもらえると思うが、一般的に結果発表は下位から発表されていく。今回のキナリ杯の賞の違いに優劣はさらさらないけれど、どうしても同じ心境を覚えてしまう。入賞できなかったけれど、もしかしたら上の賞で……、というあの気持ちだ。

 家への帰り道、携帯電話を片手に最後の記事を読んだ。ページを下にスクロールしていく。そこに、僕の記事は紹介されていなかった。皮肉にも、西先生の記事が最後に掲載されていた(西先生、おめでとうございます)。

 家のベッドに横になり、改めて自分の文章を読み返してみる。投稿するときにはあれだけ輝いて見えた文字たちが、なぜかとても汚く読みづらい、文字の羅列にしか見えなかった。








 キナリ杯に参加してみて、自分の中に二つの目標ができた。


 ①なるべく人を傷つけない、優しい文章を書くように心がける


 キナリ杯で受賞されたどの作品も、優しかった。
 内容が尖っているものもあったけれど、どの作品もまるく感じた。どんな文章でも、誰かが傷つくとは思うけど、傷つく可能性がほぼゼロの作品たちだった。少なくとも、僕はかすり傷一つ負わなかった。キナリ杯に参加してこれらの作品を読めたことは、幸運だった。
 自分の応募作品は、かなりゴツゴツしている。次回のキナリ杯へ向けて、このゴツゴツをなくしていきたいな、と強く感じた。そのためには、やっぱりたくさんの作品を生みだしていかなければならない。来年のキナリ杯に向けて、試行錯誤をしていこうと誓った。




 ②「医療」がテーマではない文章を「医療」がテーマの文章の2倍書く


 もともとnoteを始めた理由の一つに、「正しい医療情報の発信」があった。応募した作品を足掛かりに、月一くらいで何かを伝えられたらいいな、くらいの気軽さで。
 ただ、キナリ杯の経験から、考えが変わった。
 医療情報を知りたい人には届いても、もとから関心のない人に、僕の文章は届かない。それに、ずっと同じジャンルを読んでいると、飽きてくる。中華料理が大好きな人も、毎日食べていたらいつかは飽きるだろう。故に、もともと医療に関心があった読者も、いずれは離れていくかもしれない。

 僕だって、
   
 医療に関する文章を読みたいとき
 芸能に関する文章を読みたいとき
 明るい文章を読みたいとき
 暗い文章を読みたいとき
 知っている人の文章を読みたいとき
 全く知らない人の文章を読みたいとき
 ためになる文章を読みたいとき
 馬鹿な文章を読みたいとき
 長い文章を読みたいとき
 短い文章を読みたいとき
 泣ける文章を読みたいとき
 笑える文章を読みたいとき
 
 挙げればキリがない。全部その日の気分次第で、どれを読むか決めている。

 僕は岸田さんのように超人ではないので、キナリ杯応募作品を全て読んだわけではないが、どの作品に手をつけても飽きがこなかった。
 メニューには「面白いフルコース」と書かれていたのに、手をつけた料理は飽きずに完食できた。特に受賞作品で飽きなかったことには、ひどく驚いた。

 だから、基本的に医療とは関係ない文章を書いていこうと心に決めた。アイデアがポンポン出てくる器用な人間ではないので、時間はかかると思うけど。しばらくは駄文ばかりになるだろうけど。
 手始めに、キナリ杯のあとがきを書く条件として、「異なる3つのジャンルの作品を書き終えること」を自分に課した。





 想像以上に時間がかかったため、このあとがきを公開するのが7月になってしまった。遅筆すぎか。

 これから自分がどんな文章を作ることができるのか、想像もできないけれど、とりあえずやってみないとわからない。怖い気持ちもあるけれど、ちょっと楽しみな自分もいる。 


 そうしてたまに、真面目な顔で医療に関する文章を書いてみたい。

 そのときいる読者に、医療への関心があろうとなかろうと。

 僕の文章に少しでも興味を持ってくれた人たちに、届くような言葉で。


 





 最後になりますが、キナリ杯という素敵なコンテストを開催してくださった岸田さんをはじめ、素敵な文章を読ませてくれた筆者の皆様、本当にありがとうございました。

 キナリ杯のタグをつけてしまったことは後悔しているけど、キナリ杯に参加したことは後悔していません。

 来年のキナリ杯の開催を心待ちにしております。











(どうでもいいけど、来年のキナリ杯のタグはどうなるんだろうか。キナリ杯2021?) 

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