見出し画像

議論の欠如

 自分に出来ないことがある。すると、自力で調べて問題を解決する。ずーと、それが当たり前だと思ってきたが、最近になって私と違う人たちがいることに気づいた。
 一人でまかないきれない仕事を組織から与えられた場合、部下に頼んだり命じたりする。組織で働けば当然である。たとえ教員の世界であっても学年主任になれば仕事を割り振る必要が出てくる。要するに部下に「命じる」訳である。ところが、私は自分で出来ない場合だけ人に頼むことにしている。人に頼むと恥ずかしい感情が湧き上がる。だから、できる限り一人で処理する。出来ない時は仕方なく部下に頼む。大きな学校の学年主任になると部下を15人ほど与えられる。しかし、部下として扱わず「同僚」として接した。幸い、教員の世界には学年主任である私の依頼を拒否したりする者は少なかった。私の依頼を拒否したり任せるべき人物に処理能力がない場合には、私が代わって仕事をした。幸運にも学年主任以上の出世はなかったから定年まで務まったと言える。一人の教員として定年を迎えた時、やり切った充実感があった。あれは、マラソンを走った後の気持ちに似ていた。学年チームに大いに祝ってもらったのは、学年主任という上司の私に対してではなく、一人の同僚としての私を祝ってくれたはずだ。
 私の場合は、仕事が出来るか出来ないかは、いつも自己完結した。しかし、もし、私が校長にでもなったらと仮定すると面白い。同僚として祝ってもらう定年は迎えられなかったに違いない。何しろ私は人に命じることができない人間だから管理職は不適格である。そういえば子供の時からサッカーや野球やバレーボールなどのチームプレイは苦手だったし、相手を倒す格闘技は当然だが、テニスや卓球などにさえ馴染めなかった。
 生徒を教える仕事やICT支援員の仕事は依頼された仕事をこなす職人の部類に入る。職人のように自己研鑽によって問題を解決する能力とは別に、人を管理する能力が求められることがある。学校ならば前述した学年主任や校長のような立場である。私のように人に命じることが出来ない人間は「頼む」以外の手段を持たないが、「命じる」ことを得意にする人間がいる。「命じられた」と感じることなく「頼まれたような気分にさせる」人物もいる。仕方ないと思わせる能力に長けた人物がいる。中には恩着せがましい方法をとったりパワハラやセクハラを駆使して他人を動かす人もいる。世の中のリーダーの多くはこの手合いが多いと思うのは命令できない職人のヒガミかもしれない。政治家がもつ調整力とやらはこの種に能力に違いない。
 オリンピック組織委員長森喜朗元首相を見ていると、個人としての資質が優れているようには見えない。けれども政治力(調整力)は優れているのだろう。日本の政治家である森喜朗が世界から非難された時、オリンピック理念や世界的良識について、あの程度の認識しか持たない人物が総理大臣になることのできた日本社会の特異性を感じた。日本人の多くが抱いた怒りの本質は我々日本人のリーダーの良識があの程度だと思い知らされ、彼を選んだ日本人の一員であることに対する情けなさである。安倍元首相の時も同じような感情を抱いた。
「なぜ、あの程度の人物が首相にまで上り詰めることができるのか?」
 私は人に頼まれると頼んだ人に恩義があれば断らない。恩義がなくとも大きな問題でなければ断らない。それは相手の気持ちに私を恨む感情が生まれるのを嫌っているからである。命令の得意な人物はその気持ちをうまく操る。私のような日本人は依頼事項に対する「主義主張」を決して問題にしない。たとえば、
 ・ お祭りの寄付をお願いされる。
 ・ 署名をお願いされる。
 ・ 町内会長を頼まれる。
 ・ 職場で大変な仕事を押し付けられる。
私は依頼されれば断らない。私が人に何かを頼む時は、八方塞がりで窮地に陥った時にしか頼まない。だから、逆の立場で断ることに二の足を踏む。
 頼まれたり命令された時は引き受けるか断るかの二者択一で決めて、決して「議論」しない。「議論」しても仕方がないと思ってしまう。頼まれた人物が意見を言えば私が「嫌がっている」と思われるし、頼んだ人物が意見を言えば「命令に聞こえる」と思ってしまう。日本に議論する習慣がないから議論が始まれば「もういい。頼まない。」こう言って離れていく。いつでもどこでもこんな想像をするから「引き受ける」しか選択肢がない。
 リーダーを選ぶときも同じで「議論」が欠如している。「意見」を聞こうとしない。「議論」がないから日本の政治家は根回しで決まる。だから情けない人物が総理大臣を務める。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?