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自己紹介と形跡 ・インハウス編

はじめに

#自己紹介
前回、2022/10/29工業デザイナーの夢を抱き、1965年に松下電器産業株式会社(現Panasonic)に入社、面接官に希望を聞かれ、『飛鳥をデザインした高田宗治氏の下で学びたい』と咄嗟に口にしたこと思いをグループ配属まで叶えていただいた。夢のような話を自己紹介と形跡・スタートアップで述べましたが、

これは、人生で忘れることのできない記憶と記録への驚きであった。

筆者はこのようなことが『現実的に起こるんだ』と心の中では驚きを隠せなかった。高校時代の担当教師の指導哲学や親族など関係者の考え方、さらには見えない力か、感謝するばかりであった。


余談だが、
昭和四十年から新販売体制をスタートこともあり、また『商いの心を学ぶ』。松下電器入社後の導入教育の一環施策としての販売研修があった。

入社前に読んだ本。

配属された大型ショップ店では円滑に研修をさせていただき、その後も家族とお付き合いさせていただき、この縁で仲人をして頂いた。また、筆者の子供たちとも節には楽しい時間を共有するなどの親子のような関係も頂いた。
松下電器にはこのように多大な縁を頂いた会社であった。(笑顔)

筆者は、松下電器産業株式会社(現Panasonic)にて、本社採用、インハウスデザイナーとして入社し、ステレオ事業部の商品などの開発をいたしました。Technicsブランド設立時代から世界でNO1になるまでTechnicsブランド・オーディオ製品のスピーカのデザインを担当をさせていただいたことにも感謝の気持ちばかりである。

デンマークのオーディオ販売店

入社した時は不況と環境問題

筆者の入社した年は、1964年東京オリンピック翌年(1965年)の証券不況(構造不況、昭和40年不況)は、それまでの第二次世界大戦後の不況のように、政策金利の引き下げなどの金融緩和による金融政策だけでは改善せず、政府は補正予算で第二次世界大戦後初の建設国債の発行を閣議決定し、翌1966年に発行した。これと前後して、景気は回復し始め、「いざなぎ景気」が始まった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

この時期は、生活環境に暗雲低迷を肌で感じておりました。自然破壊、大気汚染、水質汚濁、騒音・振動などの問題も日本各地で顕在化し、深刻度を増していきました。また、1968年には、厚生省により、イタイイタイ病の原因は、三井金属鉱業株式会社の排水によるものとする見解が発表された。

不況の時代で、松下電器40年度入社が少数のため、社員の指導体制は充実していた。今から考えれば、まさに『人間万事塞翁が馬』である。

仕事に必要な技術や知識はOn-the-Job Trainingで

商品単価、精度、品質、工程などの要点や開発の問題点など仕事を遂行するために必要なスキル、知識、および能力をOJT(On-The-Job Training)関係部署から多くを学うことができた。

1969年初出の写真、中央がデザイン白崎襄室長、高田宗治さんは最前列の右、
新入社員の筆者はその後ろの右


特にステレオのキャビネットの外観に使用される化粧板の仕上げ加工技術です。この分野でのオ-ソリティーと言われた当時のデザインの室長、白崎襄氏でからであった。

筆者は新入社員の教育ということで、鞄持ちと称して大阪南港の水中貯木場の見学や原木からスライスする突板加工、その後キャビネットの素材としての加工される板材製造の現場、和紙と突板と合板のラミネート加工法や突板を写真撮りして、メラミン化粧板となる和紙に印刷する現場などの学びであった。

そして量産を目的とした塩ビに印刷し、Vカット工法後キャビネットする加工法の発明など、OJTの実地指導を親切に事細かく丁寧に教えていただきました。

ここでは、作業現場の実地研修で事業会社の訪問した企業は大日本印刷、凸版印刷、日本写真印刷、城陽の富士高分子等々で 素材、加工法の現場訪問研修。さらに、原木、突板、オイルステン処理、和紙、撮影、特殊印刷、エンボス、UV加工の技術を学んぶと同時に人脈などの構築もできた。

デザインは形からではない。何を表現するかである。

高田宗治氏が退職するまでの5年間は学ぶことばかりであった。高田氏に言われた言葉がある。 松下電器産業50周年の年でステレオ事業部は大枝公園に移転、製造工場を見学しにいったときの事である。工場は、アンサンブルステレオからセパレートタイプステレオの変わり目の1968年頃だったと思う。 テレビ、ステレオは和名と家具調が全盛であった。

筆者がセパレートステレオ国内向けSC-720Mを担当して商品設計は始まりかけた時であった。

筆者は、次代のステレオ商品を考えた時、スピーカーデザインとしてサランネットの前に桟や意匠的文様の造形物を装飾しているが、スピーカの前にはサランネットのみで音をシンプルに表現する。音を忠実に再現するためにはスピーカーの前には透過性の高い素材こそ構造的で美しい。電子技術による入力・出力を単純明快に表現するシステムとは何かを創造的にデザインすべきと提言。

高田氏は、君の言うように『デザインは形からではない。何を表現するかである。』言われたときにすべてが腑に落ち、商品化できた。

サランネットの前に桟や意匠的文様の造形物を排除したシンプルなSC-720Mは1969年(社長銀賞)国内向け中級機としてヒットとなった。

サランネットの前に桟や意匠的文様の造形物を排除した。


経験知として活かされたOn-the-Job Training

12年後、1978年テクニクスSB-10の開発時では特殊エンボスと特殊印刷の組み合わせで同調エンボスを特許を出願、世の中に送り出しました。この時には白崎室長は定年退職で私自身がOJTで得た情報の活用を中心的役割で商品開発をマネジメントした。

特殊エンボスと特殊印刷の組み合わせで同調エンボスのハニカム構造のSB-10

 
また、別のプロジェクトでの学びあるが、
技術課長に同席しパンチング・ダイキャスト・ゴム関係・木材関係などなど技術と加工などの経験知と共栄会社の人脈などの獲得は、10年後テクニクススピーカ担当として重責をあたえられ、SB-F1からSB-M1や同軸スピーカの開発提案までの多くの難問などのマネージメントで解決できたことは入社時のOJTの学びと確認している。

他には、購買、工場の責任者や先輩とのOJTでは、共栄会社の現場(勝光社)アルミ処理・加工、織物の平織り・ジャガード織、等の加工技術。大洋工作所の技術、VOL(回転するツマミ)等の微細で高付加価値の表現としてのベリリューム加工(日本碍子・日本エッチング社)などで素材メーカの現場で実践的な方法を獲得した。


またアイデア発想や表現技術としてのテクニカルな部分は、産業能率大学・創造工学、テクニカルスケッチなど工学院にて設計者と学ぶ機会を与えられ充実した時間を与えられたことは有意義で価値ある経験知になった。

デザインに関することは松下デザインセンターで、他事業との交流で実践的なこと。事業部教育で実務的なことを教育していただいたと確認している。


事実からデザイン学を習得


デザイナーという職能に対する社内の認識とは
筆者はアイデア発想法、取引関係業者の素材・加工・コストなどの情報は設計者からも頼りにされていた。

また、商品を売る要素として、社会的価値・企業的価値・資源(素材・加工)など価値創出が重要である。

そのために企業と顧客を結ぶデザインの役割は、目的の分析と整理かたはじまり、企業哲学を十分に把握したプロダクトアイデンティティー(PI)の価値構築をしなければならないと強く意識し、統合的なデザインマネージメントをこころがけるようになった。

この考え方は、1955年から輸出用高性能スピーカに使われたロゴPanasonic 「目には見えない音を事業とする」ラジオ事業部、ステレオ事業部の先輩方のものづくり姿勢と多くの言葉からであった。

その姿勢とは、筆者が松下在職当時の1970年に事例がある。 ヨーロッパ向けアンプとチュナー開発プロジェクトのNational/Panasonic SA-73 デザインを担当した時の事です。

National/PanasonicSA-73

SA-73を開発時に、見えない音の価値表現でラジオの外観が素晴らしくても音質が悪ければ商品にならない。「音響商品の価値は総合的バランスこそ重要、だから 意匠と音の総合的な整合性を計らなければならない。」と言われた。その言葉は、衝撃的で忘れることはできない。この言葉は、当時アンプの責任者であった中根清氏の言葉である。氏は、事業の総責任者であり、上司でもありました。

中根清氏は後、松下電器産業のデザインセンター所長という重責に就かれた。退職後、総合デザインDASの専務理事、その他多くの大阪デザインの重鎮として活動されました。

在職中のみならず、退職後も一般社団法人総合デザイナー協会DAS入会の推薦人など37年間、公私ともにお世話になった人生の師であります。

松下電器産業は、人を育てる会社でもあったと今でも確信している。


筆者の松下電器時代の主な業績

1965-1966年 導入研修
1966年 セパレートSE-510 アンサンブル潮デラックスの開発
1968から69年 国内向けSC-720Mシンプルなデザインで中級機としてヒットとなる(社長銀賞)
1968~9年 米国向けステレオミュージックセンターSE-840(1970社長銀賞)・SE-850(1971社長銀賞)円型スピーカ、円型ダイヤル等ユニークなデザインと大好評
1969年 テクニクスはステレオ事業部に移管される。
1969年 テクニクスSC-430  4点モジュラー開発、好評、
1969年 ドームスピーカーシステムSB-100 SB-500 SB-700等の発売でオーディオメーカーとして地歩固まる社長金賞受賞
1970年 輸出向けFM/AMステレオミュージックセンターSE-840M社長銀賞受賞・SE-850M社長銀賞受賞
1973~5年 創造性の開発 NO-1∼3受講 産業能率大学 亀崎恭尚研究員  松下電器工学院
1974~5年スピーカーシステムSB-7000 
一挙にテクニクススピーカイメージUP(社長金賞)続いて、
SB-6000のデザイン開発をおこなう
1975年「コンポが立った、コンポが立った」 CMで爆発的人気V3、V5、V7
1978年 生活のサイズを意識した世界初のSB-F1、SB-F2、SB-F3ダイキャストミニスピーカをデザイン、全世界で大好評、市場初60万台販売。
1979年業界初のハニカムディスクスピーカSB-10、SB-7、SB-5をデザインする。
1981年 業界初のハニカムディスクスピーカモニターSB-M1開発
1982年 イタリア・ミラノ、SIMUショーでSB-10,SB-7デザイン賞受賞
1983年 退職最後のプロジェクトとしザ・コンサイス SA-007デザイン開発 
1983年 ミュンヘン応用美術館 SB-F1,SB-F40永久展示となる
1980~83年 通産省Gマーク推進担当として活動、テクニクス商品を業界TOPにすると共に松下電器の選定率No,1とした。
1983年 松下電器株式会社退社

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