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英語版ウィキペディア翻訳/ティーガーI重戦車その3(終)

この記事は上記の記事の続きです。


(ティーガーという)強力な新兵器の利用を熱望したヒトラーは、この車両を計画よりも数ヶ月早く就役させることを命じた 。 4両のティーガー小隊は 1942年9月23日にレニングラード近郊で活動を開始した。湿地帯や森林地帯での活動だったため、ティーガーの移動はほとんど道路や線路上に限られたので、ティーガーに対する防御ははるかに容易であった。これらの初期モデルの多くはトランスミッションの問題に悩まされていた。操縦手がエンジンとトランスミッションに過度の負荷をかけない方法を学ぶのに時間がかかったため、多くが故障した。この交戦で最も重要な出来事は、ティーガーの1両が沼地で立ち往生し、放棄しなければならなかったことだ。ティーガーをほぼ無傷で捕獲されたことで、ソビエトは設計を研究して対策を練ることができた。

第503重戦車大隊は、1942年秋にドン戦線に配備されたが、スターリングラード解放のための冬の嵐作戦に参加するには遅すぎた。その後、1943年1月と2月にはロストフ・ナ・ドヌとその隣接地区で激しい防衛戦に従事した

北アフリカ戦線では、ティーガーIはチュニジアの戦いの中、1942年12月1日に、テブルバの東で3両のティーガーがジェダイダの西5kmのオリーブの木立を攻撃した際に初めて活躍した。ティーガーは80~100メートルの距離から多数のM3リー中戦車の攻撃を受けた。リー中戦車のうち 2両はこの戦闘で撃破された。ティーガーは敵の砲火からの防御力が優れていることを証明し、乗組員の装甲の質への信頼を大きく高めた。 連合軍の砲による最初の損失は 1943年1 月20日にロバア近郊であった。2月末に行われたオクセンコプフ作戦でベジャへの攻撃に失敗した際に、7 両のティーガーが地雷によって不動化された。

1943年7月、ツィタデレ作戦に参加した 2 つの重戦車大隊(第503重戦車大隊と第505重戦車大隊)は、クルスク要塞の北側(第505重戦車大隊)と南側(第503重戦車大隊)にそれぞれ 1 つずつ大隊が配置され、クルスク要塞を包囲攻撃するために計画された作戦に参加した。しかし、この攻勢作戦は失敗に終わり、ドイツ軍は再び防戦側となった。その結果、多くの故障したティーガーが失われ、大隊は必要な整備や修理を行うことができなかったため、戦車は放置された。

1945年4月11日、ティーガーIはと街道を前進するM4シャーマン中戦車3両と装甲車1両を破壊した。 1945年4月12日、ティーガーI(F02)はコメット巡航戦車2両、ハーフトラック1両、偵察車1両を破壊した。 このティーガーIは翌日、第3王立戦車連隊のA中隊のコメット巡航戦車によって、歩兵の支援を受けることなく破壊された。

(ティーガーは)戦車の重量のため、橋の使用が大幅に制限されていた。そのため、ティーガーは水密構造のハッチと水深4メートルの(川という)障害物を乗り越えるためのシュノーケル装置を装備していた。また、戦車の重さのため、地下室があると突然落下する可能性があるため、建物の中を通るのは危険であった。もう一つの弱点は、油圧式の砲塔の移動速度が遅いことだった。250両のティーガーの最初の生産バッチ用に納入されたマイバッハHL 210 TRM P45は信頼性の問題により、高ギア比での最大出力の性能を満たすことができなかった。 マイバッハのエンジンは最大3000rpmまで吹かすことができたが、乗組員はティーガーフィーベルで2600rpmを超えてはならないと教えられていた。エンジンの制限が緩和されたのは、(新型の)マイバッハHL230の採用によってであった。 イギリス陸軍の試験報告書によると、ティーガーE型の砲塔は、動力旋回装置をハイレシオに設定し、エンジン回転数を毎分2000rpmに設定した状態で、毎秒19度の速度で360度回転することが示されている。 砲塔は手動で旋回することも可能であったが、このオプションはごくわずかな調整を除いて、ほとんど使用されなかった。

初期のティーガーの最高速度は、最適な地形で時速約45キロ(28マイル)であった。このような速度は通常の運用では推奨されず、また訓練であっても推奨されなかった。その後、エンジンガバナーが取り付けられ、エンジンの回転数は2600rpmに制限され、ティーガーの最高速度は時速約38km/hにとなった。ティーガーの乗組員の報告によると、典型的なオフロードでの行軍速度は時速10キロであったが、シャーマンやT-34のような当時の中戦車の最高速度は平均して時速約45キロであった。このように、ティーガーは(それら戦車と比べて)約2倍の重量があるにもかかわらず、その速度は比較的妥当なものであった。 ソ連の T-34 から借用した設計上の特徴である、非常に幅の広い履帯を持つティーガーは、M4シャーマンのような多くのより小型の戦車よりも低い接地圧を持っていた。

ティーガーI戦車は高度な支援を必要とした。(ティーガーを牽引するには)ドイツの標準的なSd.Kfz.9「 Famo」重回収ハーフトラック式トラクター2台で、時には3台で牽引する必要があった。ティーガーの乗組員は、損傷した車両を牽引するために別のティーガーを使用することもしばしばあったが、オーバーヒートやエンジンの故障の原因となることが多いため、これは推奨されていなかった。(ティーガーは)低位置のスプロケットのため、障害物を突破できる高さが制限されていた。また、履帯はリアスプロケットをオーバーライドする傾向があり、不動の原因となっていた。履帯が過負荷で動かなくなった場合、通常は戦車を牽引するために2台のティーガーが必要だった。また、履帯のテンションが高いため、履帯のピンを外しても履帯を分割できないことが多く、不動化した履帯も大きな問題となった。履帯は小型の爆薬で吹き飛ばされることもあった。

1943年後半のティーガー戦車の平均信頼性はパンターと同程度の36%であったが、IV号戦車は48%、III号突撃砲は65%であった 。西部戦線でのティーガーの運用可能率は平均70%で、パンターの62%と比較して優れていた。東部戦線では、ティーガーの65%が運用可能であったのに対し、IV号戦車は71%、パンターは65%であった。

ティーガーは通常、陸軍司令部の指揮下にある重戦車大隊(schwere Panzer-Abteilung)に所属していた。これらの大隊は、突破作戦や、より一般的には反撃のために、重要な区域に配備された。グロースドイッチュラント師団、第1SS「ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー」師団、第2SS「ダス・ライヒ」師団、クルスクの第3SS「トーテンコップ」のようないくつかの好ましい師団は、その戦車連隊にティーガー中隊を配置していた。グロースドイッチュラント師団は、ティーガー中隊をグロースドイッチュラント戦車連隊第三戦車大隊として大隊規模に増強した。第3SS「トーテンコップ」は第二次大戦中ずっとティーガーI中隊を維持した。第1SSと第2SSはティーガー中隊を取り上げ、第101SS重戦車大隊に編入したが、これは第1SS装甲軍団の一部であった。

ティーガーはもともと攻撃的な突破兵器として設計されていたが、戦場に登場する時には軍事状況が劇的に変化し、主な用途は対戦車と歩兵支援の機動支援兵器としての防御行動になっていた 。 戦術的には、これは突破を図る敵の兵器を迎撃するためにティーガー部隊を常に移動させることを意味し、過剰な機械的摩耗を引き起こした。その結果、ティーガー大隊が全戦力に近い状態で戦闘に参加した例はほとんどない。

ソ連と西側の連合軍の生産数に対して、ティーガーのキルレシオは10:1であったがこれでも十分ではなかった。これらの数字は、高価なティーガーの機会費用と比較しなければならない。すべてのティーガーは4両のIII号突撃砲と同じくらいのコストがかかっていた。

英国は1940年以降、ドイツのAFV(装甲戦闘車両)の装甲と火力が徐々に増加しているのを見て、より強力な対戦車砲の必要性を予見していた。1940年後半には口径76.2mm のオードナンスQF17ポンド砲の開発が開始され、1942 年には新たなティーガーの脅威に対抗するために初期生産の100門が北ア フリカに急遽配備された。砲架はまだ開発されておらず、QF25ポンド野砲/榴弾砲の砲架に搭載され、「キジ(Pheasant)」というコードネームで知られていた。

17ポンド砲を搭載した巡洋戦車の運用が急がれた。A30チャレンジャーは 1942年にすでに試作段階にあったが 、この戦車は比較的無防備で、前部車体の装甲厚が64mmであり、最終的には限られた数しか実戦投入されなかった(約200両が1943 年に発注された)が、乗組員たちはその高速性を気に入っていた。17ポンド砲を搭載したシャーマン・ファイアフライは、その場しのぎの設計であったにもかかわらず、注目すべき成功を収めた。ある交戦では、ファイアフライ1両が、12 分間の戦闘で5発の射撃にて3両のティーガーを破壊した。戦争中に2000両のファイアフライが生産された。戦争中に5種類の17ポンド砲を搭載したイギリスの車両が戦闘に参加した:A30チャレンジャー、A34コメット(OQF 77mm HV バリアントを使用)、シャーマン・ファイアフライ、17pdr SPアキリーズ、17pdr SPアーチャーであり、一方もう一つのA41センチュリオンはヨーロッパの戦争の終結に合わせて就役しようとしていた。1944年、イギリスは17ポンド砲用のAPDS弾を導入し、貫通性能を大幅に向上させた。

当初、ソビエトはティーガーIに対応するために57mm ZiS-2 対戦車砲の生産を再開した(初期のドイツ戦車の装甲にはこの砲の性能が過大であったため、ソ連軍はより安価で汎用性の高い代替品、例えば ZiS-3のようなものを好んで1941年に生産を中止していた)。ZiS-2は、赤軍のほとんどの戦車に使用されている 76mm F-34 戦車砲や ZiS-3 76mm 師団砲よりも装甲貫通力に優れていたが、ティーガーに対してはまだ不十分であった。少数の T-34 には ZiS-2 の戦車版である ZiS-4が再び装備されたが、十分な威力の榴弾を発射することができず、不適切な戦車砲となった。

新しい 85mm D-5Tの発射試験もまた、期待外れの結果となった。鹵獲されたドイツのティーガーI戦車はチェリャビンスクに輸送され、様々な角度から85mm砲を浴びせられた。ティーガーI自身の88mm砲の致死範囲内以遠では、85mm砲はティーガーIの装甲を確実に貫通することはできなかった。この砲は、1943年8月から SU-85自走砲(T-34のシャーシをベースにしたもの)に当初使用されていた。IS-85砲塔に85mm D-5T を搭載した KV重戦車の生産も開始された。1943年9月から戦線に派遣され、1943年12月までに生産が終了した148 両のKV-85戦車の生産は短期間であった 。T-34/85はSU-85の火力に匹敵するが、(車体固定式ではなく)砲塔に砲を搭載できるという利点があったため、KV-1生産減少の前触れとなった。IS戦車はその後、122mm D-25Tを搭載して再武装され、BR-471のAP弾を使用して1200m からタイガーの装甲を貫通することが可能となり、そして改良されたBR–471B APHEBC弾では2000m以上で貫徹可能であった。余剰のSU-85はSU-100に置き換えられ、100mmのD-10戦車砲を搭載し、1000mで149mmの垂直の装甲板を貫通することができるようになった。

1943年5月、赤軍はSU-152を配備し、1944年にはISU-152に置き換えられた。これらの自走砲はいずれも152mm口径の大型榴弾砲を搭載していた。SU-152は対戦車ではなく、ドイツのトーチカに対する近接支援砲(CS gun)として使用されていたが、後に配備されたISU-152と共通して、ドイツの重戦車を撃破する稀有な能力を持つことから「猛獣殺し(Zveroboy )」の愛称で呼ばれた。152mmの徹甲弾は重量が45kgを超え、約1000mの距離からティーガーの正面装甲を貫通することができた。その榴弾は戦車に大きなダメージを与え、時には砲塔を丸ごと引き剥がしてしまうほどの威力を持っていた。しかし、弾薬の大きさと重さのため、両車両の射程は低く、それぞれ20発しか搭載できなかった。

1944年初頭までの戦闘で、75 mm M3砲がドイツ戦車の脅威を処理するのに十分すぎることを示したため、米陸軍は76 mm M1砲がすでに利用可能であったとしても、実戦配置することを躊躇してた。この結論は、ティーガーが比較的少数なのであまり遭遇しないだろうという正しい予測と、戦車ではなく対戦車砲の射撃(チュニジアやシチリアのように)がティーガーを打ち負かすことができるという仮定に部分的に基づいていた。


終わり。

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