「斬奸討」


 生きているうちに、私に友達ができるなんて思っていない。
 なにしろ、自分は産まれてから道場で竹刀を振り回し木刀を振り回し、今となっては真剣を振り回していたのだから当然だ。現代で”斬奸”になろうとするほど愚かなことはない。心技体を鍛える剣術家や隠棲する山伏とは違い、単純に人を斬り殺す技術を学び、それを実践するだけの殺人者なのだから。
 もっとも殺人者とは言っても斬る相手は選ぶ。斬奸が斬ってよいのは斬奸状の出ている相手だけ。いわゆる生死問わずの指名手配犯だけだ。大抵は法律で認められた武器を振るって、複数の市民を殺しただけの通り魔相手だが、稀に本物の殺人鬼もおり飽きさせられない。

 飛翔剣の能島、逆さ抜きの垰風、斬骨の蝮原。そういう忌み名のつくほどに人を斬り殺し続けた時代外れども。警視庁からは疎ましいこと極まりない連中をなんとかしようと、自分たちのような表向きはまともな連中を斬奸と呼び殺し合わせる。いつの時代も警官の数だけは、犯罪者の数を下回るのだから、市民を武装させようとする流れができたのも仕方が無いのかもしれない。最終的にはきちんとした銃器を揃えた特殊部隊を使って、斬奸も根切りにされるのだろうが、それがいつになるのかわからないほどに殺人鬼が増えてしまったのが現代の日本なのだ。
 私も子供の頃から斬奸になるべく、道場にぶち込まれて棒振りだけを延々とさせられたのだから、夜の治安がどうなっているのかは察してほしい。これって子ども兵という奴ではないのだろうかと子供お悩み相談センターに聞いたら、日本では児童労働に関しての制限が非常に曖昧であることから成り立っており、問題はないと言っていた。完全に大人の事情である。

 ただ、不安定な治安の中で指名手配犯を斬り殺す賞金稼ぎの子供という生活はそこそこ気に入ってはいた。日中は複数の浮浪者のたまり場で指名手配犯の情報を収集。深夜は刀を担いで徘徊だ。格好をつけた斬奸は警邏と呼んでいたが、私としては気に入っていない。警邏中に人を斬り殺す奴がいてたまるかと思うし。そうやって徘徊しているとわかるのだが、通り魔なんかは路上で無防備に寝ていることが多い。そして、大抵の斬奸に寝ている所を襲われて死ぬのだ。連中は自分を夜間に襲う側だと思っているから、夜中でも平気で安眠している。とても不思議なことだ。
 そして、殺人鬼の方はというと、いつでも熟睡することなく剣を構えたまま座って寝る。半端者が襲おうとすれば気配を感じて、即抜刀。逆に不意をうって斬り殺すというのが、本物の殺人鬼なのだからたまらない。私は本物に出くわすために斬奸を続けているようなものだが、一般的な斬奸集団はそういう瞬間を見るとたまらず逃げ出してしまうそうだ。そして、どこかしらで噂が流れる。抜き打ちの何某がいると。それを聞いた浮浪者は、自分たちの安全のために私に情報を流す。私は出向いて、斬り殺して金子を得る。お互いに利益を享受しあえる素晴らしい関係だが、そこに友情はなかった。むしろ、私が友情を感じるのはいつだって本物の方だ。

 夜中に出向いてから、ほのかに住宅街の方から明かりがつきはじめる。そんな夜明けまで斬り合いを続けてしまうと、本物の殺人鬼とはいえ意思疎通がなんとなくできるようになる。この一撃で決着をつけようとか、今日はやめておこうとか、お互いの予定の摺り合わせだ。ここ最近になると一人の相手と毎晩のように斬り合ってから、一緒に朝焼けを眺めてしまっている。お互いに夜中のうちは太刀筋の読み合いをやっていても、決まって最後は朝の美しさについて語り合う相手。「私達はまるで友達のようだな」と私が告げると、彼は「戦友なんだろ、俺達は」と笑ってくれた。それはなんだか夕陽を背にして殴り合ってからわかりあう友情にも似ていて、私にとっての青春だったのだと思う。

 そして、昨晩に彼が他の斬奸に殺されたという連絡が届き、私は再び刀を手に取った。