「父親の育児参加の是非」について

こんにちは、着太郎 (@192study) です。

6歳未満の子供を持つ夫の家事・育児関連時間が先進国中で最低の日本(「夫の協力: 子ども・子育て本部 - 内閣府」参照)では「父親の育児参加」は重要な課題です。

「主夫の日々」で著名な河内瞬さんの以下の記事を拝読して、「父親の育児参加」という点で潜在的な問題と気になる箇所がありましたので思ったことを記事にしました。

父親の育児参加の是非

河内さんは冒頭で「間違った育児は子供との間に溝を作る」と述べられています。これに異論はありません。しかし、果たしてこれは「父親」であることが原因になるでしょうか。

「父親の育児参加」と銘打っているため、単純に「そういう考え方もあるよな」と流すわけにも行かないので少し整理してみたいと思います。

それは本当に「父親」が問題なのか

俺の父親は家事も育児も参加していた。

なんだ、良いお父さんじゃん。(お約束)

還暦は過ぎているでしょうから、父親が家事に育児となるとその時代の方としてはかなり先進的ではないでしょうか。河内さんが主夫として主体的に家事育児されるのもそういう土台があってのことと想像されます。

ちなみにうちの父親は時代に違わず家事育児は担っておらず、重要事項の意思決定と、就学後に書店、秋葉原、旅行に連れて行ってくれるのみでした。

俺の父親は確かに家事にも育児にも参加したが、いかなる時も全部自分の物差しで動いていた。

「自分の物差しで動くこと」を「意思決定や価値判断」と解釈すると、それらは「切断」に象徴される男性性父性性と捉えることができます。

河内さんが「父親」と断定されているのも、実際の父親が「男性的な」強いリーダーシップによって子どもの安全を選別したことを強く感じたためではないかと想像します。しかし、これは果たして「父親」の問題なのでしょうか。

大橋, 浅野 (2009)「親性とそれに類似した用語に関する国内文献の検討 —親性の概念明確化に向けて—

大日向 雅美 (1990)「いま父性に求められるもの

取り上げられたゲームや玩具やテレビ

独断と偏見で悪影響だと判断したら、俺がどれだけ好きでハマっていようが、世間でどれだけ流行っていようが、無慈悲に俺から取り上げた。
その対象は子供達が大好きなゲームであったりおもちゃであったりテレビであったりしたので、クラスのみんなが楽しそうに話しているのを輪の外から見ているしかなくなった。そして俺と父親の間には徐々に、しかし確実に溝はできていった。

ご自身でも「育児は結果論」と述べられているように、厳密に考えると何を持って「独断と偏見」と判断するかは割と難しいところかなと思います。

それはともかく、ゲームや玩具やテレビを取り上げられて輪の外から見てるしかなかったことが問題として語られていますが、ゲームやテレビを無理に禁止すると悪影響の方が大きいとする研究も増えてきたかと思いますし、結果論として良い判断ではなかったかもしれません。

しかし、これは母親であっても全く同様ではないでしょうか。教育ママの母親がテレビやゲームの悪影響を心配して禁止することは珍しいことではないように思います。

「禁止」は確かにその権力性や強制性から「男性的」に感じることはあるかと思いますが、特に父親のみが担うものではないはずです。

非認知能力を育てるための邪魔しない育児

親がすべき育児は結局「子供の邪魔をしない」ことだけだ。

昨今「非認知能力」が注目を集めていますが、「子供を色々なことにチャンレンジさせる環境を作る」ことが近道であることは同感です。ただ、それは生まれつき主体性がある子どもだったり、発達に問題がないことが前提となるとも思います。

環境に対してセンシティブな子どもがいたり、経済的に十分な環境を用意できない場合もあるかと思います。原則論としては同意できますが、「子供の邪魔をしない」ことだけが絶対的な正解かというとなかなか難しいものがあります。

「当たり前」論は止めよう

乳幼児期の育児は夫婦2人でするのが当たり前。

本筋とは関係ないのですが、これに限らず「当たり前」論に論理的正当性はないので世の中全般的に止めていただきたいなと思っています。

当たり前ならなぜ当たり前なのかの理由を述べるのが望ましく(ブログ内で長らく語ってきたという自負も大きいのかと思いますが)、自身の主張を強弁するのに「当たり前」で切って捨てるのは論理的と評価するのが難しくなります。

夫の家事・育児関連時間が先進国中で最低という現状では厳しく叱責したくなる気持ちも分かりますが、歴史的、文化的、社会的経緯が背景としてそこにあり、これを個人の問題に落とし込むのは社会的貧困を個人の責に帰するのと同じように個人の負担が大きいように思います。家事育児に価値を見いだせた男性は、単に運良くそれを知る機会があっただけに過ぎません。

個人的には「乳幼児期の育児を夫婦2人でする」のが「当たり前」とするのは難しいと思っています。現状の日本社会ではあるいはその方が好ましいかもしれませんが、そもそも夫婦2人だけで対応すること自体に無理があり、本来は社会的に対応するべき事のように思います。

父親の課題

特に父親がサラリーマンで子供と接する時間が少なかったり、先輩・上司や親などの上の世代から余計な話を聞かされたりすると、それが基準だと思って子供に接してしまう。その結果子供に対して過干渉になったり、新しいものを無条件で悪と決めつける土壌が出来上がってしまうわけだ。

「先輩・上司や親などの上の世代から余計な話を聞かされたりする」ことはあるかと思いますが、これは逆もしかりで、根拠としてはどうでしょうか。現実的にそういうケースが多そうというのも否定はしがたいものはありますが。ただ、むしろ専業主婦や専業主夫の方が周りからの客観的な意見を聞く機会が少なく、古い価値観を踏襲し続けるリスクもありますし、根拠としてはやはり弱いように思います。

一般的な家庭で父親が「子供と接する時間が少ない」ことは避けがたいですが、それが何らかの基準になって過干渉になる、というのは少し論理に飛躍があるというか、論理的なつながりが理解できませんでした。

時間の問題は一般的な父親の課題として避けがたい大きな問題ですし、父親の能力によっては少ない接触時間で子どもを十分観察せずに機械的に判断や教育を行ってしまうだろうことは想像に難くありません。そういう意味では現代日本の一般的な父親の置かれた環境として注意するべき課題と言えるかも知れません。しかし、子どもへの影響力という意味ではむしろ接触時間の長い(記事の前提では)母親であり、これらの論拠を持って「父親の育児参加の是非」自体を問うのは少し難しいように思います。

育児は結果論か

人生は結果論、みたいな話は分かりますが、育児論を打つのに結果論を持ち出すのは流石に厳しいものを感じます。
責任を感じすぎるのは確かに問題ですし、責任を放棄しすぎるのも問題です。あえて言えば、「育児で最も大事なことはバランス感覚」ではないでしょうか。

父親の育児参加の潜在的な問題

問題の記事はあくまで河内さんのお父さんが過干渉だった、といういわゆる毒親の話であり、一般論としての父親の育児参加については注意事項程度に帰結するかと思います。

父親に対する複雑な感情というのは多かれ少なかれ多くの人が持つかと思いますし、例えば精神分析学ではエディプスコンプレックスなどとピックアップされたりもします。ロールモデルとしての父親像がイメージできずに、あるいは偏ったイメージしかできずに苦労される方も少なくないのではないでしょうか。

父親が担うべき役割は何か、という前提がはっきりせず、また父親が実際に担い得る役割に社会的制限の多い世の中で、どのように父親が育児に参加し得るか。父親の育児参加はこのような潜在的な問題を前提に、様々な視点から幅広く考える必要がありそうです。

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