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第12回 刺青とメディア展開

凡天太郎(初代 梵天太郎)は伝統を重んじる世界で

・和彫りの世界にタトゥーマシンを持ち込む
・墨と朱以外の色を持ち込み多色彫りを行う
・刺青の下絵を肌に写す転写シートの開発

と次々と技術革命を起こしました。
さらに凡天太郎の刺青について、晩年最もかかわりの深かった雑誌『実話ドキュメント』の篠田邦彦編集長はこう指摘しています。

昭和の時代に伝統芸術といわれるような彫り物の世界で革新を起こして定着させたということは凄い功績なんだよ。いまだに梵天系統の絵柄は嫌いだって人はいるかもしれないけど、じゃあ他は伝統図柄を頑なに守ってるかというとそうでもないわけ。

要するに国芳、北斎、その手の物を模写して、それを刺青に合うように作り直して図柄に描いている訳で、忠実に表現してるかっつったらそうでもない。浮世絵の世界を肌に入れるところから、それを乗り越えちゃったわけ。自分で想像したものを彫り物にするっていう。

それまでの人たちって、国芳、北斎、その手の物をもとにして、その上手い彫師の弟子が原画をもらってそれを(下の世代に)繋げていったわけ。で、いろんな手を加えるんだけれども、やっぱり元の絵からは離れられない。

だけど凡天さんはまるっきり新しいものを作っちゃった。

だから…、劇画だからね…顔が。これは日本画にはなかったものだから。

自分で創造して産み出したものだから。そういう意味では偉大な先駆者よ。

凡天太郎はオリジナルの下絵を産みだし彫るという、伝統芸術を根幹から揺るがすような表現を行ったのです。

異端児と呼ばれる所以はまだあります……

いま刺青師は全国で二十人くらいしかいない。関東でもわずか五、六人くらい。それもみなおじいさんである。私はいま三十九歳、全国でいちばん若いと思う。刺青師は秘密主義で、ちょうど京都の西陣がそうであるように、自分の技術は他人に教えないので、なかなか若い人は育たない。

私は子供のころから絵が大好きであった。よく銭湯で、ものものしい刺青をした人をみるとぞくぞくと絵画的な創作意欲がわいてきたものである。

私が京都美大で絵を勉強していたころ、下宿の近くに「刺青金」というおじいさんの刺青師がいて、手をとり足をとりいろいろ教えてくれたので、だんだん興味をもち、絵の勉強以外に、刺青を自分でやらなければ気がすまなくなった。

当時の世相はめちゃめちゃで、私自身特攻隊くずれで、気持ちがすさんでいてやけっぱちになっていた。まさかふつうのサラリーマンに刺青を刺らしてくれと頼むわけにはいかないので、巷の兄い連と付き合いをもつよりしかたなかった。

そんなことで二、三知り合いができ、やっているうちに、どうせやるなら本格的に修行してやろうと、針をもって各地の親分をたずね、東北をのぞき全国を歩いた。田舎へ行き、赤提灯かバーで「このへんの親分はだれか」ときけばすぐわかる。

田舎の若い衆には桃を刺ったりいたずらをしているものがいる。親分のところへほんものの刺青師がきたなら、竜を刺ってくれ、獅子を刺ってくれということになる。それが私の修行になった。

田舎の人はからだを酷使したり、日焼けしている人が多いので、皮膚が荒れていて、墨を入れてもくすんだ色になってしまう。ところが、いわゆるヤクザといわれる人がきれいなほりものをしている。というのは彼らは肉体労働や神経労働をしないで、うまいものを食って、花札をするとか、指先ぐらいしかつかわないからである。

女の人はがいして餅肌で美しいが、男の人でもきれいな肌をしている人をみるとお金はいらないが針を刺してみたい。きれいな肌の人は針を刺した瞬間、吸い取り紙にインクを落としたように、墨がパッとにじんでいく。

ところが墨がはいっているのかいないのかわからないような人はこっちがいやになって、途中で来なくなってくれればいいと、苦痛を感じる。

(凡天太郎「私は三百の人肌に刺青を彫った」より:『20世紀』(20世紀社)1967年12月号)

これは昭和36~40年にかけての刺青修行の旅を終えて、間もなく発表された凡天太郎による手記です。当時は刺青師の存在が稀有な上に、メディアに登場して発言する人物はいませんでした。自らが先頭に立って様々なメディアに出演し自分自身が世に浸透すれば、刺青を大衆へ浸透させることができると考え、刺青の広告塔になろうとしたのです。

昭和45(1970)年頃からは演歌歌手としての活動もスタート。最初のリリースとなった『刺青師一代』はビクターから「混血児リカのテーマ」を含む四曲入りのカセットでした。このカセットは未確認ですが、当時のプロモーションで北島三郎の演歌テレビ番組「サブちゃんの演歌大勝負」や「23時ショー」などテレビ出演を多くこなした写真が残っています。

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この『刺青師一代』のプロモーションでは芳文社『週刊漫画times』にやまおか玲次による凡天太郎の自伝マンガ「肌絵流し」が掲載されています。

肌絵流

凡天が「肌絵」という造語を意識的に用いていたのも、刺青=犯罪者の烙印というイメージを拭い「刺青の大衆化」を進めるためでした。

特に絶筆の直前からは、自身が刺青の広告塔になるべくバラエティ番組のゲスト出演、雑誌連載や対談、新聞記事など積極的に出演し凡天自身を売り出すようになっていきます。

そして映画という大掛かりな表現手法で、新しい時代の幕開けを世に知らしめようとした渾身の力作が現在クラウドファンディング実施中の凡天太郎監督作『刺青』です。

本作の解説は本邦初のタトゥー情報専門誌『TATTOO BURST』元編集長、現在はタトゥーに関する執筆や調査研究員として活動中の川崎美穂さんのコメントが素晴らしいので是非読んでみてください。

そして昭和59(1984)年凡天太郎が約20年に渡って関わる雑誌『実話ドキュメント』が創刊します。任侠団体や暴力団や政治結社に関する情報誌として知られていますが、『月刊実話ニッポン』の増刊『事件ニッポン』を前身として猟奇犯罪、残虐事件、芸能ゴシップを中心とした内容からスタートしました。山一抗争の激化とともに暴力団関連の記事の比重が多くなり方向性が定まったようです。

惜しくも2018年5月号をもって紙媒体としての発行を終了した『実話ドキュメント』はタフな男の総合生活娯楽情報誌を掲げ、アウトロー系実話誌の中でも、右翼団体と刺青に関する記事に力を入れており、刺青に関してはいち早く衛生管理に関しての記事を掲載するなど確かな目を持っている雑誌です。

女性彫物グラビア「刺青妖花」は、多色彫りで身体を飾った女性をグラビア記事として掲載。様々な彫師の作品と連絡先を記載し、業界自体を活性化させる画期的なコーナーでした。彫師へのインタビュー記事や分身会のイベント記事など。

凡天太郎の悲願だった刺青に関する情報を発信するメディアという側面も持っていました。

昭和61(1986)年7月号で編集長に着任後休刊まで編集長を務めた篠田邦彦氏にお話しを伺いました。

――篠田さんが『実話ドキュメント』に関わり始めたのはいつからですか?

昭和60(1985)年頃からやり始めたんだよ。30歳手前の頃かな。実質、その前くらいからやり始めているんだけれども。その頃、凡天さんは50半ばだったんじゃないかな。『実話ドキュメント』は初代が梶川良、二代目が井上公造、私は三代目。初代の梶川良は他にもいろんな雑誌を立ちあげては潰してを繰り返していた。『実話ドキュメント』も半年くらいで、凡天さんの息子の一色志のぶ(石井マキオ)と私が一緒に仕事していた編集プロダクション「ハロー企画」が『実話ドキュメント』を居ぬきで買い取った。その時に今は芸能リポーターをやってる井上公造もいたんだけど、サンケイの記者になるとかで辞めて昭和61(1986)年頃に私が編集長になって30何年か経った。息子(一色)が、そのハロー企画のオーナーだったんで、その関係で凡天さんにいろいろ手伝ってもらったみたいなとこかな。

――凡天さんは立ち上げから居たわけではないんですね。

記事の中で右翼とかヤクザのインタビュアーとコーディネイターとして使っていた。その世界のことはわからなかったから、何か問題があったらすぐ親父に頼めって言うんだけども、そんなんで解決するような問題でもないわけよ。ヤクザにしても、右翼にしても…。ただ、その中でインタビュアーとしてコーディネイターとしてはいろいろやっていただきました。文章は書かないから、文字に起こすのはこちらでやっていたけれども…、小説は自分で書いていたけどね。

最初の結婚時の息子 石井マキオは一色志のぶという名前で編集プロダクションを興し、広く業界の内外にその名を知らしめたヤクザ雑誌『実話ドキュメント』の発行人になっていたのです。

(つづく)

映画『刺青』について

この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。

ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!




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