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まちづくりコミュニティのつむぎ方 -30年続く3つの物語-

唐突ですが、あなたの周りには、志を引き継いでくれる人たちはいますか?

  私の母、大村みつ子(1933~2017)は、84歳で亡くなるまで、30年にわたり盛岡で複数のまちづくりコミュニティを企画していました。 うち、3つは現在も活動が続いています。まだワークショップが日本にひろまる以前からのものですが、まちづくりやコミュニティ企画にご興味のある方に、参考になることがあれば嬉しいです。では、私が帰省時、写真のイングリッシュガーデンで聞いてきた物語をお伝えします。

盛岡らしい景観を大切にする 「街づくりわいわい塾」の物語

名前の通り、どなたも参加できる学びの場です。「〜らしさって、なんだろう?」がテーマです。

始まりの物語は、1981年まで遡ります。大宮-盛岡間の東北新幹線開業を翌年に控え、街は再開発が進んでいました。そんな折、「テニス主婦」だった母が岩手県の婦人留学生としてに2週間、ヨーロッパに出向きました。

帰国後母は、盛岡のまちづくりは「街の景観は、市民の共有財産」、「保全こそ、最善の開発である」、さらに「歴史ある街並みや、自然など環境に感じる『快適さ』を大切に!」と呼びかけました。

まもなく盛岡市上田公民館とコラボし、「街づくりわいわい塾」を発足します。

30年以上たった2019年度も街づくりわいわい塾は、年間10回、日帰り研修旅行を挟んだ連続講座を企画、運営しています。景観だけでなく歴史や気候風土も学び、「らしさ」を探求していく構成です。

以下は、2013年の街づくりわいわい塾の研修旅行の記事です。母は、当時80歳。


歴史と文化を学び、まちづくりに還元する「盛岡ひ・ストリー」

これも名称の通りで、街の物語を発掘し、まちづくりに活かそうという取り組みです。

高度成長期も落ち着いた頃、私たち家族は盛岡市前九年町に移り住むことになりました。町名は、平安時代後期に「前九年の役」がこの地で終焉したことに由来します。「厨川の柵」という広大な古代城柵が拡がっていたらしいのですが、史跡に認定されることなく看板1枚、立っているだけです。敗者の歴史は残らず賊軍扱い、あげく「鬼呼ばわり」されることに母はモヤっとしたようです。

1988年から、母はこの地を知り散策したい人のために手書きのガイドブックを作り(写真左)、文具店に置いてもらいました。ガイドブックがなかったため好評で、次第に共感者の輪が広がっていったのです。

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町内のコミュニティセンターでは、地域の歴史学者で既に岩手大学を退官されていた板橋 源先生に学ぶ場が開かれました。1990年、講義録と質疑応答を「盛岡ひ・ストリー」の名で(写真右)1冊の本にまとめ、出版しています。編者である母は、あとがきで「まちづくり運動」と明言しています。

私どもは歴史の大好きなまちづくり運動のグループです。名称は、盛岡のひすとりーとストーリーの組み合わせですが、これは、歴史を掘り起こし、その町(地名)の物語について、歴史の先人から学びまちづくりを考える拠りどころにしようという願いから発した県民運動です。

この考えは「歴史と文化を活かしたまちづくり」として注目を集めたようで、母は盛岡ひ・ストリー代表として西は四国高松までも講演を依頼されるようになります。郷土史に興味を持つ人は、(私もそうですが)感情移入してしまうようで、細くても遠くにとどく繋がりができました。出版後、母のもとに全国から1,000通あまりの書簡が寄せられました。コミュニティに加わるまでではなかったようですが、他県の議員さんが自宅にふらっと立ち寄り、案内を頼まれたこともあったといいます。

「歴史と文化によるまちづくりって具体的にどういうもの?」という参考例を挙げます。NPO法人秋田岩手横軸連携交流会HPから、母が担当した「歴史と文化」部会です。

 「歴史と文化」部会は、「歴史と文化」再発見、再認識をテーマに、道にまつわる歴史や文化的遺産を、もう一度ひも解くことにより、自分の街を見直し、 またイベントを交えながら新たな魅力を見出すきっかけとなる「○○ロード」作りをすすめる。さらに、「道の駅」を地元の<歴史・文化・交流>に深くかかわる施設としてとらえ、物産だけにこだわらない新しい活用法を考える。「峠フォーラム」「街道フォーラム」の実施も、「歴史と文化」部会の役割である。

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異文化、異業種とのハートフルな学び合い「杜陵くらぶ 」の物語

杜陵(とりょう)は、盛岡の別称、知的でオシャレなイメージで使われることが多いように思います。「くらぶ」の名のとおりですが、デザインされた交流の場という意味でサロンの側面もあるかもしれません。

できるだけ正確にお伝えしたいので、会員である「深沢紅子 野の花美術館」前館長の石田紘子さんにインタビューしました。はたして「まちづくりコミュニティ」と位置付けて良いかも見解を求めたところ、石田さんは「無形で先進的なまちづくりだと思います」と言ってくださいました。以下に概要を紹介します。

  会員は、現在60余名。官庁、金融機関、報道機関にあって、全国から盛岡に赴任してきた支社長、支局長さん達、さらに地元の人で構成されます。異業種、異文化の人たちが、今も月に1度、市内で昼食会を開いています。当番の方がスピーカーとして40〜50分レクチャー、全体で70分ほどの勉強会です。転勤してきた方たちの2 〜3年の赴任期間、地元の人がおもてなしの気持ちを込め共に学び合います。転勤によりメンバーが入れ替わるので、結果として社会に影響力のある「盛岡ファン」が全国に広がり、盛岡にも新しい視点が入る仕組みです。発足は1988年。発足当時、地元のメンバーは母が魅力的な人たちをスカウトしました。地元メンバーは工藝やアートに携わる方ほか、個性的な文化人という印象です。自然で、楽しく、知的な集まりだといいます。適度な親密感と距離感からとても居心地の良い空間になるのだそうです。

その居心地の良さは、以前私も杜陵くらぶの安比高原探検ツアーに特別に同行させていただいた時に実感しました。居心地の良さこそが継続している理由ではないかと思います。また、コミュニティ内の絆の強さは、母の葬儀の時、目の当たりにしました。

なぜ30年以上続いているのか?

母は、インフラ整備の提言など「有形のまちづくり」にも少しは関わっていましたが、本腰は入れませんでした。自ら「市民による市民の学びの場」を開き、有形のまちづくりは行政の方たちに託したようです。託せるということは、信頼していたと言えます。

地縁を知縁に拡げて、都市生活者が楽しく学び暮らすこと。それこそが「目指したコミュニティ」の目的だと思うのです。そのために、①広く門戸を開く ②物語を掘り下げる ③交流を紡ぐ この3タイプのコミュニティが必要だったのではないでしょうか。

いずれも地域にあるもの、そこに住む人を活かし、庭の花々のように調和させていました。さほどお金を必要としないでしょう。結果、コミュニティーは自立し、自走しました。行政に依存しすぎること無く、信頼関係を基に立ち位置をバランスさせていました。

おわりに

それでいて母には、考え込んだり、悩んだりするする姿を見た記憶がありません。感じ閃いたことを早速行動に移すタイプでした。

ここで紹介したコミュニティは、およそ同時期に立ち上がっています。ちょうど、私の弟、つまり母の次男が23歳で急死した直後で、地域の方たちが、私たち家族を励まし寄り添ってくださった時期でもありました。不思議な速さでご縁が拡大したのです。

母は、盛岡ではなく伝承の里、遠野で生まれ育った人です。小さい頃は、曽祖父の膝の上で物語をねだったと言ってました。それ故に物語を手繰り、伝えることの大切さを「まちづくり」とコミュニティに託したのだと思います。

どんどはれ!











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