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【読書感想文】最果タヒと心象スケツチ


『何を言っているのかサッパリ理解できないまま最果タヒの新刊が出るたびに買っているが、何回読んでも毎度毎度あとがきしかまともに意味がわからなくって宇宙猫フェイス社会主義共和国連邦』が近年崩壊の一途を辿っているのは周知の事実である。かく云う私も隣国の『最果タヒの現代詩? あーあれね、完全に理解してる民主主義人民共和国』に高飛びしたいのだが、我が国は出入国の審査が異様に厳しく滅多な理由がなければビザがおりない。アルストツカに比べればここも幾分かマシなほうだとは聞くが、私はもういい加減この国の体制に嫌気が差していた。両親は自爆テロに巻き込まれて爆死し、姉は反体制デモに参加し射殺された。残された私は、人民に支給された最果タヒの詩集を読みながら、隙間風の吹き荒ぶ家の中で死人のように息を潜めて日々をやり過ごしていた。皹だらけの手でページをめくり、そこに記された神話的意味不明を網膜に焼き付ける。この詩を読むのはもう何千回目になるだろう。『故郷にて死にかける女子』。ワイのことか? しかし本文にはワイのことなど書かれておらず、バグったスペー  スと、  バグったスラ/ッシュ/が  ただひたすらにSAN値0の呪文をズッタズタに切り裂いているのみだ。私には理解できない。理解しようもないのだ。痩せこけた頬を一筋の涙が伝った。この詩を理解できるまで、私はこの国を出られない。中原中也の詩なら読めるのに、中原中也賞取った詩が読めへん。悲しみは汚れつちまつた。私が「何を言っているのかサッパリ理解できないまま最果タヒの新刊が出るたびに買っているが、何回読んでも毎度毎度あとがきしかまともに意味がわからなくって宇宙猫フェイス」である限り、私はこの忌まわしき全体主義国家から逃れることは出来ない。支給された現代詩を読み、「マジわっかんね」と呟くことが、かのような名を冠する国の国民にふさわしい姿勢である。まさに今の私だ。私は模範的な国民であることを恥じた。現代詩くらいわかりたい。理解したい。今の私は「モダンアートとかってマジ意味不だよな、あんなん俺でも描けるわ」などと弄する愚物と同じだ。芸術の形が時代と共に変わっていくことなど至極当然の摂理であり、それを受け入れずに意味不明だと断ずるなどクソにも劣る懐古主義者か蛮族の思考である。しかし私は愚物だった。わっかんねえのだ。パチパチと音を立てる暖炉の火を見つめながら、今日の配給の列の終点に立っていた軍人の顔を思い出す。軍帽を目深に被り、外套の中から太い腕をにゅっと突き出した男。少しのパンとウォッカ、それから『恋人たちはせーので光る』を無造作にこちらに寄越し、虫を追い払うようにシッシッと手を振る。その黒い革手袋、侮蔑と嘲りに満ちた瞳。「どうせ何もわからずに読んでいるのだろう?なんか表紙がポップでかわいー! くらいにしか思っていないのだろう?」たしかにそう聞こえた。お前は一生この国から出られない。たしかにそう言ったのだ、彼は。目で。私は泣きながら家に帰り、継ぎだらけの毛布にくるまって詩集を読んだ。ヤッパリサッパリだった。あとがきはよかった。私はいよいよ自暴自棄になっていた。配給の列に並ぶたび、己の文学的素養の低さを思い知らされる。詩の意味するものを理解したいのに、目は摩擦係数0になり一度滑り出すとあとがきまで止まらない。私には最果タヒの詩を嚥み下すことは出来ない。この国から出られる日は永遠に来ないのだ。私は暖炉の火を消し、泣きながら眠りについた。

彼らが私の家を訪れたのは丁度、「スピリタスを多量摂取してから葉巻を咥えてファイアードラゴンブレスごっこ」に興じていたときだった。全身黒尽くめの怪しい三人組は、私にファイアードラゴンブレスを吹きかけられても怒り一つ見せずに穏やかに微笑んでいた。彼らは『新イーハトーブと幸福の会』と名乗った。「最果タヒの詩を嚥み下したくはありませんか、同志よ?」真ん中に立っていた男がにこやかに切り出した。どういうことだ、と私は詰め寄った。リビングの机に積まれた最果タヒの詩集の山をちらりと見遣る。どれも読み古されて古文書のようになっており、特に『グッドモーニング』などは今し方古墳から出土したばかりですといった様相だ。「あれだけ読んで理解できなかったものが、今唐突に理解できるようになったりするものか」私は怒りと焦燥でお顔をセルリアンブルーに染めながら抗議した。しかし彼らは達観した様子でウミウシカラーになった私を宥めると、禁断の秘密を共有するかのような口ぶりで囁いた。「理解する、という認識がそもそも間違っているのです、同志。これは考えて納得するものではない。感じるものです」「なんだと」脳内に巣食うポンコツコペルニクスが180度回転してふらつき、私は視界がぐらりと揺れた気がした。「詩を、感じる?」「はい、最果タヒの現代詩はもはや現代詩ではない。これは、『心象スケツチ』です」私は口にデスソースと石を詰められ真正面から拳で殴られたときのような衝撃を受けた。脳内のポンコツコペルニクスは回転しすぎるあまり死んだ。「例えば共感覚者の見る極彩色の風景をそのまま文字に起こしたような、インフルエンザの晩の悪夢に字幕をつけたような、国語辞典の気に入ったページだけを引きちぎり屋上階からばら撒いたような、そういうものなのです、これらの詩は。それは宮沢賢治の詩のエスペラント語や地学用語と同じ。理論の上にある文章ではなく、仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です。論理的に、はたまた文学的に説明できる代物ではない。なぜなら特に何か重要なメッセージ的なものを掲げているのではなく、ただただ静かで強烈でエモいだけだから。クソデカ=エモ=コンテキストなのです」「クソデカ=エモ=コンテキストだとお⁈⁈」私はいよいよひっくり返りそうになった。ポンコツコペルニクスの死体が墓の下から勢いよく射出され、魔球のごとく回転しながら世界の果てに消えていった。私の今までの考えは阿呆だった。感じるべきものを論じようとし、そのエモさを腐らせようとしてしていたにすぎなかった。理解できない、ではないのだ。論理のリボンで縛れなくとも、その文字列に何らかの感情を抱けさえすれば、それは詩であり文学なのだ。必要なのは理解でも解析でもなく、ただただ主観的な嚥下だった。最果タヒの詩とは、そういうものだったのだ。「あああ、そうだ、そうだったのだ、心象スケツチだったのだ!!」私は感激のあまり玄関にへたり込んだ。情けない嗚咽を漏らしながら口を開閉させる私を、怪しい三人組は優しく立ち上がらせた。「さあいきましょう、新たな同志よ。我々『新イーハトーブと幸福の会』はあなたの目覚めを歓迎します」「あめゆじゆとてちてけんじや」「あめゆじゆとてちてけんじや」私たちは、そうして宇宙塵をたべ また空気や塩水を呼吸しながら 荷物をまとめて心象スケツチの概念を広める旅に出たのでした。私はもう自由です。鞄に詰め込んだたくさんの詩集が聖玻璃の風のようにうつくしく光素を吸っておりました。






あとがき

 最果タヒさんの詩を初めて読んだときの衝撃は忘れられません。ほとんど何を言っているのかわからなくて、自分は詩心がないのかなあとショックを受けたのをよく覚えています。でも、文脈から何かを読み取ろうとするような読書ではなく、宮沢賢治を読むときのように、たくさんある不思議な言葉たちの中からなんとなく気に入ったフレーズを選び出すような読み方でいいのかなと思い立ちました。十代の少女の「なんとなく好き」とか「なんとなく辛い」の「なんとなく」を、極限まで曖昧に描いたような詩が多いです。私も十代なので、『十代に共感する奴はみんな嘘つき』というタイトルにはとても惹かれました(この作品は詩集ではなく小説ですが)。今ではお気に入りの作家さんの一人です!



追記

 最果タヒさんご本人にTwitterでこの記事をご紹介していただき、本当に感激しています。私はTwitterアカウントを持っていないためこの場でのお礼になってしまいますが、こんな素人の読書感想文を読んでいただいてありがとうございました。いつも応援しています。

嬉しい……


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