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房総航空戦―8月15日の戦い―Part2

死闘

 昭和20年(1945)8月15日午前5時45分、オダキ湾へ向かっていた英海軍「インディファティカブル」戦爆連合と、茂原航空基地より発進した三〇四飛行隊の零戦隊が接触した。

 「隊長、敵機発見」と、零戦隊の1人の田中宏中尉が空中無線で知らせた。見ると眼下の雲の切れ間に敵艦載機群が飛んでいるのが見えた。零戦隊は左にバンクをとり、優位な態勢から眼下の敵に襲い掛かった。

 墜落機の場所や目撃情報から、恐らく房総半島東部の茂原、長生、長南、睦沢、大多喜、国吉周辺の上空で戦闘が行われたと考えられる(前回の記事の図参照)。以下に戦闘三〇四飛行隊長・日高盛康少佐の証言を抜粋する。

「茂原基地を発進したのは5時半でした。高度を6000メートルにとり、編隊を組み終わったところで、東から敵機の大群が一つにかたまって向かってくるのが見えた。その数、100機以上。こちらは15機。編隊空戦では、先頭を飛ぶ指揮官機が敵の指揮官機をまず狙うのが定石ですが、これだけ機数に差があると、まともに先頭を狙っても後続機にやられてしまう。それに、正面からぶつかれば太陽がまぶしくて不利。そう考えて、敵編隊の最後尾を狙い、太陽を背にして後上方から突っ込みました。」

新規ドキュメント 2018-04-19 - 第65ページ

 上掲の写真は茂原航空基地より離陸する零戦五二型丙。房総航空戦の際にもこの零戦が飛び立った。

 戦闘は零戦が攻撃を仕掛けて始まった。日高隊長が最後尾の1機を火だるまにした様子は他の零戦のパイロット達も目撃した。この最初の攻撃で狙われた機は、無線機の不調によって警戒のコールを聞いていなかった、フレッド・ホックレー少尉のシーファイアだと思われる。被弾したホックレー機は操縦不能になり、少尉は乗機から脱出し、長生郡内にパラシュート降下した。

 襲撃を受けたシーファイア隊は、ただちに増槽を投棄し零戦に反撃を試みた。瞬く間に敵味方入り乱れての乱戦となった。ここで三〇四飛行隊の隊員達は、敵の中に見慣れないとんがった機首の戦闘機である「スピットファイア」が混じっていることに気付いた。

シーファイア

 第887飛行隊を率いていたビクター・ローデン少尉は、指揮下の2機のシーファイアと共に零戦に勝負を挑んだ。ローデンは1機の零戦を捕捉し、銃撃を加えた。シーファイアの20mm機銃弾を受けた零戦は瞬く間に炎に包まれて墜落していった。

 ローデンは更に2機目の零戦を捕捉し、撃墜しようとしたが、射撃をしようとすると彼のシーファイアの左翼の機銃は弾詰まりを起こしてしまい、右翼の機銃のみが発砲したことで機体は反動でバランスを崩しそうになった。

画像3

 シーファイアが2挺搭載していたイスパノ・スイザ HS.404はイギリス、アメリカの航空機を中心に航空機銃として使われたが、日本やドイツの20mm機銃に比べると弾詰まりなどのトラブルが多く、多くのパイロットを悩ませた。

 なんとか態勢を立て直したローデンは、再び先ほど捕捉した零戦に向かって発砲、「ダダダダッ、ダダダダッ、ダダダダッ」と3回のバースト射撃を行い、2機目の零戦を撃墜した。同じ頃、彼のウィングマン(僚機)のタフィ・ウィリアムズ少尉も1機の零戦を撃墜し、更に別の零戦を捉えていた。そこにローデンも加わり、2人で零戦を撃墜、これを共同戦果とした。また、3番機のGJ・マーフィ少尉も2機を撃墜し、第887飛行隊は計6機の零戦撃墜を報じた。

 しかしローデンは更に3機の零戦に襲われた。たちまち相手の背後をとるための旋回戦(ドッグファイト)になったが、旋回戦では零戦に分があることや、弾薬の残りが少ないことからローデンは自分の不利を悟り、機首を下げて急降下して戦線を離脱した。この時ローデンのシーファイアは時速680キロものスピードで降下していた。

 ローデンは前線から離脱して母艦に帰還する途中で、アメリカ海軍の戦闘機の迎撃を受けた。相手のF4Uコルセアは自分のことを日本軍機だと誤認しているようだったので、ランディングギアを展開させて機体を急旋回させ、主翼のラウンデル(国籍マーク)を見せて難を逃れるという一幕もあった。

 撃墜されたホックレー少尉のウィングマンであったテッド・カービンとダン・ダンカン、ランディ・ケイは、爆弾を積んだTBM-1アベンジャーの護衛についていた。カービンは襲い掛かる零戦に対抗しようとしたが、機銃が1挺弾詰まりを起こし、更に機材不調か増槽の投棄にも失敗した。

ターポン

 TBM-1アベンジャーは、米グラマン社が設計した「TBF」アベンジャーをゼネラル・モータース社がライセンス生産した攻撃機だ。2000ポンドまでの魚雷や爆弾を搭載でき、非常に頑丈な構造に定評があった。イギリス海軍では「ターポン」の愛称で呼ばれていた。

 護衛のシーファイア隊を振り切った零戦4機が、6機のアベンジャーの編隊に攻撃にかかった。零戦の銃撃を受けて1機のアベンジャーが損傷したが、さすがの頑丈さを見せつけ、目標まで編隊を維持したまま飛行し続けた。むしろ後部銃座の防御砲火によって1機の零戦を返り討ちにしたと報告している。

 この時アベンジャー隊に襲い掛かった零戦4機の中に、早稲田大学出身の本間忠彦中尉がいた。乱戦の中でアベンジャーに命中弾を与えたが、直後にシーファイアから銃撃を受けた。

本間中尉

 本間中尉を銃撃したシーファイアのパイロットは、恐らくランディ・ケイ少尉だと思われる。ケイはアベンジャーに銃撃する零戦を見つけるとこれを攻撃し、炎に包まれたのを確認した。燃料タンクを撃ち抜かれ、炎上する機体から本間中尉はからくも脱出し、落下傘で降下し生還したが、顔に大火傷を負った。

 ケイは更に続けざまにもう1機の零戦を銃撃して尾翼を吹き飛ばし、最後にもう1機の零戦に銃撃し、損傷を与えたところで弾切れとなった。テッド・カービンとダン・ダンカンは1機の共同撃墜を報告している。

 このうちのいずれか、ケイに最後に銃撃を受けて損傷した零戦は恐らく阿部三郎中尉の乗機だと思われる。阿部中尉は自分に近づく低翼機を最初は味方だと思っていたが、銃撃を浴びせられてそれが間違いであると悟り、空戦の中で相手の正体が「スピットファイア」であることに気づいた。

 阿部中尉はやがて相手のスピットファイアとの反航戦に持ち込んだ。反航戦とは「ヘッドオン」とも呼び、自分も相手もお互いを正面に見据えた状態で撃ち合う空戦機動のことだ。結局この反航戦でのすれ違いざまの攻撃は双方ともに命中弾は無かったが、阿部中尉の乗機は最初の銃撃で潤滑油タンクを撃ち抜かれていた。危険な状態であったが、最終的にはなんとか東京と千葉をつなぐ小岩鉄橋近くの荒川に不時着することに成功した。

阿部中尉

 三〇四飛行隊の零戦の攻撃を凌いだアベンジャー6機は目標の化学工場に爆弾を投下し、全機母艦に帰投したが、損傷していた1機は母艦の近くの海上に不時着水した。

 イギリス軍の損害は、イギリス側の記録によるとシーファイア1機とアベンジャー1機のみだが、日本側の記録では更にファイアフライ1機が吉田勝義飛曹長によって撃墜され、機体は横浜市磯子区沖に墜落したことが確認されている。以下にファイアフライを銃撃した際の吉田飛曹長の証言を抜粋する。

「とたんに敵機の右主翼の3分の1と左水平尾翼が吹っ飛びました。墜落する敵機をかわして右下方に抜けたとき、後席の敵搭乗員が脱出し、黄色い落下傘が開くのがチラッと見えた。昭和18(1943)年、豪州本土上空で何度も戦いましたが、イギリス軍の落下傘は黄色だったんです。敵機は、富津岬のあたりに墜ちていきました」

画像7

 上掲の写真は空母インディファティカブルとフェアリーファイアフライ。当時では珍しい2人乗りの戦闘機として設計されたが、機体の重量が大きく、零戦などの単座戦闘機には到底歯が立たなかった。恐らく房総航空戦の際には爆弾やロケット弾を搭載して攻撃機として運用されたと推測する。 

以上がパイロット達から見た房総航空戦の経過である。

少年の見た航空戦

戦闘空域

 この空戦の様子は地上からも目撃されていた。以下に空戦の様子を見ていた県立大多喜中学校(現在の県立大多喜高校)生徒の証言を抜粋する。

「(前略)空襲のサイレンと同時に今来た道を自宅に戻り、リュックを家の中に放り出し、そのまま自宅裏の垣根を潜り、大多喜小学校校庭を横切り小学校裏の木原線線路沿いに学校に走った。
 もうその時は、低いドンヨリした雲の上で空中戦が、エンジンの唸りと激しい銃音が入り乱れ、バリバリ、バリバリ……の銃音に何度も草に伏せながら、やっとの事で踏切の所まで来た時、一際大きな銃音が大多喜駅上空から聞こえ、思わず線路の土手に伏せながら駅の上を見た所、雲の中から煙の尾を引いて戦闘機が墜落、泉水方面に消え、ズズーンとお腹にひびく音が聞こえて来た。
 「ヤッター!」「ヤッター!」「万歳!」「万歳!」と叫んでしまった。その声を聞いて線路脇の山に掘った防空壕の中から数人が飛出して来たが、今、目の前で敵機が撃墜された瞬間を見て、興奮の余り身体がブルブル震えながら、得意に今見た事を話した所、壕にいた全員が立ち上がって「万歳!」「万歳!」と何回も喜んで叫んだ。
 自分が敵機を撃ち落とした気分になり切っていた、後でそれが日本の戦闘機である事を知るのだが、その当時は、誰しもが日本の飛行機が敵に撃ち落とされる事など絶対に考えられない事で、落ちるのは米英機だと信じていた。
(中略)
 泉水から来ている一年生が落ちた所を知っているとの事で、防空壕から出て校庭越しに泉水方面を見て話をしていた所、突然に羽黒坂上空から敵機が現れ、我々の方向にロケット弾を発射。てっきり攻撃されたと防空壕に転げ込む一幕もあったが、敵の目標は大多喜小学校の予科練の生徒であった事が後で分かった。
(中略)
 やっと解散の声に、もう私とK君は土手を駆け降り、プール脇を裏口に向って走った。K君を道案内に、田んぼ道を足を滑らせながら、大膳松の横に出て泉水に向った。広い道に出ると、川崎病院の方に向って左側の荒れた畑の中に四~五人の人影と、煙の上っているのが見えた。K君は急に早くなり、一人で先に行く。私も遅れまいと走り現場に着いた。
 機体は殆ど型を留めず、垂直尾翼と主翼の片方が原型を残していた。主翼には真っ赤な日の丸がはっきり見え、K君と二人で顔を見合わせてしまった。
 なぜ日本機が!
 たしかに朝見たのは敵機だったのに!
(中略)
 泉水に撃墜されたこの戦闘機は茂原航空隊所属と後で聞いたが、搭乗員はきっと若い学徒であったのであろう。みんな神国日本を信じていたに違いない。(後略)」

画像9

 目撃情報を整理すると、恐らく画像の丸で囲んである川崎病院背後の現在は水田になっている場所付近(根古屋城跡内、ないしその近く)に零戦が墜落していたと思われる。ここに墜落した零戦のパイロットは、杉山光平上飛曹か増岡寅雄上飛曹のどちらかと考えられている 。下の1948年に撮影された同じ場所の写真も見ると当時の様子が分かる。

画像10

画像11

 上掲は現在の零戦が墜落したと思われる場所の様子。奥に見える白い建物が川崎病院。この上空で航空戦があったことを知る住民は恐らくいないだろう。

最後の悲劇

 結局この日の航空戦では日本側は少なくとも7機が撃墜され、5人のパイロットが戦死した。現在判明している範囲での零戦が墜落した場所とパイロットは以下のようになる 。
・長南町佐坪 田村薫一飛曹
・大多喜町横山 小林清太郎一飛曹
・いすみ市須賀谷 大上恵助一飛曹
・長南町熊野 杉山光平上飛曹もしくは増岡寅雄上飛曹
・大多喜町泉水 同上

 一方のイギリス軍の損害は、イギリス側の記録によるとシーファイア1機とアベンジャー1機(そしてファイアフライ1機か?)。戦闘機同士の航空戦の結果は、数字のみを見ればシーファイアは1機の被撃墜に対して7機の零戦を撃墜しており、イギリス軍はオーストラリアでの汚名を返上した形で最後の航空戦を締めくくったと言っていいだろう。

 しかし、この撃墜されたシーファイアのパイロットであるフレッド・ホックレー少尉は悲惨な運命を辿った。

 ホックレー少尉は現在の長南町にパラシュートで降下し、警防団に捕縛された。この時点では、警防団員と煙草を分けて吸いあうなど、穏便な雰囲気が漂っていた。その後一宮にあった第一四七師団歩兵第四二六連隊に引き渡されたが、正午には終戦を知らせる玉音放送があり、捕虜を拘束していた縄をほどく兵士も中にはいた。

 連隊長の田村大佐は師団司令部に捕虜の処遇について問い合わせを行った。これに対し師団参謀の平野少佐は「連隊で処置せよ。」と指示をした。ただし、田村大佐は「処分せよ」と指示をされたと証言している。

 田村大佐は連隊の某士官に処刑を指示した。ホックレー少尉は山中に連行され、拳銃で撃たれた上に刀で刺されて殺害され、遺体は穴に埋められた。玉音放送から9時間後のことであったとされる。

 田村大佐は露見を恐れたのか10月に遺体を掘り出し、火葬をした上で関係者に口止めをするなど隠蔽とも思える行動をとったが、近隣住民の噂から事件は露見し、最終的に平野少佐と田村大佐はBC級裁判の上、死刑となった。

 この出来事は「一宮町事件」あるいは「ホックレー事件」と称され、房総を取り巻く航空戦史に残る暗い事件の1つとなった。実はこのような事件は近隣の大多喜町でも起こっているが、それはまた別の機会に述べることにする。

フレッドホックリー

 結局、この日房総半島では少なくとも6人の若者たちが命を散らすこととなった。航空戦が起きた時点では日本政府は既にポツダム宣言を受け入れており、実質的にはもう戦争は終結していたも同然であった。参考HPの1つの『In the last hours of war, blood and heroism and irony and loss』によれば、一部の航空隊は母艦から発艦した直後に終戦による攻撃中止を指示され、爆弾を投棄して早々に帰投したという。

 その一方で、日本側のパイロット達は激戦を終えて基地に帰投したところで初めて終戦を知った。

彼らが一体何を思ったのかは想像することも難しい。

参考文献・HP


・吉野泰貴「“片田舎零戦隊vsシーファイア”8月15日の空戦」『丸 2019年2 月号』(潮書房光人新社 2019年)
・ミリタリー・クラシックス編集部編『零戦と一式戦「隼」完全ガイド』  (イカロス出版 2019年)
・和泉貞夫編『わたしたちの郷土 ―大多喜町の歴史―』(大多喜町教育委 員会 2014年)
・夷隅町史編さん委員会編『夷隅町史 通史編』(夷隅町 2004年)
・湯沢豊編『世界の傑作機No.102 スピットファイア』(文林堂 2003年)
・千葉県立大多喜高等学校編『大多喜高校百年史』(千葉県立大多喜高等学 校 2001年)

神立尚紀 知られざる『終戦後』の空戦~8月15日に戦争は終わっていなかった(2018年)
産経新聞 「終焉の地」を探して(2015年)
Mark Barber 「The Last Dogfight」(2014年)
Task Force 38
Soham Grammarians : Fred Hockley 1934-40
HMS_Indefatigable_(R10)
Fred_Hockley
Victor_Lowden
In the last hours of war, blood and heroism and irony and loss
Maritimequest HMS Indefatigable photo galley

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