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【エッセイ】私が「本来的な人間生活」を推す動機の話

皆気付いているはずなのに見ないふりをしている事

私は、家族や日常生活で視野に入るあらゆる他者を見ては、それは半ば主観的な決めつけを伴って「あの人も生き辛そうだ」と思うことがある。

彼らの表情や言動等から見えてくるものは、社会という「個人が楯突くことができない利己的な怪獣」に服従を誓ったが故に生じた「余裕のなさ」であり、個性という千差万別ある樹木を製材して均一に切り取られた「アイデンティティの希薄さ」である。

きっと紀元前から変わらない普遍的な問題なのだろう、表立った仕組みや名称は変われど「市民を拘束しているのが権力者である事」は始祖から変わっていなくて、「(民族主義的な)市民に理解のある政府」だろうと「(共産主義的な)階級支配的な政府」だろうと、「自分由来の自主的・能動的な目標の中に生き甲斐を見出せたかもしれない実態」に差異はなく、それは現代自由民主・資本主義においても変わりない。

あまつさえ、政府だろうと企業だろうと「集団」でさえあればそれを構成する個人の取り扱いは「あくまで殺さない程度」に設定され、追求目標の動機すら「搾取を目的とした、悪意に由来した利己的なもの」でもいいとされる暗黙の風潮があるのだ。

果たして「集団間の競争」、そこで判定基準とされる資本追求のために「個人が搾取されてもいいという暗黙の風潮」はそのままそこにあり続けても良いのだろうか?

日々労働に従事して生活に手一杯な、アイデンティティの希薄な「量産型ロボット達」が、ひいてはその一員である我々が本来持っていた「独創性・比較不能な個性」が十分発揮されないまま社会に搾取されて死んでいくことを認め無ければならないのだろうか?

私はそうは思わず、そんなのは間違っていると、認めてはならないと思う。

そこで今回は、私が本来主義を主張する動機を、「本来的な人間生活」をその根幹に据えて個人から搾取する事を厭わない「資本主義社会に異議を唱えるに至らせるものの正体」について考察していこうと思う。

結論

結論、資本主義社会で価値あるものとされる「資本の多さ」より「個性・アイデンティティ」の方が価値のあるものだと思うから、である。

その結論に至った経緯を「諸々の前提・定義」を含めて順を追って展開していこうと思う。

個人に「比較・競争」を推奨する社会

まず、最小単位として「単一個人」が存在して、二人以上の個人が集まることで「集団(企業・組織)」が誕生し、さらに二つ以上の集団が集まることで「超集団(社会)」が形成されるとし、集団や超集団が「ランダムな個人の集まり」ではなく自他ともに「一つの存在」として認識される為に「諸個人を統制する為の追求理念(イデオロギー)」があるとする。

この場合、例えば「私(個人)」は「某企業(集団)」に所属し、その企業は「日本経済(超集団)」に所属していて、資本主義社会なので「より多くの社会的価値=資本を持っている事(追求理念)」が設定されている。

そして「より多くの資本を持っている事」を満たすためには「資本を獲得する手段(労働)」を通じて資本を獲得するが、その手段において「他者と比較・競争して優れている事・勝っている事」によって多くを獲得する(利益を得る)事ができ、結果として「多くの資本を持っている事=他者より優れている事」と同列の価値基準として認識されるのである。

価値観の変遷 -資本から個性への転換-

まさにここが「生き辛さの元凶」であり、社会の価値観そのものが、圧倒的格差をつけて「資本の多さ」になっているのだ。

そもそも「資本の多さ」を前提条件に据えた「何よりも、まずは金」という超集団(社会)の土壌が、「それを持たない者の選択肢のなさ」という形で生き辛さを助長しているのだ。

ここで私が言いたいのは、集団・超集団で設定される(現在「資本の多さ」に設定されている)追求理念を「個性・アイデンティティの豊かさ」にするべきだ、という事である。

言い換えるなら「資本(と資本で得られるもの)のせいで、より本質的な『独創性・個性』にフォーカスすることが蔑ろにされて生き甲斐のないまま『思考放棄的な衆愚思考』に陥るよりも、資本なんか介在しない『個性・アイデンティティ』の研鑽にのみ注力できる日常の方が相応しい」という事である。

競争で生じる二種類の進路

例えば、とある企業(集団)が「特定の個性を持った人材」を募集していたとして、「その企業の要求と合致する個人」と「要求に合致しない個人」がいたとする。

企業の要求に合致した個人は労働を通して成長、徐々に企業内で評価される様になり、社会(超集団)における好待遇を享受することになる。

他方企業の要求に合致しない個人は「独創性・個性を行使する労働」を通して資本を獲得する手段がなくなったことで、割りに合わなくても低賃金の労働に、条件の譲歩による独創性・個性によらない「単純的・肉体的な労働」に従事することになり、結果余裕のなさから発揮されない個性は衰退し続けることになる。

個性が認められなかった者の不幸、すなわち社会の停滞

不愉快なのは、割に合うとされる労働(生活に余裕が生じるような資本獲得手段)は、「狭い領域でしか有価値と見做されないピンポイントなもの」なのであって、個性・アイデンティティの観点から見て「むしろ集団・超集団が要求・評価しない個人・個性」の方に価値ある個人・個性は山ほどいる、という事実である。

もちろん高収入な労働は専門的な知識・経験なくしてできない「希少価値のある種類の労働」であり、「価値創造によって以降継続的に発生する利益の対価」として相応の待遇を受けるわけだが、人口や生活維持費用の諸数値を見比べてみた時に「極最低限の満足、不満足」と「十分以上に満足」の格差が大きいのはここで改めて言うまでもないだろう。

加えて、集団は自らの利益のために「周囲と差をつける(科学的・文化的)発見」を個人に還元せずに集団の為に利用したり秘匿し、既得権益者が生み出すその不透明性は「本来その干渉がなければ発展していた社会」を遠ざけるばかりでなく「意図的な技術停滞」と「依存関係構築による利益独占」を引き起こすのだ。

資本至上・競争社会の行く末

この「利己的で不合理な利益追求の終着点」がどうなるかわかるだろうか?

集団の要求に合致しようとしまいと「人間性の退化・淘汰」がもたらされるのだ。

それまで持ち合わせていなかった「資本を獲得する為の新たな手段」や「生き甲斐や自分の価値・生きる意味の獲得」の為にスタートするというのに、「修了後の就職」や「賞金獲得」、「資金提供者の下で従事する」等を見据えた「方向性・選択肢の制限」、すなわち「利益を見込んだ投資」を前提に個人の活動を拘束することで、個性向上を餌にした不毛な「効率的な利益獲得のための競争」が生じ、「非参画者・脱落者の発生」に繋がるのだ。

節操なく人を食い潰して利益を得る集団が諸個人にもたらすのは「無力感」であり、それは5つの巨人「欠乏・疾病・無知・不潔・怠惰」を人の心の中に湧かせ、鈍った思考が悪循環を助長する。

生きている意味・自分の価値が薄まり続けて、遂に毎日が「ただ時間が過ぎるのを眺めるだけ」になった者は漸次ゆるゆると腐って「衆愚社会の一員」になり、蕩けた目から見える世界も他者も自分も腐って見えるようになり、最後は自我まで溶けてしまうのだ。

そんなのは「人の終わり方」として望まれるものでは決してないはずで、どうしてそうなったかも理解できないまま後悔の中に堕ちていく、酷く悲しい「生き地獄からの解放」でしかない。

多様性を騙る金太郎飴達

さらに利益追求に邁進する社会には「利益生産に最適化された個性」ばかりが選別されていくことで個性は益々偏って「多様性のない効率的な『ロボット』」で占められ、そこに生まれるエリート主義は更なる効率化に努め、非参画者・脱落者が辿ったのと同じ「人間性の退化・淘汰」が引き起こされる。

またそのように偏った個性選別は社会の変遷に対応できない為、「変化や加速」を嫌った保守がそのような兆しを観測しては片っ端から排除し始める、という永遠に留まり続ける「神話的な姿・形が違うだけの権威支配体制」が有無を言わさず鎮座することになるのだ。

とはいえ競争の全てが悪いわけではない

「利益の追求」は人々に受動的な行動・思考を強制し、「思考放棄的な衆愚思考」に陥らせるのだ。

しかし「比較・競争それ自体は悪ではないという事」は特筆しておくべきだろう。

実際比較・競争運動が人を悪い方向に変化させ、勝っても負けても思考の堕落がもたらされることになるが、それは「目的を見失った、単なる勝敗の世界」に限った話である。

反対に、目的を持った本質の実現の為の競争、「良き競争」とは「規範とルールを守り、社会の進化発展を通した諸個人の個性の成長」に従った競争である。

「何を差し置いてでも、誰を蹴落としてでも」という精神で勝ち上がった者の結末が綺麗なものではないのが直感的にわかることからも、その競争を通して自他ともに成長する「切磋琢磨の関係」でなければ、遠くない未来に軋轢は災禍に見舞わることとなり、つまり「良き競争」仮に資本がなくなって個性が自由に追求できるようになっても変わらないのだ。

「お金は幸せを買う為の道具でしょう?」

以上、「資本の追求よりも個性・アイデンティティの追求の方が価値あるものだと思うから」「利益追求で行われる比較・競争という運動は、勝っても負けても個性・アイデンティティの希薄化を招くから」という理由から、私は「個性・アイデンティティを尊重する社会」についてあれこれと考察しているのだった。

結局、資本は物流や経済を滞りなく円滑に稼働させるための「潤滑油」であり、社会間・集団間・個人間で柔軟かつ円滑にコミュニケーションをとる為の「共通言語」なのだ。

保有している資本次第でいかなるものでも手に入る「交換先が豊富なこと」は確かに素晴らしいが、「人間対人間の脱論争化・理解簡易化のためのコミュニケーションツール」であるならそれら領域を一元統制することで人もそれまで使っていた不要になった道具も一掃できるのではないか?

何せ「その道具それ自体」には価値はなく、「交換できるという信頼」にこそ価値があるのだから。

見て見ぬふりをしていれば必ず自分にツケが回ってくる

そういう訳で、多少文明や社会が後退しようとも、利便性が欠かれることになろうとも、社会を形作っている集団が「利益の為に個人を拘束してアイデンティティを希薄化させている現状」を変える必要があって、社会や諸集団の上位にいる人間ばかりに個性発展の機会が多く用意されている「選択肢の格差」は是正されねばならないのだ。

本当は「仕事なんかしないで勉強だけしていたい」とか「金の心配なんかせずに個性発展にのみ注力したい」とかもっと簡単な欲求が本音として発露していたのだが、それらの後ろには斯様な共通項が、「あまねく個人に対するあるべき姿との乖離感」や「利益の如何のせいで余裕が損なわれる不合理感」が燻っていたのだ。

とはいえ、いくら理想を並べていてもそれが自動的にかなうことがないのはわかっている。

まだ結末は見えないけど、今は資本主義に甘んじながら、いつかは聞く耳を持たない怪獣を屈服させるジャイアントキリングを達成したいものだ。

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