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「同情由来の他者への行為はマスターベーションと変わりない?」の話

(あらかじめ断っておきますが、少々穿った解釈をしてる、とお伝えしておきます。
好んでそう思考したわけではないのですが、そう思わずにいられないというのも、また好んで思ったわけではないのです。言い訳でしょうがね。)

結論から申しますと、「自己満足のための"同情"と、同情由来の"与える“という行為は、その対象の自尊心、ひいては尊厳を損なうことに繋がってしまうのではないか?」ということです。

この点を留意して下記をご覧ください。

昨日に引き続いて「愛するということ(エーリッヒ・フロム)」を読んでいまして、例の如く思ったことがあったんです。

ページは79、「愛の対象」の「友愛」に関して論じてる箇所なんですが、そこに「友愛こそは万人への愛の根底に根底に存在する"対等な者同士の愛"であり、一方で無力な者への同情を持って、同胞への愛とせよ」みたいな旨の記述があったんですね。

つまり、「自分と比較して下位のものへ同情し、与えよ。さすれば愛は育まれん。」みたいなことかと解釈したんですね。

(ええ、すでに用いられてはならない「自他の比較」という悪しき概念がおりますが、続けますね。)

前章にて「愛には与えることの他に"配慮・責任・尊敬・知"がある」と述べられていた通り、愛には与えることが必須であって、それがないものは真似事に過ぎない、という定義がされていたんです。

そこから、ここで論じてる「無力な者へ与えること」につながるんですが、個人的にこの構図、「自分が自分の行いに満足して、他者からの"善的な行為への賞賛"という評価の獲得を目論んでいる」ように見えてしまうんですよね。

自分の意見の一切を挟まずに、その「同情由来の与える」という行為を見た時、そのような「目的意識のもとの善行」という欲を思わせる行いには見えないとは思うんですが、残念ながらノートをとっていく中で、ここに無視し難いタチの悪いものを見出してしまったんです。
ですから私はこうして飲み込まず食い下がらずここに書いてます。

上で述べた結論、「自己満足のための同情と…」ですが、そうした目論見からさらに考察を進めた先にたどり着いたものだったんです。

その考察というのが、
「同情するのは自分が無力な者に"与える"前の動機付けとして、後ろめたさを感じさせず人類に共通して真っ当な手段として、自他を納得させる為に行っているのではないか?」ということです。

言い換えるなら、「同情は、"自分が他者に与える動機を得る為=自己満足と他者からの評価の獲得の為"に用いられているのではないか?」ということです。

同情される人間は、"与えられる"点においては得るものがあるでしょうが、与える人の自己満足に加えて評価に直結してしまう、つまり"道具"として扱われる為、少なくとも与える人とその人に評価を下す取り巻きの人は、与えられる人を"下等な存在"として扱うと思ったんです。

そんな与えられる人の立場なんて惨めすぎやしませんか?
(いちいち他者の目線を気にしすぎているのでしょうか?)
もちろん与えられたものを得るためには素性を明かす必要があると思いますが、その際に与えられた人は自身の低価値さを改めて思い知らされ、与えられる人の道具として、踏み台として用いられてしまうんですよ?

例えるなら、自分はそれなりに満足過ごしていたとしても、とある日に「おめでとう!あなたは最も無力な人に選ばれました!全素性を公開して景品をもらってください!」なんて言われたら気分悪くなりませんか?
私にはそうした屈辱的なシーンがよぎりました。

屈辱を甘んじて受容して「得られるものは得る」とする"家長のような背負う責任のある者"にはすがりたい縄かもしれませんが、万人が同じシチュエーションに至った際も同様に甘んじなければならないのでしょうか?

そうした「自他を比較した悪しき行いに端を発した自己満足」が人を貶めるなら、そんなもんやめちまえって思ったんですよ。

また本書には旧約聖書からの抜粋で、この友愛に関する文言が記載されていました。

汝らはエジプトの地でよそ者であったが故に、よそ者の心を知る。
(中略)
それゆえ、よそ者を愛せ。

もっともであると思うし、「世界を、万人を愛してる」と言えてこその「特定他者に愛してると言える」と思うからこそ、私もそうありたいと思うんです。

しかし、その根底にすら「無力な者へ同情し与えよ」という概念が蠢いているように思えるんです。

それに気づいてしまって、今、無性に腹が立っています。
さながら他者の苦しさを食い物にして、あたかも真っ当な事をしてる風でありながら、自身はキチンと上昇曲線に乗るっていうような、言ってることとやってることの矛盾を感じさせる滑稽さが、ここにはあるんです。

「愛は同情を超えて得られる」といってるようなものですよ。
(誇大解釈でしょうか?)

哲学者が「同情を通じて愛を知れ」だなんて、「まず自身の躍進のために他者を踏み台にせよ」なんてのをみて、滑稽甚だしいとさえ思ったんですよ。

同情を戒してこそ万人を愛せるというものではないのですか?
なぜそこに同情を用いたのか?
神が慈悲を用いるのは高位の存在故許可されたものであって、人間同士がお互いに向けるものではないでしょう?

瞬間的に無意識に生じる自然的な思考として同情が沸いてくるのは仕方ないかと思うんですが、それを行動の動機にしては決してならないということです。

だって真に尊べる人がいたとして、自分から見て無力に見えるシーンがあったとしてもその人には決してそのような同情は抱かず、相変わらず尊敬と信頼の感情がそのまま滞在して、より「支えたい」と思うでしょう?

同情すること自体、相手に失礼なんですよ。

それが王が奴隷に抱くものであっても、奴隷が王に抱くものであっても。

「弱きを支え、自らを自惚れさせない」とする精神のもとに同情があるならまだしも、「自らを高め、その為の踏み台として他者を用いるのに合理化させる為」に同情を用いるのは、それは悪ではないかと思ったのです。
(最も、その人が抱いた同情の真意は自己申告によってしか確認する術はないので、言ったもん勝ちですけどね。)

すこしヒートアップしてしまいましたが、これを踏まえて私は「同情は味方にはしてはならない」とつくづく思えました。

ええ、つまり「万人を愛すことなぞ私には未だできかねる」ということです。
できようもありませんよ。
自分が惨めな環境にいたから、その同情の酷臭が如何程かをわきまえてるつもりです。
対外からの抗い難い視線は、熱せられた剣山を体中に押し付けられる様だったのを未だに覚えています。
相変わらず夢に見る醜酷な「場違い」を警告する眼差しの群れ。
それを、少なくとも味方には味わってほしくないんです。

そういった経験からも、私には万人を愛すことは現段階ではどうもできる気配がしません。

だからこそ、他者に屈辱を刻み付ける滑稽な友愛に則ることなく、私は私なりに他者を愛せるようになりたいです。

一番近い概念・心情が同情だったのでしょうが、種々の愛の根底に同情があるのは、なんだか理解しがたく思えたんです。

長い事持論を展開しましたが、かく言う私もいずれこの熱論を忘れ、そういったシチュエーションに陥れば同情を抱くんでしょうけども、自尊心と尊厳を傷つける同情なぞは忌むべき行為であると、ここに強く思った次第です。

皆さんは同情についてどのようにお考えですか?
穿った考えですから識者の皆様には、若輩者のさえずりなぞお笑いかもわかりません。
しかし異論は大歓迎です。
ぜひ未熟者の私にご教授ください。
そうして知らない事を取り入れて私は私を磨いて行きゆきたいのです。

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