見出し画像

【読書感想文】愛するということ 1/3 「分業はできない」

昨年12月上旬に本書を購入し一通り読んで各種作業を終えるのに延べ一カ月半かかり、今しがたこの「読書感想文」を書くに至った。

著者のエーリッヒ・フロムという御仁については以前から名前は知っていた。

哲学をかじった身にしてはある程度なじみのある名前だったこともあってか、「愛とは何ぞや」という話題に関して真剣に論じられた数々の知見に基づく理論は比較的吸収がスムーズに行われ、かつて主観的に感じていた形容しにくい感覚が明文化されているのを見たときは強い納得感が感じられたものだ。

読了以前と以後とでは愛に関する認識が大きく変わった点、確実に収穫物があったといえる。

私も著者の危惧する大恋愛を筆頭に掲げる「偽りの愛」こそが現代で成すことができる「最上の愛」だと認識していて、それが間違いだと知っただけでも購入費用を投じた甲斐があったというものだ。

もちろん恋愛のみならず「それ以外の種々の愛」や「技術の習練」に関した極めて実践的な論説、また精神的な理想像と対比して浮かび上がってきた「現代社会の歪さ」、そしてそこにある「愛と現行の社会システムの原理が根本的に相反することに由来する親和性の悪さ」等、自分の今後の指針になりうる新たな視点の獲得が叶い、この本を紹介してくださったカウンセラーさんには感謝ばかりである。

(最も、一時期はこの本のせいでかえって要らぬ危惧を抱かせてしまいましたが、少なくとも「今は」、あのような衝動に身を任せることはないと言っておきます。この場を借りて、あの時は血走ってしまいご迷惑おかけしました。)

さて、「読書感想文」と銘打っているので早速本書の感想・考察に入るが、本書に関して取り上げたいのは「分業はできない」、「母性愛の難しさ」、「愛は技術」の三点である。

本記事を含めて三篇に分けてそれぞれ話を進めていく。

分業はできない

私が特に本書で展開される数々の理論の根幹を構築していると思えたこと、「ふむなるほど」と思えたことは「分業はできない」ということであった。

厳密には「精神的な態度は使い分けることはできない」ということで、すなわち「応対する人によって演じる仮面を使い分けるなどできない」ということである。

この概念は「自己愛」について論じている箇所に記載があり、書中では「愛を人によって使い分けることなどはできず、平時より万人を愛せなければ特定個人に対する愛も全うできない」と記されている。

この考えは心理学上の基本的な前提に則っており、「対外的に向けられる愛」「対内的に向けられる愛」も区別はできず、適切な自己愛がなければ全ての愛の根底に位置する「友愛」は抱けず、結果的に満たされない自己愛の穴を埋めるべく他者から愛を求めるだけの「利己主義者」になってしまう、という考えに基づいている。

「自分が満たされないまま他人に善き行いをすれば、それは偽善になってしまう」という簡単な想像からも明らかなように、喜捨ができるだけの心のゆとりがなければ自分も相手も不幸になるだけで、自分が幸せになる為にはまず自己愛によって自分が満たされなければならないのだ。

哲学者が勧めた「弱者への同情」に対する憤り

「人を愛さば日頃から」という考えを他者に向ける場合に「友愛」というものが関係してくる。

本書の「自己愛」より前の項目に「友愛(改定以前は兄弟愛)」というものがあり、その根本は「相手の人生をより良いものにしたい」という考えによって支えられているが、「自分の役に立たない不幸な者に対しても愛を抱くこと」友愛の概念の先駆けであったとされている。

私は友愛に関するその「弱者に対する同情をもって自分が属する集団への愛とせよ」という一文を見て、(本を読んでいて初めて)不愉快な感情になったのを今でも覚えている。

「役に立たない弱者に対する同情など、その者からしてみれば酷く屈辱的な”余計なお世話”であり、あまつさえ自分の施しという”心の広さ”を喧伝して評価を得て称賛されるどころか、その周りの者共さえもその弱者に対して同情を抱くという”弱者をさらにいたぶる”行為の、そのどこに友愛などあろうというのか」と、深く、それでいてフレッシュな怒りが頭の中を支配したことがあったのだ。

万人に対して等しく抱かれるはずの友愛のあるべき姿がそこにはなく、その時は「”他者のより良い人生を祈る”などとあたかも高尚なことを言っているようで、その実は他者を貶める行為を勧めるなんて、哲学者でありながら酷く滑稽なものだ」と、怒りを握りしめたまま次々と読み進めていったが、一通り読み終えて俯瞰してみると、それが誤解であったことが判明した

その「弱者に対する同情」に関する項目に差し掛かった段階ではまだ「愛の本質」を理解できておらず、結果としてその時の私は「”自分が愛する人”という特定他者に対する愛だけを抱き、同情を進める悪しき者に対しては、その忠告通り同情を抱こう」と、つまり「感情の使い分け」を行おうとしていたのである。

「全集中 常駐」ではなく「友愛 常駐」

当時の行いはまさに上述の「分業の考え方」に逆らう思考であったが、今ではその一言の伝えたい本質がわかるようである。

すなわち「自らが愛する特定他者にも、何ら自分には関係のない見ず知らずのよそ者であっても、また種族や形すらも問わず、等しく友愛を抱くことで、自己愛や恋愛を含めた愛は等しく深まる」ということである。

「自分の他人に対する日頃の思考と態度が、特定他者を愛する時も等しく発露する」という「愛の一側面」がここでようやく理解できたのである。

そうして恋人や家族などの特定他者に限らず、関わるあらゆる他者に等しく最大限の友愛を抱くことで、自己愛や特定他者への恋愛を含めたあらゆる愛は深まるのだと、つまり「感情面における分業が幸福を突き放すこと」を知ったのだった。

もちろん考えてみれば当たり前かもしれない。
普段の態度がまともじゃないのに、いざという時だけまともを装うなど、どだい無理な話なのだ。
時間を経ることで必ずそのメッキは剥がれ「普段の態度」という地金が表出する

装いが華美であるほど素の態度はそっけなく見え、結果的に余計に相手からの愛を損なう原因になるなど露知らず、そういう人は懲りずに装いを引き続ける。

そうした環境を作る現代社会も悪であるが、それはまた別の機会に掘り下げていくことにする。

不遇な過去が主観的に理解する助けになった

私の場合、かねてからの自己肯定感や自己愛の程度の低さも関係しているかもしれないが、しかしそれを学べるだけの経験が、それ以前に機会がなく、加えて教えてくれる人もいなかった。

結果として前述のように「滑稽な哲学者の忠告通り、愚かしき者には同情を」と思考が巡ったわけだが、幸いなことに今ではそれが誤りであると自覚できている。

「友愛をもって、善き行いを全うする」

死に損なってでも「神的な愛」を体現するべく、最早私は簡単には死ねなくなった。

そのきっかけが初めて本を読んでいて怒ったことに由来しているのも、何かの縁かもしれない

歳は今年で24を数え、これまでに生来切り離すことができずに共生してきた特性に由来した様々な経験を経てきたが、素の自分を「理想の自分という仮面」で隠して「擬態」してきた私には、その「分業はできない」という概念が具体的に理解できたのだった。

心身に傷をつけるトラブルを避けるべく顔色を窺って常に指揮者の機嫌を損ねないように画策するが、それがかえってトラブルのトリガーとなって傷が増えたり、息抜きができないまま仮面の下で素の自分が窒息しかけて「心がボロボロ」になったり、八方美人でいようとしてただのイエスマンになってしまったが為にアイデンティティがない「ロボット」になったりと、「進んで経験したくない経験」を経てきたため、その本質がありありと理解できる

無論、この段階で自分にできていたことというのは「分業不可ということ」と「愛の本質の把握」と「分業不可を裏付ける経験」であって、「愛の実践」ができていない為、まだスタートラインに立ったに過ぎない。

日々老若男女に友愛を実践してこそ成せる「愛の体得・習練」である。
かつて皆目さっぱりできていなかった自分を反面教師として、私は仮面を外すことにしたのだった。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?