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【読書感想文】愛するということ 3/3 「愛は技術」

これまで、前々回の「分業はできない」ということ、そして前回の子育ての終盤に訪れる「巣立ちを望む我が子の背中を押してやる徹底した利他性の難しさ」というニュアンスの「母性愛の難しさ」を解説してきた。

3回目の今回は「愛は技術」について掘り下げていきたい。

愛は熱情に駆られた「運命的なもの」ではなく練習して身に着く「スキル」

本書冒頭で「愛は技術である」と述べられている。

読了以前は私も世間同様例にもれず「愛は突然やってきて、感情が決めるもの」と思っていただけに、これはなかなかの衝撃をもたらした。

恥ずかしながら、人生を通して「愛を実感できた機会」の絶対数が少ないというのもあって「やや偏向した愛の概念」を持っていたこともあったが、「車の運転を習得する」とか「何か道具の扱い方が一人前になる」とか、そのような「練習次第で身に着く」という感覚で私が変われるなどとは少しも思っていなかったからだ。

本書のメインテーマであるだけに「技術全般に対する心得」や、どんな形の愛であろうと共通する「配慮・責任・尊重・知」のこと「与えること」「友愛」「自己愛」やそのほかにも様々な概念が展開されたが、それらは実践的な愛の技術に関して述べられた第4章「愛の習練」が本書の本質を解説するのに必要となる前提的な知識を解説していたのに過ぎなかったのだ。

具体的な「愛の技術」の身に着け方

ごく簡潔にまとめると、愛の習練は「全集中 常駐をして、好奇心を動員して、客観性を身に着けて、理にかなった信念を持つこと」とまとめられる。

それぞれ前述したほうからステップに分けて解説していく。

技術の習練の基礎は「全集中」?

「全集中 常駐」「好奇心の動員」「技術全般の習練」に記載されており、愛の習練における前提条件として挙げられている。

ここでは某漫画にあやかって「全集中 常駐」と称しているが、実はこの考え方がバッチリ当てはまる。

「四六時中、いつ何時もアンテナを張り、目の前のことに100%を発揮する」というニュアンスがまさに技術の習練には不可欠で、その概念が「人間に分業(マルチタスク)ができないこと」も表している。

それに加え、「メメント・モリ、カルペ・ディエム」の概念にもかかることや、今現在の当該技術の習熟度の指標にもなるなど、その必要性には枚挙に暇がない。

「全集中 常駐」に続いて、「好奇心の動員」は本書中で「規律」「最大限の関心を抱くこと」「関連技術の習得に努めること」の項目で示されている通り、持ち前の能動性を発揮させ、寝食すらいとわせない「爆発的な推進源の確保」「本質の理解」という形で必要とされる。

誰にもできてない「客観視」

「全集中 常駐」「好奇心の動員」をクリアした後に待つ「客観性を身に着けること」は、自惚れを卒業するという意味合いで「謙虚さを身に着けること」と、色眼鏡を外してありのままを見るという意味合いで「理性を身に着けること」に分けて考えられる。

確かに、「幼稚なナルシシズムを克服し、親や身内への執着をも克服し、現実的な生産能力を獲得」しなければ自立しているとは言い難く、裏を返せば「ナルシストのすねかじりのニートは誰も愛さない」ということになる。

また、ここに「謙虚さを身に着けて”幼稚な”ナルシシズム・自惚れを克服すること」としたのには、誰もが多かれ少なかれ「ナルシシズムに陥っていること」が関係している。

言い換えるなら誰もが「主観越し」に世界を見ていて、ありのままの世界を見ている人は誰もいないということである。

「分業をせず、徹底した友愛を抱いた、神にも等しい愛を習得した者」であれば、「客観視の徹底」という前提をクリアしているので例外であるが、それを除いたすべての人が、それまでに経た経験その時の感情に基づく「自分に思い込みに基づいた色眼鏡」越しに世界を見ているらしいのだ。

特に客観視が難しく思える私には思い当る節がたくさんあり、痛感しているところなのである。

「理にかなった信念」は恐れを凌駕する

さて、ここまで好奇心の動員と客観性の獲得という前提条件が達成されたところで、いよいよ「理にかなった信念を抱く」段階に至る。

本書で「理にかなった信念」は「自分の感情や経験に由来する確信・納得感」と形容されており、これは具体的に「自分が自分であるといえる根拠」「苦痛や失望すらも受け入れる覚悟や勇気」とされている。

たとえ味方がいなくなっても、一人であっても戦い続ける意思がそこにはあり、折れずにたわんでしなやかに戻る「竹」のような力強さをもたらすそれは、同様に他者に宿る「理にかなった信念」と「その人の可能性」を信じさせる

そしてその信念を抱くことに四六時中の「好奇心」を抱き、「客観性」をもって主観によって歪まされない「相手の決して変わらない信念と可能性」を信じることで、愛は習練の道をたどるのだ。

そして技術によって培われた信念がもたらす確信や納得感は、やがて「世にある既存の事物に対する超越欲求」を誘引し、それは子供人工物思想・概念創造につながり、人は形を変えながら本質を後世に残していくのだ。

「本来的な人間生活」を制限する社会システム

私は、その「愛の営み」の中に、何か形容しにくい「輝くもの」を見出してしまい、それを探求したり全うしようとすることを妨げる現代社会の構造に酷く憤りを感じることになった。

長い父権的宗教の中に発明されてしまった「資本主義」という人間の悪の部分を刺激して極端な組織化を推し進め、人々を「使い捨ての機械部品」に墜とした世界規模の資本主体の社会システムそのものに、私は退廃的な悪臭と、あるべき人の姿からかけ離れているにも関わらず見ないふりをして「今を楽しんでいる」と言い聞かせて我慢している「愚かなロボット達」を見ている。

歪な方向に進歩した社会は忙殺と快楽を用いて人から「心のリソース」を奪い、愛はもちろん、恋愛すらも「精神的にごく狭い領域で関わらせ、誤った孤独の満たし方を用いた、お互いがお互いに寄り掛かるための世間一般に認められた依存手段」という、非常に浅はかなものに堕落させたことを強く不愉快に感じている。

「かくあるべき」とは言わないが、最低水準から逸脱している感じが、私はどうしても否めない。

かつて頭に血が上って思い至った「希死念慮」は、そうした「世の醜さ」に由来した「世界を変えるか、変えられないなら私が死ぬか、二者択一だ」という究極論に至ったためである。

無論、死んでは「絶対無」に至る善き行いを為すことが叶わないので最早選択肢としては少し後方に移動したが、それでも、私は世の歪さがどうしても許せずにいる

フロムは「行き先の間違い」は教えてくれた

収穫物は両手いっぱいに得られたものの、一方で行き先が見えなくなってしまった。

その行き先も歪な社会システムに基づくものだったからだ

だが、現実問題、「現実的な生産手段を獲得」しなければそもそも自分が満たせず行う全てが「偽善」になってしまう為、目下社会システムに甘んじながら職を探さねばならない

しかし、果たして資本主義に懐疑的になった、心から納得して抗うことを決意した「確信犯的な反資本主義者」に道などあるのだろうか。

「人を愛さば日頃から」

せめてこの一言だけはおそらく今後訪れるであろう忙殺の中でも忘れないようにしたいところだ。

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