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現代の社会システムに対する「怒りと絶望」の正体

「現代社会を構成する資本主義が人の心から深く思考するリソースを失わせている」

その一言が、まるで先行きの見えない中に晴れ渡らせる日の光が差し込んだかのような納得感を与えた。
私が抱いた怒りと絶望感のかけらが、そこに見えた気がしたのだった。

特定個人ではなく、社会的に人々の心がないがしろにされているのが気に食わないのか?

同等の話が、当たり前を追求できる人が少なすぎる。
苦境を必要な犠牲と捉え、悲観してしまう人が多くて、何より苦境を強いて「自分を生きること」に制限をかける社会が嫌なのか?

とはいえ、私は今その社会に助けられ、生まれも育ちもその中だ。
でも、だからと言ってそこに骨を埋める必要があるだろうか?
であるなら私には何ができるだろうか?

漠然とした怒りと絶望がもやのようにまとわりついていたが、できることを探すために画策する中で得た上述の一文が、自分の根幹から沸き立つものの正体を探らせる源となってくれたのだった。

結論

結論、私は「人に服従を迫り、均質であることを求め、心のリソースに余裕を持たせまいとする”資本主義”という社会システム」に絶望や怒りを抱えていたのだった。

そしてそれに関連して「黙殺される精神に関する怒り」「神の概念の瓦解」という観点にもつながっていた。

資本主義に関する怒り

「資本主義に関する怒り」「忙殺」「強制」「抗えない規模の大きさ」に集約できる。

我々は生まれながらにして環境が制限され、「かくあるべし」と強制され、「自由を得たくば多くの資本を得よ」と吹き込まれ、建前として「社会や団体のため」と言わせ「日々食つなぐため」という本音を認識させないように資本をもって誤魔化させる。

市井が窮屈なのをよそに、そして日銭のために身を削るが故に「知の習得」もとい「深く考える力を育むこと」ができず無知に甘んじていることをいいことに、多くをかすめ取っていく。

医療や食料、インフラ等の「生存に必要なサービス」のために資本を稼がせ、大量消費を促す様に教育し、さらなる貧乏に陥れる。

それは子供にも等しく課され、それどころか、将来ロボットになったとき操縦しやすくするために従順にするべく「誤った教育」にも晒される。

資本主義は「資本の豊富さ」が価値があり有意味であるとし、なければ選択肢を制限される経済体系で、今や世界規模で統一が成されている。

その側面には、多方面に大量の需要を発生させ、大量の生産を行い、大型化と小型化を実現し、運搬能力自体が向上してさらに需要が増し、投じられた時間・資源・資金に比例して需要が上昇曲線に沿って増加し、結果的に「莫大な価値の創出」「依存関係の構築による半永久的な利益の確保」という「旨味」がある。

しかし、他方で投資家も労働者も「特殊な形での労働の組織化」によって、投資家の金は一部に集約されてから分配・最適化が行われ、労働者はいくつもの階層に配置され単位時間当たりのパフォーマンスを最適化されている。

いずれにも、大量に回収・分配・階層化される「大量消費」と、最適化を行い徹底して無駄をそぎ落とし塵すら利益につなげようとする「効率化」の原理が働いている。

そして働く人々にはその原理の承諾の下に雇用される契約が発生しているので、自動的に彼らは「精神レベルで最適化」されている。

「ロボット化に伴う同意書」に労働力を担保に署名してしまったのだ。

働かなきゃ食事をとるための資本が手にはいらないのだから、その同意は至極真っ当だ。
しかし、なぜ労働を強制されなければならないのか?

ここで、私はニートの諸君が言うようなニュアンスで労働に異議を唱えているわけではなく、「真っ当な愛を思考するために、なぜ心を殺してまで週6日フルタイムで働かねばならないのか」ということである。

そこに、社会が強制する「生存に必要なサービスの対価の支払い義務」がある。

医療、食料、インフラ、そのどれもが生命に関わり、その支払いができなければ待つのは路上生活か獄中生活だろうか。

この法外な支払い義務の強制があるが故に働かねばならないのだ。

「あらかじめ、それがなければ生きられない環境を作っておき、そこから搾取するシステム」

これが世界規模ですでに当たり前になってしまっているのだ。

しかしその全てを否定している訳ではない。

この社会構造は、人間が言語を用いてできる共同作業(=人間の外的集合意識化という形の並列処理を目指した営み)として過去最高のレベルであり、個々人の5~8割の拘束によって過去に比類のない「生命の安全」「更なる効率化」が計られているのだ。

参画する人が多ければ多いほど個人当たりの負担は少しずつ減り、反面その減少以上に効率化は図られ、成果は指数関数的になっていく。

人口は益々増え、ついには80億人を超えてしまうのかもしれない。

その食い扶持を賄うには、現行の社会に「(機械で出来た本物の)無機質なロボット」を取り入れなければならないかもしれないが、働きたくなくても働かざるを得ない社会システムには多分に変革をするべきところがあると思う。

黙殺される精神に対する怒り

「黙殺される精神に対する怒り」は、(上述した個所と重なるが)資本主義の「大量消費・効率化」という原理によって、「服従・均質を求められて忙殺され、真っ当な疑問に違和感を抱けなくなる」という、「ありきたりな、それでいながら誰もが見過ごす問題」にある。

誰もがそうではないだろうが、それにしても偽りに真実を見ている人が多い。

私でさえその幻想に尊さや羨ましさを抱いていたことから、どれだけその偽りが流布されていたかが主観的に実感できた。

大恋愛や恋愛に関する思い込みや、自分の生命力を投資して資本を得ていることに美徳を見出していること、ちょっと考えればわかるようなことでも「めんどくさい」「なんの意味があるのか?」と一蹴して放り投げることなど、そのどれもが「精神が疲弊してしまっている事」に起因している様に思える。

図らずも、「愛」や「恋愛」のことのみならず「神への愛」や「資本主義が人の精神に与えた影響」についても知ることとなったが、それら「今まで私が誤解していた数々」を相変わらず崇拝している人たちを見て、私は、愚かしいというか、哀れというか悲しさというか、一言で形容できない感情に苛まれることになったのだった。

その感情は同情とも「導いてやりたい」という感覚とも異なり、私自身も半ば被害者意識を持っていて、例えるなら「私を含めた全ての人々を、”世界に、資本主義に対する強制を世界の共通認識として刷り込んだ少数の悪徳な人々の画策”から脱出したい・させたい」というものだ。

なぜそこに自分だけではなく全ての人々を含めたのかはわからない。

それは使命感の類だとは思われるが、しかし、夢見がちな思索に溺れがちではあるものの、その実現の難しさについては承知している。

「生涯現行の社会システムを変革すべく抗い続け、その暁に新社会を築く」という心意気はなく、「今の社会システムが気に食わず、強制されるのが嫌だ」とは思いつつも、「世界を変えるのは容易ではない」と口弁慶になっている。

潜在的に「私が変わるのではなく、周りが変わればいい」と思っているのだろうか?

資本主義が人の精神を歪め、自分も含めて悲しい人が多くいることに「”正義”をもって、世界を変えるべし」とでも思ったのだろうか?

なんにしても、人の本質に迫る問題をみて見ぬ振りをしている人が多くいることがとても悲しく思えたのだ。

神の概念の瓦解

「神の概念の瓦解」は、明らかに資本主義が原因であると確信している。

服従均質を強制されコントロール不能に陥った人は救いを求め、「耐え続ける我々にはきっと報いが訪れる」と信じて父を待つその姿は、疑う余地もなく「神への依存」を呈していて、「精神的な進化」ではない。

神秘学者で名高いマイスター・エックハルトは次のように語った。

「もし自分自身を愛するなら、すべての人間を同じように愛している。
他人を自分自身よりも愛さないならば、本当の意味で自分を愛することはできない。
自分を含め、あらゆる人を等しく愛するなら、彼らを一人の人間として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。
したがって、自分を愛し、同時に他のすべての等しく愛する人は、偉大であり、正しい。」

すなわち「人が自身に抱く愛の程度と神への愛が比例するのなら、高次な神の概念はその人の愛をどこまでも深くするのではないか」ということである。

ただし、ゆとりのある環境下、つまり「能動的に自主性をもって神への愛を抱かねばその人の愛は深まらないかもしれない」という懸念点がある。

もし、その懸念が誤りで、神性愛の育みが直ちに自己愛の育み、ひいては万人に対する友愛の育みにつながるのであれば、これは自身で実践し、広く勧めるかを検討すべきかもしれない。

幸運にも、私は「絶対無」としての神の姿に強く納得しているところがある。

主観的に、言語化が難しく抽象的で体験的なビジョンの数々が、その統一性と網羅性がすなわち神の正体であると、神の概念の系譜を知ったことによって裏付けが取れたためである。

何においても必ず裏に存在し、故に何によっても形容できない完全性が、まさに「絶対無」が故であることを物語っていたのだ。

「絶対無としての神」が「〇〇ではない」ことを形容するのは可能だったが、それではビジョンは伝えられない。

「この発見を追体験してもらえない」と苦悩していたのは、いわば「絶対無」の定めとして必然だったのだ。

どこまでも広く、深く、何によっても形容ができない抽象の究極としての「絶対無」が納得できた私に、(善き行いとして未だ実践こそしていないものの、)愛の何たるかをそれは教えてくれた。

であれば、条件によっては私は、私が人々に抱いた「同情とも導きたいという感覚とも異なる感情」の解消が叶うかもしれない、そう考えたのだった。

一人ひとりを救うことは別に目指してることじゃない。

私個人として社会の不合理さに怒っていて、更にそれを世界規模で人に強いていることが不愉快で、社会構造の抜本的改革が必要であると感じている。

誤っている事を「正しい」とし、それを共通認識として私に迫ることが、気持ち悪く思う。

なぜそこに甘んじなければ、譲歩しなければならないのか?

私は、私の国でそうした誤りが横行していることが酷く哀れに思う。

和を重んじ、謙虚に美徳を見出し、自然との調和を目指しつつも研鑽に努めて磨かれた技術が国民として誇らしく感じるからこそ、精神においても奥深く、同情が失礼に当たらなくなる、友愛に基づく「慈しみ」が当たり前になるようになって欲しいのだ。

一人ひとりにそう説いても、世間から見れば慈悲深い人が増えただけ。
社会そのものを変え、当たり前を共通認識にしたい、そう思うのです。

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