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民主主義とギフテッド

最近見た動画である方(ファンもアンチも多いので名前を書いて変な人の検索に引っかかると嫌だから書かない)が著書に於ける民主主義の定義を聞かれ、自分はギリシャ時代のやつのつもりで使ってますと答えていたのが私には何気にショックだった。
元々この単語からイメージするところが人によってズレてるよな、とは思っていたけれど、そうかーギリシャ時代かー、でもそれもまた今起きてる「民主主義」批判に共通するところ大きいからありかも知れんけど、そうかーギリシャ時代かー、そう来たか・・遠い目🙂🙃🙂
みたいな、そういう衝撃。

そもそも、大昔にデモクラシーを民主主義と訳したところで先ず大きく間違ったような気はしていて、私はもしギリシャ時代のデモクラシーを訳すならば大衆主権主義とでもした方がよく、今俗に民主主義として言われてるものの実態は共和主義なんじゃないかと思います。これは同意する人も珍しくはないと思われる。
そもそも民主主義という漢字に訳したところのセンスの問題に加えて、概念が輸入された当時の解釈やもっと言えばその翻訳を使って本書いた人の個人的な解釈がその後日本では定義として固定してしまうといった典型的な問題もあるから、学問が先ず原語ではどういう表現だったのか、その単語の成り立ちに立ち還るというのは確かに大切。
だけど・・ギリシャ時代は遠いぞ。
プラトンの時代からでも悠に2500年も経ってるし、先に近代社会が構築された西洋の方でもデモクラシーという言葉が意味するところの変遷は相当あった上に更に日本での現代の使われ方というものが有るので(一つ一つ取り出して比べればお互いに間違っているとも言える)、今この時代に日本語で本を書くにあたって、民主主義の定義が古代ギリシャのデモクラシーです👍🏻ていうのは、なかなか特殊なことと思った次第。
私はこのご著書をまだ読んだことがない(そのうち何処かで手に入るのではと思って)のですが、質問者の方はきっと読んでみて先ずすごく引っかかったからこそ対談の一番初めに確認してみたんじゃないか。そして聞いた後「あちゃー」或いは「やっぱりそうか🥲」みたいな顔して言葉が無かったのですが、それはもちろん間違ってるとは言えないし、質問者が実際そうであったように読めば分かることなんだろうから、それはそれであり。ただ、結果的にタイトルに「民主主義」と日本語で大きく書かれているのを見て買った多くの人たちの民主主義とは違った使い方をされてることになるわけで、
それに気がついた人の中に
🙂「ああこれ、古代ギリシャのデモクラシー論のやつね」と思う人は少し居て、
また😲「何だか今言われてる民主主義と少し違った視点から論じてるゾ(→さすが著者だ!となるか、歪曲してる!けしからんとなるか)」と感じる人も有るだろうし、
しかして恐らく多くの方は🙃何だかケムに巻かれたような自分たちとは違う舞台での言論を見てるような感覚となってるのではないか
と思われます。
だって今何となく使われてるものとここまで定義がズレてるのだから。逆に言うとそれを一番最初に書かないのはあまり優しくなかったくらいな話。

とここで、私は「ギフテッド」論を連想してしまった。

ギフテッドも、先ず日本語として定義する前に英語としてのGiftedという言葉が有り、そしてその(神からの)Giftという意味と関係が深かった最初の比較的軽い表現からの変遷があり、日本に紹介された時の紹介者それぞれの思い込みや断片的な経験から来る切り取り認識があり、さらには「ギフテッド」となってからの日本国内での運用や親や教育関係者からの期待や希望・夢、振り回された者からの怨念、アンチ側からの蔑みや非認定の強い衝動など等が、いーーーっぱい込められてるのが、今の日本語でいうところの「ギフテッド」。
これを定義するのに最早「英語に於けるgiftとは〜」とか「アメリカでの運用のされ方の実態例」とか要らないんだろうな!😆ってのを、なんかこの「民主主義の定義」会話してる動画のやりとり見て思い知らされた次第。

ギフテッドは特に、皆んな好き勝手に定義してる状態(言語は生き物だからそれが悪いとは言わん/制度化するなら明確な定義が必要だから今更それが出来なかった文科省は「2E」という比較的手垢のついてなかった言葉を選んで導入時から時間かけて定義しようとしてる)なので、例えば
ある人曰く「ギフテッドってのはA」
別の人曰く「ギフテッドってのはBなところもある」
さらに別の人曰く「CだったりDも含まれるよね」
等など好き放題言われたり運用されてるところで、論理的な人がひと言
「AでありBでもありCやDも含まれるなんてそれ、全部やん!🤷🏻」
と言うことになる。

「『ギフテッド』なぞ命名する意味が無い」「そんなもの存在し得ない」
というのも、今現在の複数定義でめちゃくちゃになってるフィールドに於いては全くその通りなのではないかと思います。

てことで民主主義に戻りますが、
「民主主義」が今のこの混沌とした状況の中では存在しない、語り合えない、状況となってるのは仕方ないのかなーと思った。
日本語で民主主義を語る中で、ギリシャ時代のデモクラシーと思って語っているって話聞いて最初はびっくりしたけれども、著者の中に定義がしっかりしてただけ大変マシな話であって、良くある「私も社会問題を考えてみた」的な書物が、単に著者がその社会問題の定義をつけかねる冒険談に終始していて、しかも結論に「分からなかった/これからも私は追い続ける」みたいなオチが付いてるのと比べれば、誠実さすら感じますね。