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学校教育の弊害

雑感みたいなものです。

幸福度と離婚率が高い某国に関する半ば炎上してるスレッドを見てて・・

「これこれこういう制度となっています」みたいなのを聞いて素直にすごいね!素晴らしいね!となる一定の人たちと、実際にその制度の中に身を置くこととなって、綺麗事では済まされない欠陥や雑なオペレーションの被害に遭ってる人たちという構図を再確認。
この構図は様々なシーンでよく起きてるパターンで、今回はこの某国の個別のケースに関する話ではありません。

何でもここへ結びつけてしまって申し訳ないですが・・

「これこれこのようになっております」という説明をすんなり信じて疑わないトレーニングをされ続けるのが、学校教育。
いちいち疑っていては始まらないからそのようになってるのでしょうが、教え込まれて鵜呑みに理解して、何ならその理解力(実際は記憶力)のテストまでして、この流れを癖にすることが学習能力が高いとして評価される。悪く言ったら洗脳され易い人間の下地を作っている。

元記事のケースに戻れば、そもそも制度を作る側というのはこれで万全(まで行かないにしてもイレギュラーは拾って行けば良い程度の)と思って作っているので、制度の説明の中に対応出来ないケースや論理破綻が含められることは理屈としてもあり得ない筈。想定できてるなら対応した制度となってる。
だからこそ、新しい制度を学ぶ時には同時にそこに言及されないはみ出したケースを意識するべきだし、実際に、実行後にはみ出したケースが出て来てしまうのは当事者たちにとっては残念かも知れないが、ある意味避けられないこととも言えます。
政府のすることである以上、制度の理念自体が間違っていたということはほぼ無いと思われるのだけど、オペレーションが上手く行かなかった、或いは上手くいかないだろうと一部の人々から懸念されていたにも関わらず実行したらやはり問題が頻発した、ということは有るかも知れない。というよりも多くの場合に於いてむしろ、実行すると想定していなかった問題が出てくるのは道理なのかも知れません。

この様に、実行の世界は聞いて鵜呑みにする能力が足枷となって目を曇らせる場合も有るので、やっぱ私は、子どもの頃からひたすら権威ある側が何かを教え込んで確認を取るみたいなことを繰り返す教育は、要注意なのではないかと思っている次第。
数学や物理学なら学問の成り立ちからしてそうするしかないのだろうと思うけれど、歴史学とかは特に、早い段階でそれが解説する側の見解でしかないことを伝えるべきだと思います。
ほんと洗脳教育反対だな。

一部繰り返しになりますが、洗脳教育は「この制度は破綻してるんだ!」という強いリアクションを引き起こしてる意味でも有害だということも言いたくて、洗脳力の強い育て方をしていると、洗脳が解けた時に権威側の全てが信じられなくなったり嫌悪感が強過ぎて社会の形成員として生き辛くなったりしてしまう。
そういう不幸を作り出していると思う。
そのような社会の仕組みとなってることが良いとか悪いとか私は評価する立場に無いのだけど、はたしてそれを目指して教育して来たのか、そうでないならば洗脳教育から少しシフトして行く段階に来てるのではないかと感じます。

今は個人が様々な段階の広い情報を自由に入手できる時代なので、洗脳が解けやすくなってる。
社会的な無気力感とか絶望感は、これまで教えられてそれを覚えたら褒められて来たことと、現実は違うやん?!みたいな、梯子外しの気持ちから来るんじゃないか。
そもそもの洗脳教育法を見直しておけば、洗脳され癖がついた大人も洗脳が解けて苦しむ大人も、防げるような気がしています。


・・・と、いうのを
自分でかなり早い段階で気がついてしまうのが、高IQやギフテッドの一部のお子さんたちの特性だとおもうので、彼らの深い厭世観や諦めへの対応が、バリアフリー的・インクルーシブ的な意味で一般的なレンジに入る人たちへの教育や教示に於いても活かされるのではないかと、ちょっと思っています。
彼らの達観は比較的若い(幼い)段階で起こるので、厨二病的な、幼いが故の迷いごとのように捉えられることも有るみたいですが、結局はそれが真理であるのかも知れない。学校教育を受け入れて育った者に起きる目の曇りは、何らかの理由で学校教育を受けられなかった者の目には無い、ということも言えます。