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六年間の和服生活を振り返ってみる

一度は冷めていた明治時代〜戦前昭和の文化と和服に対する気持ちが再燃し、夢中で追い始めてから早六年が過ぎました。今では当たり前のように生活の一部として溶け込んでいると思っています。
自分の中で、戦前文化と和服における思考が以前よりは形になった気がしたため、ふと、この六年前を振り返ってみたくなりました。
かなり個人的な内容なので、退屈な記事であると予めお伝えしておきます。

たかが装い、されど装い

岡倉天心 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

まず、和服を着続けたいと共鳴した岡倉天心の挿話を紹介します。

日本美術院の画家・下村観山は、東京美術学校助教授時代(明治二十七年頃)、ハイカラな服装を天心からこっぴどく叱られたことがあった。観山は、天心、そして伊東忠太、関保之助らと四国に滞在した折、あろうことか「時代の流行を追って新型の洋服」を持参し、忠太と「コスメチック」について語っていたのである。これが天心の不興を買った。激怒した天心は洋服を取りあげて外へ放り出し、「何というザマだ」と「大喝」した。それだけでは怒りはおさまらず、晩餐の時にお膳をひっくり返し、「コスメチックを付ける頭は坊主にしてやるから剃刀を持って来い」と怒鳴る始末であった。これが「恐ろしい見幕で」で、一同色を失い、皆で謝ってようやくことを納めていたという。
明治三六年、アメリカの地を踏んだ際にも天心は羽織袴を装い、滞欧中も洋服を身に着けることは一切なかった。これは言うまでもなく、西洋文明への強い反発と、自国の文化を誇りとする意味表示であった。同様に大観も、天心の意思を継ぎ生涯和装を貫いた。制作も常に和服の正装で臨んだ。そんな大観は、昭和の戦時中、言論界で多大な影響力を持った実業之世界社の野依秀市に対して、和服でないことをたしなめたこともあった。

佐藤志乃『バンカラの時代』

怒髪天を衝くといった怒りですね。あの下村観山と伊東忠太がコスメチック話をしていたなんて、それはそれで可笑しくなってきます。
日本は古来より、外来の知見を正当に掲げ、地場の現実を見下す。これが反復されてきた思想状況だと、ある本に書かれているのを思い出しました。
天心の激昂による行動は、常軌を逸しているといえなくもありませんが、私は痛快な快男児に映り好感が持てます。日本人という自覚を持つこと、真剣に西洋と対峙していく覚悟と勇ましさを感じました。
たかが着る物ですが、服装は自己の考えが表れるものであり、他者へ自己を主張するための有効な手段といえます。また、感覚に合わないものは受け入れないといった自己を絶対視する精神は、自らの考えに忠実に生きることでもあります。


簡単に六年間を振り返る

 装いについて箇条書きでまとめておくことにします。

六年前…

  • とにかく明治〜戦前昭和に近付きたく、百貨店のカタログや婦人雑誌を収集し、服装の流行を徹底的に調べ、流行こそ正義であると信じていた

  • 一寸違わず、和装の着方や髪型を真似していた(半襟の出し具合、衣紋の抜き具合、帯の形と位置、装身具、髪飾りの付け方)

  • 和服は自身に似合う色・模様よりも華やかで珍しい模様が良い。柄々した派手な装いを目指していた(盛り場の玄人のようだったかも)

  • 主にTwitterで、戦前文化が好きで当時の装いをしている再現度の高い人をフォローし、どんなふうに再現しているか参考にしていた

違和感…

違和感を覚えたのは、和服を再開してから一年ほど経った頃でした。
きっかけは和洋装問わず参考にしていた複数のTwitterユーザーの投稿で、彼らの主張を極端に述べると、完成度が高い再現こそ価値がある、間違った情報を流す人は許しがたいとの発言でした。無論一部の人に限ったことであり、あくまで私の見方ですが、少々面倒なタイプといえます。
それまでは私自身、当時の装いがちゃんとできているか頓珍漢な部分はないかという点ばかり注力しており、専らコピーすることに必死でした。
上記の経緯において、調べた知識をどう活用したいか、全く考えていなかったと気が付きました。コピーよりも、自らの考えに忠実である方が何倍も楽しめると思ったのです。

現在…

  • 現在も大したことはないけど、六年前と比べて自分がどうしたいのか納得するまで考えるようになった

  • 自己の感覚に合わないものは受け入れなくなった

  • 自分に似合うものを理解して選択するようになった

  • 昔ながらの渋い色味と模様も好きになった

以上の内容は第三者からしたら、当たり前だと呆れることでしょう。しかし当初の私は、明治高襟、大正浪漫、昭和モダンの甘美な言葉に心酔しきっており、思考能力は停止していたため上記にたどり着くまで長い時間を要しました。そもそも知識を得ても応用できなければ学ぶ価値はありません。
なので、私が当時を生きていたらどうしたいかを考えるように変わりました。もちろん現在の状況から当時を考えるという前提においてですが。当時の状況を当時の状況下で考えるなんて無理ですからね。


六年間で遭遇した人々

日頃は無視で片付けてしまうところですが、六年間で遭遇した人々について書いてみるのも面白そうなので、三項目にわけて端的にまとめてみました。

掛けられた言葉

和服で外出すると高頻度で声を掛けられるので、どのようなことを言われたかメモに残していた時期があります。多かった順に五つあげます。

  • 大正浪漫

  • 竹久夢二

  • 素敵

  • タイムスリップ

  • モダンガール

ちなみに声を掛けてきた相手の表情もメモに記していたのですが、褒めてくださる方々の表情は、若々しく明るく終始笑顔でお話する人ばかりで、これは老若男女問わず共通していたことです。

無礼な人

時には不快な人に遭遇することもあります。特にアンティーク着物を愛好する方は、着物警察に心無い言葉を吐かれた経験があるかと思います。
私は六年間で二度絡まれた経験があります。話題の着物警察がどんな難癖をつけるか興味がわき、とりあえず話を最後まで聞いてみました。さすがは年の功!とは言えず、何が言いたかったのか不明な内容で残念でした。

無礼行為ベスト5はこちら

  • 盗撮(断りもなくいきなりカメラを向けてくる人は多い)

  • 昔の着付けや装い方を知らないだろうに難癖をつけてくる

  • 世間一般で定義された和服の価値観を自分の意見として、着方や装い方を指南(?)してくる

  • 無断で着物と帯を触ってくる

  • ジトーーーとみてくる

無知は人を無礼にするとはよく言ったものです。また、人は嫉妬心によって誉めるよりも貶すほうを好む傾向にあるとも言いますよね。
私に難癖をつけてきたのは高齢者女性で、どちらも共通して粗野で、お世辞にも小ぎれいとは言えない身なりでした。その割に二人共「私は着物に詳しくてうるさいほうなのよ」と誇らしげに言っていたのを覚えています。

素敵な人

この六年で見かけた忘れられない人について記しておきます。

  • 吉祥寺のお婆さん

吉祥寺で買い物中に見かけた七十くらいの方でした。
普段から和服で生活されている様子で、素朴な装い、クラシックな眼鏡、気取らないひっつめ髪、二枚歯の下駄、竹の買い物籠、自然体で品がある方でした。
梅雨のある日、木綿の長着にもんぺを履いて足元は雨用の下駄、番傘のような傘をさして買い物をしている所を見かけました。その姿がとても素敵で忘れられません。
細かく覚えていますが、失礼にならないように凝視はしていません、多分…。

  • 川越骨董市のお爺さん

一度だけ見かけた方でした。年の頃八十近く、山高帽、渋い色の長着を昔のように少し長目に着付けており、足元は堂島の下駄を履いていました。残念ながら帯は分かりませんでしたが、きっと上等なものをしていると思うほど自然体で、小ざっぱりした様子が洒落ていました。

いくつになっても魅力的な人はいるものですね。


魅力的に感じるようになった色

最後に、六年間で色の好みが少し変わったことについて触れておこうと思います。
以前は鮮やかな色味を選んでいましたが、近頃は渋い色、淡い色も目がいくようになりました。特に鼠色系が上品で魅力的、さらに黒系も格好良くて惹かれています。

奥深い鼠色

江戸の頃より鼠がつく色は豊富にあり、その多さに驚きました。中でも気に入っている鼠色を並べてみました。

素敵な配色

伊藤小坡「つづき物」(大正5年)。新聞の連載小説に読み耽る女性。
渋い色でまとめられた普段着がいきです。

左は杉浦非水「三越」(大正15年)、右は山川秀峰「婦女四題 秋」(昭和2年)。どちらも黒と鼠色の組み合わせが良く、落ち着いた雰囲気です。また、色無地の半襟も素敵だと思える絵です。

山川秀峰「三人の姉妹」(昭和11年)。三人の装いの配色が上品で良く、特に左の女性の配色が好みです。三人が横に並んでも調和ある配色になりそうです。

和服のみを振り返り、改めて自然な美しさが好きだとしみじみわかりました。
書きたいことは数あれど、これ以上は冗長な文章になりそうなので終わりにします。