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伝通院と新選組 背景を持たない者はどう動く 【幕末歴史散歩】

 先日、徳川家の菩提寺としての伝通院について書きましたが、幕末が好きな私にとっては、伝通院といえば浪士組結成の地=新選組始動の地でもあります。

 浪士組は、文久3年(1863年)の将軍徳川家茂上洛の際、将軍警護のために作られた組織で、新選組の前身の組織になります。上洛する時に、浪士234人が伝通院の塔頭(寺院内にある寺)処静院に集まったことから、そこが浪士組結成の地とされています。

処静院の跡地。伝通院のすぐ隣で、今は区の土地になっている。

 幕府に浪士組の結成を提言したのは、庄内藩郷士の清河八郎でした。
 私が清河八郎を知ったのは、司馬遼太郎さんの短編小説「奇妙なり八郎」(短編集『幕末』収録)によってです。その後、八郎と同郷である藤沢周平さんが書いた伝記小説『回天の門』を読んで、八郎の生涯について詳しくなったものの、司馬さんの小説に描かれていた八郎=策士というイメージが今も残っています。

 何しろ、八郎は「文武に優れた浪人を集めて、攘夷を行いたい」と幕府に進言して、将軍警備の役を得たのに、京都に着くとすぐに「幕府からは離れて、朝廷のために攘夷を行いたい」という建白書を朝廷に提出するのです。
 そもそも、浪士組の提言をする前は、清河八郎は幕府のお尋ね者(指名手配犯)でした。横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画が幕府に漏れた上に、幕府の手先を斬り殺してしまったためです。それだけのことをしでかしたのに、「浪士組に加わった者は、これまでの罪を許される」という項目を幕府に認めさせた上で、浪士組にかかわることになったのですから、八郎の交渉術は相当のものだったのでしょう。ただし、幕府の方にも、八郎に対する警戒心があったのか、朝廷相手に何か画策しているとわかった時点で、浪士組を江戸に呼び戻すことになりました(その時に京都に残った浪士たちが新選組になります)。
 江戸に戻った八郎は、浪士組を自分の手駒として攘夷を行う気でいたようですが、幕府が放った刺客に暗殺されてしまいます。享年三十三歳でした。


 要約すると「お尋ね者が、幕府に策を進言して、罪を許してもらう。それなのに、幕府を裏切って、朝廷につこうとする」というのが、この時期の八郎の動きです。八郎、策を弄しすぎやろ…とも思うのですが、八郎には、幕府の追求から逃れなければという焦りと、「浪士組」というバックボーンさえあれば自ら事を成せるはずという自負心、二つの感情があったのかもしれません。

 自負心の方ですが、豪農出身である八郎は、安積艮斎の私塾や昌平黌(のちの東大)で学び、江戸の三大道場の一つである玄武館では免許皆伝を許されるという、文武両道のエリートなんですね。森鷗外の史伝小説には、地方の豪農・豪商が江戸や京都の文化人に憧れる様子が描かれていますが、ペリー来航以降は、文化的な才能だけでなく、武術の才能も重視されるようになりました。文武に優れ、弁も立つ八郎は、時代が求める人物像に合致していたと言えそうです。実際、幕府から逃れて九州を遊説して回っていた時には、八郎の話に感化された人びとが攘夷を行うために大挙して京都へ向かったぐらいに、カリスマ性のある人だったのです。

 清河八郎は、自分ほどの才能があれば、幕府を手玉に取れると思っていたのでしょうか。しかし、五年後に明治維新を迎えるとはいえ、文久三年の時点では、幕府の力はまだまだ盤石でした。それでも、八郎を暗殺するために、腕の立つ旗本六人を送り込んだということは、幕府も、清河八郎を侮れない男と見なしていたのでしょう。

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 幕末には、気の毒としか言いようのない最期を迎えた人が大勢いますが、特に清河八郎のような、武士身分ではない人たちーーいわゆる草莽の志士たちは、多くが悲惨な末路をたどっています。

 八郎と同じ時期に九州を遊説していた田中河内介、この人は公家付きの侍なのですが、彼は寺田屋事件の時に、息子や仲間の草莽の志士と共に船の上で殺され、死体は海に投げ捨てられます。同じ事件に関係しても、薩摩藩士の場合、重くて島流し、軽ければ謹慎で済んでいるのに対して、哀れな末路です。

 また、京都で禁門の変という武力衝突があった時は、どさくさに紛れて、六角獄舎で三十三人の政治犯が斬り殺されています。一応「戦火による火事が牢屋に及んで、囚人が逃げ出すと困るから」という理由があったにしても、江戸時代の基準でも許されない行為ですが、殺された囚人の大半は、藩に属さない草莽の志士でした。

 清河八郎が六人の旗本に殺されずに済んだとしても、結局は、志半ばにして、命を失っていたような気がします。
 もっとも、清河八郎のような背景を持たない人物が活躍する道がなかったのかというと、そうではありません。
 江戸時代は士農工商という身分制度に基づく社会であり、幕末に至っても、形式的には身分制が守られていましたが、内実は、金か実力があれば、身分を変えられる社会になっていました。
 例えば、幕末と明治時代に活躍した勝海舟の家は、曽祖父の代に旗本の株を買っています。やる気のある新しい人材によって活性化しないと、幕府の実務が成り立たないという現実的な理由から、旗本や御家人の株の売買が黙認されていたのです。

 また、深谷の豪農の家という、八郎とほぼ同じ身分に生まれた渋沢栄一は、一橋家の家臣を経て、幕臣になっています。渋沢の場合は、能力によって身分を変えることができたのです。
 勝や渋沢ほど有名ではなくても、他にも商人や農民から幕臣となり、明治期にも活躍する人は少なくありません。この時期の幕府には、有能な人材を登用し、内側から時代に合った組織に変わろうとする意思を感じます。だからこそ、お尋ね者だった八郎の進言を、一度は受け入れたのかもしれません。

 伝通院には、清河八郎と妻お蓮の墓があります。お蓮は、八郎が幕府に追われていた時に捕縛されて牢死した薄幸の女性です。妻を殺した幕府と、八郎はどう向き合おうとしていたのか…。

伝通院の墓地にある清河八郎とお蓮の墓。


 伝通院は、地下鉄後楽園駅or春日駅から徒歩十分。都バスの伝通院前停留所から徒歩一分です。
 

徳川家の菩提寺としての伝通院については、この記事を参照して下さい。

 


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