『爪と目』を読んで

 『爪と目』を読んで、感じたこと考えたことを書きます。あらすじは書いていないのですが、作品を読んだ人がこのnoteを読んで、少しでも感想を共有できたと思ってくれたら嬉しいです。コメントを貰えたら、なお嬉しいです。


はじめの感想

 動物に元々備わっている器官である爪と目。どちらも特別ではないからこそ、象徴的に用いられると広く深く読み進めることが出来ると思います。凶器にもなりうる爪はしかし脆く、視覚的に見えることと意識に留めて理解することは違う。……タイトルだけでもう既に、楽しいですね。言葉に込められた意味を考えるのは、いつでも楽しいです。それが面白い作品の言葉であれば尚更です。

 ただ、解釈の余地が多いことは楽しいけど、自分なりの言葉にして纏めるのが難しい。贅沢な悩み。自分なんかは特に、目のよさが作品内で何を象徴しているのかを掴みかねています。目のよさの象徴が際立つ最後の数ページに関しては、後で触れようと思いますが、「書き進める中で納得のいく考えを持つことが出来るといいなぁ」です。

母の死を考える上での印象

 この作品で〈わたし〉を除いた人物の中で、最も描かれていないのが母です。正確には、〈わたし〉から見た母の姿はほとんど描かれていません。父から見た母、ブログ上の〈hina*mama〉は淡々と描かれていますが、〈わたし〉から見た母の姿は描かれていないのです。

「わたしは母の声もおぼえていない。おぼえているのは、母の笑顔だ。母は笑い、私も笑っていたから、わたしたちのあいだにある窓ガラスは口元でぶわぶわと白く曇った。(中略)曇りの晴れていくガラスの向こうで、母はいくつもの部品の寄せ集めのように見えた。たとえば、首元にある生成りの衿、薄い肩を覆う杢グレーのカーディガン(後略)。」

唯一と言っていい母との記憶も、一見微笑ましいけれど、どこか不気味ですよね。親子の楽しい思い出がガラス越しなのは、少し引っ掛かりを覚えます。

 後ろの方の「いくつもの部品の寄せ集め」という表現なんかは、〈あなた〉がネットショッピングに熱中したときに、主婦ブロガー達の自慢のブログを指して「彼女たちが懸命に張り合わせてつくった特注品の体と心だ」と表現したものと被ります。

 あと、気になるのが〈hina*mama〉のブログの写真を「紫色の痣そっくりの雲がぶつぶつ浮かぶ空の写真」と表現したところ。悪意のある表現だなと思います。それまで肯定も否定もしていなかった母に対して、ぽろっと漏れ出た嫌悪を伴う表現は、とても気になりました。

母の死は過失か故意か?

 小見出し通りです。この小見出しの疑問が出てきた前提として、母の死は、〈わたし〉の締め出しによって決定的になったと自分は考えています。〈わたし〉はわざと鍵を締めたのでしょうか、あなたはどっちだと思いますか?

 ……自分の考えは、「(前略)どっちでもいい」です。こう書くと乱暴なので前略を言葉にしてみると、「当時幼い〈わたし〉は偶然鍵をかけてしまったと思うが、それを振り返る〈わたし〉(や読者)の視点から見ると、心に積もった言葉にならない不満が引き金となったとも考えることが出来るので、(後略)」です。

 聞いておいてなんですが、母の死の詳細が語られないし分からないのが、この小説の味噌なのだと思います。見えない母としての姿や、語られない〈わたし〉の気持ち、見ようによっては「虐待されていたの?」とも思える怪しい描写(例えば、子供らしくピンクのカーテンを好む〈わたし〉の姿からは、過剰な読み方をすれば、環境的な虐待が行われていたと読むこともできると思います)等々、どのようにも見える、想像する余地が残されているというのは、小説を読む上での楽しさに直結すると思います。

 この作品が「純文学ホラー」と評されているのも、語られない不気味さと、想像によって増す恐怖を体験すると、理解ができますね。

目のよさって、何?

 ここまで、語り手である〈わたし〉の、母に対する感情の見えなさについて言及してきましたが、これは母だけに限りません。〈わたし〉の語りは他人の隠し事を暴いて内面を描写していく、千里眼のような性質を持っていますが、その語りに〈わたし〉の感情が滲み出るようなことは滅多にありません。個人的にそれが顕著なのは、「父は、できるだけ早くあなたを妊娠させるつもりだった。けれど、うまくいかなかった。」という一文。父の生理的な嫌悪を感じる思考を語った上で、淡々と事実だけを伝えている……不気味です。

 ここで、語り手である〈わたし〉の感情が見えにくいということは一旦脇においておきます。先に目のわるい〈あなた〉との相違点について考えます。

 他人の内外を見通す語りを、目のよさと捉えるのであれば、対照的に描かれる、目のわるい〈あなた〉は他人を見ていません。他人の個を認めていません。これは、コンタクトを外した状態の〈あなた〉が誰とわからず微笑みを返す挿話でも認めることが出来る性質です。ただ、〈あなた〉は自分に都合の良い相手に取り入る本能のようなものはあるようですし、周りが見えていないというよりも、周りの人々に興味がないから見ていないというニュアンスが強いです。

「あなたには、書いて残したいことなどなにもなかった。まして、不特定多数の他人に見てもらいたいものなど、なにもなかった」

他人からの視線を求めない〈あなた〉が、他人を見る必要はないのです。

 他人の外面も内面も見る〈わたし〉と他人に興味がないから見ない〈あなた〉は、対照的な存在ではありますが、その核の部分な同じです。「わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」なのです。なら、何が同じなのか。話の持って行き方で何となく察せられるでしょうが、【他者との交流の中で生まれるアイデンティがない】という点で同じなのだと思います。

 極度の近視と遠視は似ているという説明がありますが、一番近くにあるはずの自分に関しては上手く見えていないのでしょう。いや、ぼんやりとは見えています。〈わたし〉であれば、他人の目に映る自分の姿、〈あなた〉であれば、動物的な本能で行動する自分の姿なんかは、わりとはっきり見えているのかもしれません。それでも、他人を経由して初めて、自分の心に生じるアイデンティティはないはずです。これが、他人の行動に対して感情を出そうとしない〈わたし〉と、他人のことに興味がない〈あなた〉との共通点なのだと思います。

おわりの感想

 長くなってきたので、ここら辺で話をまとめます。……はじめに考えようと言っていたラストの描写について考えられていなかった! ここで考えます。


 まず、時間軸はどこなのですかね? そもそも語り手の〈わたし〉が「それからさらにあと」と語ることから、(目のよい3歳の〈わたし〉が未来を見通せて第三人称で物語っているのでなければ)語りには時間的な含みはあるんですよね。それで最後の描写。3歳の幼児が大人に跨って抑えつけられるのか。「これでよく見えるようになった?」とはっきり話すのか。やっぱりここは、時間軸が抜き取られて、「それからさらにあと」に繋がっていると思います。

 「これからあなたが過ごすであろう時間が、一枚のガラス板となってあなたの体を腰からまっぷたつに切断しようとしていた。今、その同じガラス板が、わたしのすぐ近くにやってきているのが見えている。」

この「ガラス板」は何を象徴しているのか?! 最後のこの1頁はかなり解釈が分かれるところだと思います。正直、ここまで書き進めておいてまだ、自分なりの考えを持てていません。難しい〜、けど面白い〜! 生活の中で時々思い出して、しばらくは楽しみたいと思います。(いつまでも口の中で飴を転がすタイプ)


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