スポーツの意義の恣意
スポーツの意義、特に見るスポーツの意義を恣意した。
イギリスがマスクすら解除したニュースでの、狂喜する民衆。
国民ではない、民衆である。
ニュースに映るのは大勢に見えても高々一つの店を、あるいは街路を、広くてもスタジアムを埋める人数でしかない。
多く見ても数万人、店なら数十人の民衆である。
イギリスの人口はロンドンですら890万人である。
スタジアムの数万人ですら、ロンドンの中では大海の一滴に過ぎない。
つまり、ニュースで報じられている狂喜する民衆は、スポーツ観戦や飲酒の開放を喜ぶほんの一部の市民でしかない。
同じニュースで、持病持ちの家族を心配して、これからは家を出ることもままならないと嘆く主婦が居た。
しかしイギリス政府は開放に踏み切った。
何故?
スポーツ観戦や飲酒が
『他に楽しみを見つけることができない
近視眼的な人間』の
安直なストレス解消だからである
趣味であれ、自分がするスポーツであれ、相応の努力と時間を要するから、安直なストレス発散や快楽や興奮を求める者にとっては選択対象とはならない。
スタジアムの椅子に座って、パブの中で、自宅のカウチに座って、酒を飲みながら周りの興奮を自分に反映して騒ぎ興奮する快感を得る。
これほど安直な、手軽な、努力のいらない、更に能力のいらない娯楽があるだろうか?
もちろん他にもある。ドラマや芝居もその一つだろう。
人気ロックバンドやアイドルのフェスもそうだろう。
つまり、スポーツ観戦者の大半は、安直な快楽を求めるだけの、他にやることが無い愚者(あえてそう表現する)でしかない。
あるいは、他人のフンドシで相撲を取る、この場合は興奮と快楽を得る、無能者でしかない。
更に愚かなことに、感染症対策を「押し付けられたもの」「自分には関係ないもの」「自分は感染するはずがない」と考える者たちにとっては、感染を禁じられることは、ストレスを抱え込む原因だと誤解しやすいことなのである。
つまり、自分のための感染対策を強制されたストレスの要因と誤解するのである。
暴動抑制薬としてのスポーツ観戦
だからスポーツ観戦が推進される。
スポーツをするアスリートという美談をパッケージの表に大きく張り出して奨励される。
実際は観戦し興奮したい民衆のストレス解消を図っている。
興奮を求める民衆とは暴走しかねない民衆であり、暴走する民衆は治安や経済にとっての大敵である。
観戦するスポーツとは、不満を持つ民衆へのガス抜き
つまり、観戦するスポーツとは、不満を持つ民衆へのガス抜き手段の提供である・・・ともいえる(恣意であるよ)
サッカー、オリンピック、世界陸上、アメリカンフットボール
特にサッカーはその最たるものであろう。
サッカースタジアムは、プロの妙技を見る民衆が集まっているのか?
いや、私には興奮することで快楽を得る、安直な民衆にしか見えない。
アスリートの美談でスポーツ観戦の真義を隠す
そう、アスリートの苦労話や長い年月の努力という美談でを包み紙にした、民衆の不満のガス抜きの手段でしかないのである。
この分析に違和感を感じるなら、イギリスで狂喜乱舞するパブ内や街頭のサッカーファンのニュースを見直せばよい。
暴力性すら感じる彼らの狂喜乱舞をじっくりと見て考える必要がある。
安直な娯楽には落とし穴がある のだろう。
bye
ありがとー