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この夏、父を看取った

こんにちは、こんばんは。
実はこの記事、8月17日に書いていたものです。
その途中で、病院から連絡を受け、父の最期に立ち合い、そして今日は8月29日。
久しぶりにPCを開いてみたら、書きかけのこの記事を見つけました。

せっかくなので、17日の分はなるべくそのまま、そして、今の心境を添えて記録として残しておきたいと思い加筆します。
ちなみに、見出し画は病院から見た夜明けです。

8月17日分

今の私の気持ちを書き残しておこうと思ってかなり久しぶりにnoteを開きました

ちょうど3年前の今頃、父は血痰が出て病院に行くことになりました。
そのうち、落ち着いたら時系列に記録でもしようかと思いますが、
この3年、父は肺癌と脳挫傷、肺化膿症…からの肺結核、いろいろな物と闘ってきました。

特に、今年に入ってからは3度程死線を潜り抜けて、余命宣告などなかったかのように過ごしていたけど…
今まさに、父は生と死の境目に立っています。

今日は、私の今の気持ちだけに特化して
書き留めておこうと思います。

昨日、今考えても父に呼ばれたとして思えないタイミングで
このコロナ渦の面会のできない病院で
たまたま主治医に会え、会って話すことができました。

さぞ苦しかろう、寂しかろうと思っていたら意外と穏やかな顔をしていました。


「お父さん」
って声をかけたら
布団から手を出して
「大丈夫」
そう一言いって
「待ってるね」
って言ったら
「うん」
と返事をしてくれて。

手を握って、顔を触って(熱の有無を確認してた)
最後に
「孫たちも待ってるよ」
って言ったら
「うん」
て返事をしてくれた。

先週の木曜日には、退院の目途もたち、息子たちとも電話して
「明日から一緒にご飯食べるぞ」
と言っていたのに、土曜日に嘔吐からの誤嚥性肺炎。

70歳以上の肺炎の約80%が誤嚥性肺炎だそうだけど、誤嚥というのは本当に恐ろしいものだなと思います。
ちなみに、誤嚥性肺炎を起こしていなくても、「明日一緒にご飯」はさすがに無理だったと思うけど。

いよいよ覚悟が必要ですっていう段階になって、今思うことは
必要なのは、父の下す決定を受け入れる『覚悟』なんだな。
ということ。

もう今日は、あまり話せなくなっている様です。
父の体の中で何が起こっているかは、もしかしたら医師にもわからないのかもしれない。

だけど、父が私に開口一番に伝えたかった言葉が「大丈夫」だったのならば
私は『お父さんは大丈夫』って思って、父の決断を待とうと思います。
どんな状態でも、生きたい、まだ闘いたい。と思うなら、最後まで付き合おうと思うし、
その時は、家に帰ってきて、できる限りの事はするよ。
そうでないなら、遺される母の悔いができる限り少なくなる様に
私は母を支えていこうと思います。

赤ちゃんは生まれてくるタイミングを選ぶと良く言われているけれど
生まれてくるタイミングを選ぶというのなら
逝くタイミングも選ぶんじゃないかなぁとは、相棒の言葉。

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と、ここまでを書いていて
8月18日 午前0:34 病院から着信を受けました。

その後

その後、私は姉二人に連絡を入れ、自分は母を乗せて病院へ向かいました。
長姉は車で1時間ほどの所に住んでいますが、その日はたまたま甥っ子が居て、運転してもらえ最期に間に合いました。それも余裕で。
18日の深夜、父は51年間連れ添った妻と、娘達に見送られて生涯を終えました。

このコロナ禍、
面会はできませんと言われていたのにも関わらず、16日の月曜日に会えて話せたこと、それを私がこう受け止め、家族に伝えたこと。
そして、本当に辛い最後の入院は手厚く治療、看護してもらい、家族に辛くて悲しい思いをさせなかった事、最期は全員に囲まれて逝けた事。
そして、肺炎だけど新型コロナ肺炎ではなかったので、お葬式もしてあげられた事。

全て、父が決めて人を動かしていたように思えてなりません。
いつも強運で、周りの人に恵まれている人でした。
私は、常々「お父さんは癌では死なない、死ぬとしたら運の尽き」と言っていたけど、最後まで運のいい人でした。
というか、運がいいとかではなく、いつも自分で決めていたのかな~なぁんて。


母が父との別れを覚悟できたのも17日だった様に思います。
どこか吹っ切れたというか、受け止めたというか。
父は、母の覚悟が決まるのを待っていたようにも思うし、母も後からそう言っていました。
そこは、壮絶なケンカを繰り返しつつも50年以上連れ添った夫婦、きっと何かあるに違いない。

最後に家族が聞いた言葉は、私が聞いた「大丈夫」だったけれど、
これは、私がみんなの代表として聞かされたんだと思って、みんなにきちんと伝えました。
…し、最後の一言を聞けたのは仕事を辞めてまで、一緒に居た私への最大のご褒美だと思っています。
母でなかったのは、母だと多分大丈夫って思えないから。
私は、母の気持ちを持ち上げる任務を託されたんだと思います。



そして、いよいよっていう時に私が父にかけた言葉は
「みんな来るまで待っててくれてありがとう。お母さんの事も、会社の事も任せて。もう後は、お父さんのタイミングでいいよ」
でした。

その後、30秒ほどで脈拍が弱くなりました。
姉たちはコロナ禍故に、近くで待機ができず、病院内でも離れたところに居ましたが、看護師さんが「まだいらっしゃいますか?」と言ってくれて、呼び戻す事ができました。
姉達が到着するのを待ち、それぞれが一言ずつ声をかけた瞬間に亡くなりました。
そして。
なんと、一度脈が戻って、口がもごもごしたんです。
あれは、きっと母に何かを伝え忘れて戻ってきたんだと思います。

こんな事、ドラマの中だけの事かと思ってたけど、
実際にあるんだぁ~て感じ。
事実は小説より奇なり。
だけど、そんなのも父らしいなと思います。


もしかしたら、私があの時「もういいよ」と声をかけなければ、あと数時間は居てくれたのかもしれない。
だけど、もう意識がない父を、こちらの都合で頑張らせるのは申し訳ない気持ちになってしまって声をかけました。
お父さんは十分頑張った、きっともっと生きたかったと思うし、私ももっとお父さんと一緒に居たかったけど。
けど、、あれがお父さんのタイミングだったんだよね。

自分でした事の責任は自分でとる。
言霊はある。
と常々思っているけど、今回は「あ、本当にそうだな」と思いました。
言動に気を付けようと、心に刻んだ出来事でした。

最後に

父が亡くなって10日経ったわけだけど、
父に会いたいし、寂しいなと思います。
特に、入院してからの父の間違えて撮った自撮りは、日を追うごとに見るのが辛くなります。
きっと、これから何度も寂しいと思ったり、会いたいと思ったりするんだと思います。

後悔しようと思えば、きっと沢山ネタはあります。
だけど、
最善ではなかったけど、その時その時の最良を選び続けてきて、そして迎えた最期だったと思えるので、これで良かったんだって思えます。

私は、ずっと一緒に病院に行って、日々の病状を把握していた分、
誰よりも冷静に、誰よりも正確に、誰よりも早く、今回の父の死を受け止めていたように思います。
寂しいけど、悲しいけど、でも悔いのない父との別れでした。

今はもう「大丈夫」なところで、きっと好きな事をしているに違いないと思うと、痛みも苦しみも無くなって良かったねって思いもあります。
なので、私にかけられる「お悔み申し上げます」は何だかしっくりこないんです。
それよりも、最後まで本当にかっこよかった父を、ぜひ称えていただきたいと思います。

私にとっては
みんなに自慢できる、世界一のお父さんでした。

やりきった!悔いはない!と思える程
最後まで、傍に居させてくれた事に心から感謝しています。


親を失うという経験は、通常、人生で2度しかなく、そのうちの1回を今回経験したわけですが、思っていたよりも恐ろしい事ではありませんでした。
覚悟を決めたとは言え、実際その時になったら、どんな気持ちになるんだろう?と、不安だったのが正直なところ。
だけど、人生の幕引きを近くで見せてもらったんだなと思います。
私は最期まで親の背中見せてくれた父に敬意を払うと共に、
その背中を追いかけて、そして、父がしくじった部分は真似をせずに生きていこうと思います。

大好きだよ、お父さん。



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