自分

幼稚園のころはいじめっ子だった。おそらく
運動が苦手な友達の周りにボールを投げて泣かせていた。そんなビビることなにのにと笑っていた。やばいやつだ。
その子が「モー」と怒るので、その子をもー君と呼んでいた。なんてだめな子だろう。でもその子とは次の時間一緒に遊んでいた。不思議だ

幼稚園のおやつの時間
たしかその時は夏場で、外でアイスを食べた。ピンクや黄色、青の長い棒の先にアイスを食べる。
隣の子が、段から動こうとしたのか、何かの拍子に側溝のアミアミに頭を打ったらしい。とても泣いていた。
そんなに泣く必要ないでしょ、と冷めた目で見ていた。

幼稚園の運動会
障害物競走で、平均台の上を通過しなきゃいけないのだが、僕と僕の前の子は平均台の横を走っていった。
結果を待つ間、運営をしている父兄さんに、「平均台の上を行かなかったから、お菓子はもらいないかもな」と言われた。
残念でもあり、そんなものいらない、とも思った気がする。

幼稚園のお遊戯会のビデオ
家でお遊戯会のビデオを家族や親戚と見た。
僕は、お遊戯会の時に鼻がかゆくて、ずっとこすっていた。今も鼻をすごくこする。やめた方がいい。
そのビデオを、家族や親戚は鼻をこするたびに笑っていた。僕は恥ずかしくて、こたつにもぐった。本当に嫌なら、部屋の外に出るだろうけど、なぜか僕はみんながビデオを見ている部屋のこたつにもぐった。
たぶん、恥ずかしくて、嬉しかったんだろうな。それだけ注目されたい子供だった。
あと、この時から、いじられるのが不快というより、いじられたことが楽しいと感じ、その後どうしようと考えてたのかもしれない。

自分の声
自分の声と話し方は苦手だ。幼稚園のころから兄やいとこにバカにされてきた。そのせいでおそらく嫌いなんだろう。
以前は、なんでこんなごにょごにょ話しているんだ!気持ち悪い、と思っていた。おまけに滑舌も悪い。
最近はお笑いを始めたこともあり、声量が上がり、人に「なんて?」と聞き返されることも減ったはずだ。
そして、オードリー若林さんの話し方を真似しているから、自分の話し方に気に病まない。これからオリジナルになっていくことでしょう
最近はようやく気にならなくなった。あれ、こんな声だっけ?くらいでおさまる。


小学校の運動会
80メートル走
1年生の時は1位だった。
2年生の時は2位だった。
3年生の時は3位か4位だった。
4年生の時は3位か4位だった。

周りの子の方が足が速いという事実を受け止めるのにとても時間がかかった。いろんな理由をつけて自分が人より足が遅いのはしょうがないと考えていた。
2位でもいいみたいなことをお風呂で父に言った。とてもひねくれていたと思う。1位になりたかったと言えばいいのにな

ストイックな兄の勧めで中間休みに1人で100メートル走をしていた。体育の時間以外で100メートル走を練習するやつなんていない。とても恥ずかしかった。中途半端に練習して、結局はみんながしているサッカーを途中からした。
人から言われてできるほど強くなかった。誰か先生が見ていてくれと思いながら、恥ずかしながら中間休みのグランドを走った。
いつからか、みんな足がはやーい、すごーい!みたいなことを言って、自分は同じ土俵にはいないようにしていた。達観というか、どこか大人ぶることで自分を保つしかなかった。本当は1位でゴールテープをきりたかった。
自分の身の程を知って、サポーターになる癖はこのころからだったのかも


親の影響
父からは否定+受け止めをされることが多い。
父は考えを押し付けない。僕の考えを聞いてくれる。ただ、ものすごく現実的に指摘してくる。とても理論的だ。ほんとに人生1周目なのだろうか。

母からはたぶん肯定が多いが社会的に見てどうかという価値尺度を教わった。
小学校の水泳大会で、僕がぼーと他の人が泳いでいるのを見たり、プールサイドの草を見ていたりしていた。
家に帰ってからだったか、「ちゃんと真剣に他の人の泳ぎを見てた!」と言われた。ああ、自分が泳いでいるとき以外も気を抜いたらまずいんだなと、客観的な視点というものを与えられた。

その影響か、僕はとても人の目を気にする。
インスタを挙げるときもそうだ
この写真を挙げたら、生意気に思われるかな。この食べ物のマイナスプロモーションになっちゃいそうだから、この写真はやめよ
友達のメンションをつけないと失礼かな、どの人までメンションつけるべきだろ
この写真はナンバー写ってるから使えないや
この人は写真のっけても大丈夫な人だっけ?マスクしてるからいいかな

自分がどう見られるかという自意識と
他人を変に傷つけないかという意識によって、投稿1つに30分かかったり、3回も修正したりする(笑)

客観的視点は自分の身をこれまで何度も守ってきた
だからこそ、今さまざまなコミュニティで活動させてもらえているだろう
それと同時に自分を縛り上げてきた
社会的な立ち場として○○していないとだめだ。○○という発言は不適切だ。とても窮屈な人生を送ってきた


中学校の運動会の片付け
僕は美化委員長をしていた。壊れたポンポンや椅子の足に巻いていたビニール袋を燃えるごみの袋に入れていた。
運動会は自分の組が勝ち、意気揚々としながら作業をしていた。
友達とはしゃぎながら、とても盛り上がって、ごみ袋に中学校名を書かなきゃいけないが、僕はここの欄に友達の名前を書いたら面白いと思って、友達の名前を書いて、友達に見せた。
友達も自分も大爆笑!気持ちよかった
それと同時に、担当の先生から注意され、「そんなことやる人だと思わなかった」と言われた。急いで書き直し、またミスり友達と笑ったような気がする

「そんなことやる人だと思わなかった」
この人生で何回言われてきただろう
「キャラじゃない」
「向いてない」
「らしくない」
そういわれる度に、あなたは私の何を知ってるんだと思う

そんなことやる人だわ!知った気でいんなよ、俺を更新しろ!
と思う。とても恥ずかしいが、本気で思う

月曜日にゴミ捨て場に行って、ハンカチで綺麗に友達の名前を消し、中学校名を書いた。悲しかった。結局は真面目な生徒で生きなきゃいけないと

合唱コンクールではストッパーが外れた
コンクール後のクラス会で一人ずつ感想を言い合った。
僕は、「感動した」と言って、体感3分くらい熱弁して、みんなを爆笑させた
クラス会で何というかは、一週間、いや二週間前くらいから決めていた気がする(笑)
そのくらい前から僕は準備をする。そういうやつだ、そういうことする人なんだ

あるかもわからない未来のために、妄想に妄想を膨らませて準備をする。
もちろん、何の機会も得ないまま消えていく妄想練習もある。
文化祭で、合唱コンクールで卒業式で体育のソフトボールで、こんなことをしたい、こんなことを言いたい、こんなプレーをしたい!
そのいつ来るかわからない、一生来ないかもしれない瞬間のために、自分のやりたいことに向けてこそこそ練習を重ねる

それがバチっと合う瞬間が人生ではある
いや、自分でちょっと作っているのかもしれない
これからあと、どれくらいその瞬間を作りにいけるだろう
その瞬間を作るために自分はエネルギーを割きたいなと思う

今はお笑いがその出口になっている。僕はお笑いを一人部屋で考えて、まずは一人でネタをやっていたり、モノマネを練習しているようなやつなのだ。

最近は、「らしくない」と言われることも減った
僕が変態だと認識してくれる人が増えたからだと思う

ただ、まだまだ言いたいことも言えてない、やりたいネタもストップさせているのだ
これはお客さんに引かれる、ネタの脈絡がない
そんなことを言われて、眠っているボケ、ツッコミ、ネタがたくさんあるのだ
まだまだ客観的な目線に縛られて毎日を過ごしている。
たまに、どうでも良くなって、爆発したように何を考えずに行動することがある。

なぜ、客観的な目線に支えられて生きているのに、こんなに苦しませてもくるんだろう
「気にしすぎ」
そういわれれば、そうだ。正解です。ただ、じゃああなたはこんなツイートやインスタアップしてもいいねだけ押してくれるのか?と思う
批判しないのか?!絶対なんか思うだろ、じゃあ、気にしすぎじゃないんだよと思う。

だけど、客観的な視点を求めている自分もいる。自分に自信がないから。他者の意見を求める。だけど指摘はされたくない。
とてもわがままで扱いずらい人間だなと客観的に思う。
ようやく最近は、指摘されても大丈夫になってきた。
だってあなたの指摘は100点じゃないから。あなたが毎日100点ではないから。
今までの僕は、全員から絶賛されることを求めていた。だけど、全員から良い評価をされることはない。
全員にハマろうとしていた。全員にハマらなくていいと最近わかった。
この人にはハマらなんだなと、この前のライブの打ち上げで終わった。僕はその人を追わなかった。前までなら、ハマりたくて、店の外まで追いかけて深々と挨拶をして、気に入られにいっていただろう。ただ、もうあと人にかわいがられなくてもお笑いはできる。そう思うと、生きるのが楽になってきた。
だから、指摘も受け入れられるようになってきた。

これからも、それは共感できないです、何が面白いんですかと言われるだろう。でも全員が面白くなんだろうか、どこがおもしろくないんだろうか。その部分の価値観は僕が大事にしていない部分だから、変えてもいいのか、それとも絶対に譲れない部分なのか
絶対に譲れない部分なら、僕はあなたの今の正解より、自分を信じる




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