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その人の今いる位置を認めて、愛しいと思えるように背中を押すこと。

理解に誤解はつきものだ。

もう少し噛み砕くと、

厳密な理解とは、理解と誤解の両者を正確に受け入れたうえで、その両方の側面の中から全面的な理解を目指して進むことを言う。

と、フリードヒ・シュライエルマッハーは言っている。

噛み砕いているのか、丸呑みしているのか、少しばかり複雑になってしまった。

「君にとって人助けとは何か?」と聞かれて

理解者になる事。
乗り越える事は変わる事じゃなくていい。
その人が今いる位置を認めて、
愛しいと思えるように背中を押す事。

と答えたのは漫画スケットダンスのボッスンである。

誰かの理解者になること。

その人の今いる位置を認めて、愛しいと思えるように背中を押すこと。

素敵な姿勢だと思った。

多分、この世の中の大半の人は大小あれど、「自分を変えたい」と思っているのではないだろうか。

お金持ちになりたかったり、もっと痩せたいと思ったり、自由な生活がしたいと思ったり。

その願望に潰されないように、支えることもまた人助けなのだろうか。

それでは、誰かの理解者になることは簡単なことなのか。

難しいような気もする。

冒頭にも述べた通り、理解に誤解はつきものだ。

理解するにあたって、誤解を含むことを前提に物事を捉えた方が良い。

理解しようとし、誤解を解こうとしてもどうしても理解不能なときもある。

自分の育ってきた環境、見てきたもの食べてきたものは違うのだからそれは仕方ない。

それでも理解を諦めない姿勢。その人を知りたいと思う心があれば、相手に信頼を与えられるのだろう。

よくコミュニケーションの本で聞き方が大事、傾聴が大事と謳っている。

そして、「相手の言ったことを言い換えながら繰り返しましょう」とある。

それはそれでいいかもしれないが、1番大切なのはそこに『相手を理解したい』心があるかどうか。

四書五経の『大学』でも、

心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず。

と言っている。

心がなければ聞こえないばかりか、見えないのだ。

「自分のことを理解してくれる人がいない。。」

という人がいるのなら、その人の理解者になるだけでも大きな力になれるのだろう。

人は完全には分かり合えないし、誤解もつきものだけど、心のマスク、心のイヤホンは出来るだけせずに、心ある1日を過ごそうと思う。

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