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今の自分を正当化するための散文

起きていないことを心配して自分を追い込んでしまうのは、とても愚かで可笑しなことだと思うのだけれど、与えられた環境と、あらかじめ決まっている状況下で息をしているこの現実を運命と呼ぶならば、その中で丁寧に生きることをいつの間にか強いられている人間という生き物にとっては、これは至って仕方がない心の動きなのかもしれないと、考えることがある。
人間には色々な顔がある。多面的で、ゴツゴツとしていて、故に考え方も多岐に渡り、ひどく醜いときもある。
けれども大半は気が小さい。というより、小さくなってしまう。ああなったらどうしようとか、あんなことが起きたら困ったなとか、繊細なふりをした露骨な葛藤は、繰り返すだけ無駄なんてのはわかっているのに、結局のところ永遠と考えてしまって、時間を浪費している。
でも、その心の動きはやっぱり愚かで可笑しいことなんだけど、少しだけほんの少しだけ可愛らしさも含んでいる気がする。それに、その心配事の数々だって、実は起きるわけないってことも、人間である私たちは同時に分かっているはず、なのに、永遠と同じ問いを自分に向けては繰り返し、起きもしない、起きるはずもないことで一喜一憂して、笑ったり泣いたりしながら過ごしている。これは相当にかなり可笑しくて可愛いことだと思う。
自分の目の前に広がるこの世界も、それらは全く誰のものでもなく全部自分のもので、自分の選択が全てで、自分の選択の連続の延長線上にある。その中で自分が起きるかもとして見ていた世界のほとんどはどこかに置き去りになっていて、なんでもない、なんの変哲もない世界の中に立っている。
結局はやっぱり、起きるかもと思っていることのほとんどは起きないし、いつの日か自分がその期待や絶望に支配されていたことすらも忘れて、運命とかいうものに振り回されながらも、私たち人間はまたあらかじめ決まっている答えの中からそれっぽいものを選択して、自分の中のなんとなくを正当化させながら、起きるはずなんかないんだよねを飲み込んで生きていくしかないし、起きた時にはまたそれを肯定したり否定したりしながらなんとなく受け流したり受け止めたりしているわけで、その生き方が一番合っているし、それしか生き方はない。だから、色々なことを気にしたって仕方がないし、もっと気楽に生きていてもいいんじゃないか、ってことなんだ。

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