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読書つれづれVol.1 2024/05/17了 「短歌をよむ」俵万智著

わたしと短歌との出会いが、俵万智さんだった。
「今度短歌やります」と学校の先生が言っていた、冬の一際寒い日の帰途。鉄道の通る上にかかる橋の手前で目にとまった、一枚のポスター。小学生が描いたであろう火の用心を訴えるイラストに、添えられた短歌。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

俵万智「サラダ記念日」

わたしはそれが短歌だと、すぐにはわからなかった。意味を汲み取り何度か心のなかで発音し、言葉を味わっていた。気づくと文が五七五七七に分割され、リズムが現れた。これが短歌ってやつだ……

こころにポッとあかりが生じ、胸に血が通ったように感じた。短歌の内容以上に、リズムがこころに刺さったのだった。

学校の短歌の授業では、先生の説明を聞いて、そんな意味なの?教えてもらわなきゃわからないよ、と思ったりした。
中学の時は、崩壊していたクラスが茂吉の「最上川」の歌を扱った回だけ静かだった。
高校では「死にたまふ母」を教えていた教師が壇上で涙をもらす姿があった。授業で作歌はなかった。

そこで作ってみたくなった。
近所の本屋で本作を見つけた私は、一通り読み、歌を作ろうと町を歩いた。が、ひとつも出来はしなかった。

今年の4月、わたしは散歩するのが習慣になりつつあった。毎朝、左右一キロずつダンベルをもって雪駄を履いて、二十分くらい歩く。
いつものコースに燕が現れるようになった。燕が好きだ。飛ぶさまがカッコいい。でも小さくて、大きな態度を取ったりもしない。素敵だ。
電線にとまっている二匹の燕を見て、茂吉を思い出した。見ているうちに作りたくなった。ある友人の言葉から、取るに足らないこと、つまらないこと、どうでもいいこと、ちいさなことほど作りやすいのでは、作る価値があるのではと思っていたところだった。それを念頭に作り始めた。虜になっているわたしがいた。

かつて読んだ本作を読み直し、趣味に活かそう。これが今回の読書の経緯です。


  1. 短歌を読む

  2. 短歌を詠む

  3. 短歌を考える

の三部構成。特に二部の短歌を詠むにおいて、俵さんの実作における推敲の過程が詳細に語られている。短歌を作る者にとって、非常に勉強になると思う。


わたしは記憶力にかけてはとても自信がない。が、初読の記憶が思った以上に残っていることに驚いた。
俵さんの弟君の受験上京のエピソードと大伯皇女の歌の重ね合わせ、助動詞「べし」の活用の歌の響き、「袖振る」の解説、「逢いみての」の感想の変化、「題詠」への感情、「サラダ記念日」誕生秘話、心の「揺れ」について、子規「歌よみにあたふる書」、男性の首のサイズの話題……など。

あらためて学んだこと。具体、事柄、客観と主観のブレンド(バランス)の重要性。具体の必然性の検討。

印象的だったこと。時間のたゆたうのを感じる歌が多くあったこと。優れた短歌は読むものに時間を感じさせると思った。

本作を読んでの感想。
あらためて三十一文字という枠の有効性、可能性を感じた。三十一文字という取っ掛かりがあるから、言葉にできうる。三十一文字という制限しか無いから、自由だ。
読むことも詠むことも体験だ。生活に根ざしたものだ。むしろ丁寧に生活することに本義がある気がする。
日常会話において、会話はドンドン流れていく。検討する余地は大きくない。一方、歌は丁寧に言葉と向き合い、詰めていく。そこが、わたしの性に合っていると思った。特に、主観と客観のバランスの検討や具体を示すことを、わたしの「詠む」に活かしていきたいと思う。


P.S.
これから読書の記録をnoteに残そうと思います。現在は「留学生と見た日本語」佐々木瑞枝著 を読んでいます。

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