映画「ふれる」 in 伏見ミリオン座 2024/11/13
私の住む市の南隣は瀬戸物のまち、瀬戸市だ。瀬戸の街には毎週行っている。愛知環状鉄道瀬戸市駅のトイレ前面はタイル張りだ。
来年「国際芸術祭あいち2025」が開かれ、瀬戸市のまちなかなどを舞台に展開するという。そのキュレーターの方を招いてのトークイベントに参加した。
この10月11月には芸術祭のプレイベントもあった。そちらには行けなかったのだが、芸術祭の開催地のひとつ、愛知県陶磁美術館が11月から漸次リニューアルオープンする。その企画イベントに参加した。敷地内に点在する様々な年代の窯を巡るツアーだ。
愛知県に住んでるわたしだが、休日に多治見方向の電車に乗ることが多い。中津川にある「詩と美術館」の最近の展示で須恵器をテーマにしたものがあった。女性作家2人の展示会だ。在廊されていた先生に陶器について質問すると詳しく教えてもらえた。陶器についてもっと知りたくなった。
そしてわたしがいま住んでいる家を建てた祖父は焼き物が好きだったらしい。自作が残っている。
6月に千葉から転居して半年が経とうとしている。振り返ると陶磁器と近しくなっていった半年間だった。友人と行った大須商店街でひとり陶磁器に目を凝らしていたりした。
数か月前 X(Twitter)のフォロワーが増えていて、映画公式とあったので驚いて見ると、本作の公式アカウントだった。ホームページにとんで見ると、大学の卒業制作が劇場公開されるらしい。台詞のないト書きから俳優と対話を通しつくりあげた作品とある。北野武さんは現場まで台詞を伝えないやり方だそうだが、対話を通してというのはいままで聞いたことがない。最近になって圏内の名古屋でも上映されるというポストがあり、縁を感じて観に行った。
母を亡くした小学生美咲は20歳の姉、父と暮らしている。美咲の奇行を周囲は心配している。陶芸の工房に遊びに通い、学校へは行っていない。そんな家族にひとりの女性がやって来る。新しい母……
冒頭からしばらく「ふれる」よりも「みる」が気になった。カメラと俳優の距離感が独特な感じ。すこし遠巻きに覗くような視線を思わせる構図(見守るような)と、美咲の目線の高さのクローズアップ。墓参りで手を合わせるときのチラと墓をみる姿。ときには観客にみせないという要素もあり、新鮮だった。
「ふれる」必然性が生じるのは「みる」が制限されたときで、美咲は亡き母の姿を宙にみながら、しかしみえない自分の「生きる」を手探りしているように感じられた。
しかし、逆なのではとも思う。そもそも「みる」というのは直接的な「ふれる」がかなわないときの次善なのではないか。「ふれる」が根源ではないか。母とつながっていた感覚をなくして行き場のなくなったエネルギーが美咲の手を「土器」にふれさせているようにも思う。
こどもは正直だとつくづく思う。自分の基準に忠実だ。
共感したシーンがある。終盤、美咲が父と学校を訪れる。転校の挨拶をしに。挨拶する父を残しひとり教室に行って、またやっちゃ駄目なことをする。気づくと担任が後ろにいて……担任にはプレッシャーがかかる場面だ。これが会える最後だろう。不登校の子。前にも同じ状況があってその後どうゆう展開になったかがよぎりもしただろう。本来なら叱らなければならない。が……
ひとがひとと生きていくのは、わからなさとつきあうこと、とあたらめて思った。