見出し画像

生きる意味は後から勝手についてくる

自分の人生にいったいどれくらいの価値があるんだろう。

社会になにもできていない。

そんな自分の居場所はどこにあるんだろう。

だれにも共有しづらい絶望感、生きることへの居心地の悪さを感じた時期がありました。機能性低血糖症の回復途上。相性の良い治療薬が見つかり、でも、服用の副作用で全身がだるく、文字通り、手も足も出なかったあの時。わたしのソウルジェムは濁りきってました。

ソウルジェムってなに?

と思われた方、ぜひまどマギをご覧ください。

いわゆる萌え系アニメは苦手科目。なので、4年前に友だちが勧めてくれた時も、1話前半15分くらいで、「あ、無理!これ自分と合わない!」とサジを投げました。で、4年越しにまどマギを見て、強烈な衝撃に襲われました。うまく言えないんですけど、エヴァが26話と劇場版3分作で描いた世界観がわずか11話に収まっていることに。脚本家、尋常じゃない。
内容はぜひ見てください!なんですけど、作中に頻出するワードがあります。

希望と絶望のバランスは差し引きゼロ

主人公たちも、作品を見る人も、希望は絶望に逆転するんだ!というところに注意がいきます。が、冒頭の絶望感を経験したわたしには違って聞こえました。

絶望と希望のバランスは差し引きゼロ

絶望が深ければ、それだけ希望も生まれるんです。ベッド貼り付け寝たきり生活をスタート地点にすると、吐き気なくご飯が食べられたり、歩いても立ちくらみがしない現在の世界線は希望に満ち満ちています。普通の人からしたら、しごく当たり前のことなのかもしれないですけど。

社会との接点を作れず、激しい無力感と絶望にひたひただった当時に返ることができたとしたら。そっと自分の隣に寄り添って、「大丈夫」って声をかけてあげたい。
その時は辛いし、終わりが見えない。だけど、生きたいという意思がある限り、希望の光は必ず差します。そこに勝手に「生きる意味」はついてきます。こちらが無理くり作ろうとしなくても。

絶望の後には、それまで当たり前だったものが「希望」のワッペンをつけて、「やあ!」って挨拶してくれる世界が待っています。

あ、時間が…もうちょっと書きたかった…

ごちそうさまです。

まさかお金が振り込まれることはあるまい、と高を括っているので、サポートされたら、とりあえず「ふぁ!」って叫びます。