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君たちはどう生きるか という不思議な作品

「君たちはどう生きるか」は一言で言えば、宮﨑駿監督による「私小説的、児童文学」と言える。
宮﨑監督の「児童文学」に対する拘泥はなかなかのもので、曰く、「この世は生きるに値する」という作品こそが、「児童文学」だと自分に定義しているらしい。
そしてそれを、常に念頭において映画をつくってきた…、けれど同時に、彼の中には「ほんとうか?」という疑念が絶えなかったらしい。
むしろ彼は、彼の幼少期は、「生まれてこなければよかった」という反出生主義にも近い考えで満ちていたらしい(これは、ポニョのドキュメンタリーやインタビューでたびたび話されている)。
だから彼は、私小説的な映画はつくってこなかった。それでは「生まれてこなければよかった」という映画になってしまうから。

そうして「自分」をおさえ、「風立ちぬ」までをつくり、引退した監督。
しかし彼は、そんなある時「失われたものたちの本」という小説に出会った。彼はその小説の帯を書くほど気に入り、感動したらしい。その様子は「終わらない人」というドキュメンタリーで、少しだけ見ることができる。
そしてこの小説こそが、「君たちはどう生きるか」の下敷きとなり、彼にもう一度映画をつくらせたのである。

「失われたものたちの本」では、精神の壊れた本好きの少年が、本の囁き、死んだ母の囁きを聞くようになり、そのまま異世界へ入ってしまう話である。しかしその話は、いわゆる「夢オチ」で終わる。そのため異世界は、少年の見たものや読んだものが、そのまま影響した世界である(小説ではそれが、なんとなくわかるように書かれている)。
おそらく宮﨑監督は、コレをやろうと思ったのだろう。それもアニメーションで。そしてコレこそが、観たものを戸惑わせたものと思う。自分にだって理解できないことのある「夢」を他人が理解できるわけがない…

…ただ、ここで一つ考えさせられたことがある。
作品を理解できる必要はあるだろうか?と。
それは日々の生活の中で生まれた、なんでも「把握したい」という悪いクセではないか?と。
例えば宇宙を知り尽くしたとき、深海を知り尽くしたとき、人は、そこで興味をなくしてしまいはしないか?わかることの魅力があれば、その逆もある。
はっきり言って、人類が宇宙を知り尽くす日など来ないだろう。その前に滅亡でもするだろう。だからこそ今、たのしい。面白いのである。そういった魅力が、確かにある。

また、あの映画は、流石にすべてが理解できないわけではない。それは皆おなじだろう。
わかるところをわかり、わからないところは「こういう瞬間が自分にあっただろうか、あるいは今後あるだろうか?」という程度に観て、それが面白い映画だろう。それがあの映画の素晴らしいところだろう。そう思う。

眞人は死の島から生の島へと帰還する。自傷行為による傷の回復とともに。
死の世界ではただのタバコ好きのおばさんだと思っていた女性は若く、かっこいい。眞人はマヌケに思っていた人にも、そういう瞬間があることを知る。そしてその人は今も、どこかの時空の世界の中に居ることを知る。
また、だれかの墓には「我を学ぶものは死す」と書かれている。死者の真似をしても、死んでゆくだけである。
だからこそ、「君たちはどう生きるか」。言わば、対義語みたいなものだろう。いや、同義語である。
君には君の生き方があって、それは君自身によって学び、生きなければならない、ということを、眞人は知る。知ってしまう。

…「失われたものたちの本」では、主人公は最後、自分の体験をもとに小説を書く。そして小説家として生涯を全うしたことが書かれる。
すると、眞人はどうなるんだろう。やはり、アニメーターにでもなるんだろうか?そうしていくつもの「この世は生きるに値する」というアニメーションを、描き続けるのだろうか。

筆者はひとり、そんな人が現実にいることを知っている。

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