2024.9.6 長い瞬きで夏がおわる

いつも何かを探している。
それが何なのかは分からない、統一したものなのかさえも。でも確かに何かを探している。何かを探しながら、命を使っている気がする。
それが人なのか物なのか、将来なのか過去なのか、手のひらに収まる物なのか地球くらい大きな物なのか、わからない。見たことがあるものなのかすらきっとわかっていない。

夏が始まって、夏にやりたいことを考えている間に、9月になった。今年はちゃんと9月が近づくにつれて気温が下がって、9月になったら暑さが柔らかくなった。少しずつ少しずつ、世界が秋になろうとしているようだった。
夏が急に終わるのが苦手だ。あんなに暑かったのに、あんなに眩しかったのに、ある日突然本のページが風で一気に捲れてしまったかのように、寒くなるあの感じ。あの感じがどうも苦手だった。物事の終わりが苦手なのかもしれない。じっくりと終わることを意識しながら少しずつ夏が秋にフェードインしていってほしかった。ある日突然秋が消えて冬が来るのが寂しくて仕方ない。物事の終わりは、ちゃんとわかっていたい。急に来る終わりがずっと寂しいのだった。だから今年は少しだけ、夏が終わることを意識できて嬉しかった。
夏の間にやりたかったこと、思ったよりも何もしていない。写ルンですを使い切ろうとしていたけれどそんなことを言っている間に夏が終わろうとしているし、浴衣を着てお祭りに行くことも花火を見ることもできなかった。海には行った。地元の友達と「海行きたくない?」の一言だけで海まで車で行った。たった一言で海まで車を出してくれる友達がいて、海で子どものように貝殻と綺麗な石を探すことに夢中になって、波を触って過ごした。好きな夏だと思った。拾った貝殻は砂浜に固めて置いておいた。子どもの頃は持ち帰って宝箱にしまっていたな、と思った。大人へと近づいてしまっていることを自覚して、でも子どもの頃の記憶をちゃんと覚えていることが嬉しくて、泣きたくなった。夏はなんだか、昔のことを思い出して泣きたくなる。

そういえば今年はかき氷を食べていない。冷やし中華も、ごまだれに浸したそうめんも、夏野菜のカレーも、食べていない。夏に食べたものをあまり覚えていない。食事に無頓着な夏だったのかもしれない。夏が好きなはずなのにちゃんと夏にバテてしまっていた気がする。まだ少しだけ夏が秋にすり替わろうとしているうちに、そうめんくらいは作れるかなあ、カレーも、食事ならまだ少し取り戻せそうな気がする。夏が完全に終わるまでは夏の食事をしたいと思った。

恋愛小説を読んだ。江國香織のウエハースの椅子。憧れている女の子が、江國香織が好きと話していたのを思い出して、書店に行って買った。帰省先から今の家へ帰る電車の中で読んだ。幸福と絶望が同在していることがちゃんと書いてあった。泣きそうになった。柔らかくて優しい言葉が並んでいた。「今日の月はあなたの親指の爪みたい。」という言葉が出てきた。すごく愛のある言葉だと思った。親指というパーソナルな部分と、誰もが見れる月を重ねてしまう愛。月に関する言葉には愛が含まれることが多い気がして、月を見るのが好きになった。月が綺麗ですね、私にとって月はずっと綺麗でしたよ、なんて

いつも綺麗なものが好きだ。言葉も、景色も
夏に彩られた綺麗なものを追い求めている。追い求めて追い求めて、少しだけ見つけて、そんな間に秋が来て、冬が来る。それでいいと思う。来年の夏もまた少しだけ追い求めた綺麗なものに触れかけて、秋が来るのだと思う。

9月が過ぎている。

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