DAICHIという夢、夢の終わり。

ペレが空を飛んだというのは、ペレに関する事実の中でも最も有名な嘘である。


喋る事に賭けては右に出る者は居ないと自負する、出自も知れない怪しげな人達が、フットボール場ではなくラジオ局のマイクの前に座り、一日中代わる代わるに思い思いを喋り続けていた時代においても、フットボールはブラジル人にとってはセックスと並び人生において、最も重要なものの一つだった。

カナリア色のブラジル代表が旧世界、即ち欧州の国々と対戦する度に、彼等はただ喋り続けることにより、それを伝えた。映像が電波に乗るより以前、広大な国土を誇るブラジルという国において、ペレの勇姿を見た者は皆無に等しかった。

2018年の今も尚、最も偉大なフットボーラーの一人に数えられ続けているペレの姿を、いかにして大衆の元に届ければよいのか。彼等はそのあまりにも困難な難問と向き合い続け、苦心惨憺を続けた結果、遂に、遂にペレは空を飛ぶに至った。ペレは空を飛んでしまったのである。

けれども、誰一人としてペレ本人に、「あなたは本当に空を飛んだのですか?」などと問いただしたりはしなかった。それは、誰もがその嘘に気がついていたからではなく、むしろ、誰もがそれを、ペレが空を飛んだという事実を、本当にあった出来事だと信じて疑わなかったからである。

ブラジルの黄金時代とでも言うべき長い戦後を支えたのは、その嘘を頑なに信じ続けた人々であった。ファルカンが、ソクラテスが、トニーニョ・セレーゾがそれを信じ、ペレに憧れ、現在にまで続くブラジルという大国を形作った。グレン・ホドルに言わせれば、「ブラジルのフットボールは嘘で出来ている」というわけである。

けれども、誰がそれを不誠実な行為であると責められよう。海を越えた電信が、途切れ途切れの10分毎に、試合の途中経過をスコアでだけ伝えて届けてくる中で、90分もの間でたらめを喋り続けるような事が許された時代においては、ペレが空を飛ばない限り、ペレの偉大さが大衆の元へと届くことは、決してなかったのである。

テレビは、そんな時代を終わらせた。伝えたいという思いが科学技術を発展させて、それは普及し時代を変えた。映像は人は空を飛ばぬという、退屈な真実を映し出した。街灯テレビのブラウン管は、ラジオによって作られた嘘を1つ1つ曝いていった。力道山は空手チョップで世界中の猛者達を片っ端から薙ぎ倒し、日本国民はそれに酔いしれた。

世界で初めてのテレビオリンピックとなった東京五輪において、テレビはそれを世界に伝え、市川崑だけがそれに刃向かった。市川は、オリンピックの100メートル走の決勝戦の下半身だけを撮影し、誰が走ったのかも、誰が勝ったのかもわからない、荒唐無稽な映像を作った。

それが伝えたのは、ただ、いそいそと回る脚だけだった。それにより人々は、オリンピックで100メートルを走っているのは、陸上選手とは名ばかりのコマ送りの棒人形などではなく、血の通った生身の人間だったのだと、その時、初めて知る事となった。映像が、常に真実を伝えるとは限らない。けれども、少なくとも、この瞬間よりもう二度と、かのヨハン・クライフをもってしても、人は空を飛ばなくなった。

時代が流れるにつれ、技術は進歩した。映像は進化を続けた。もう、あの日のように、下半身を懸命にカメラで追う必要はなくなった。3840の4kは、筋肉の動きまでをも正確に捉え、電波に乗ったその映像は、3秒遅れで地球を回った。

ペレが空を飛んだ頃には存在していなかった、いや、東京五輪が開かれた頃ですら存在しえなかった革新技術のテレビカメラが、18台も国立を囲み、22人の選手と2人の監督を絶えずその枠内に捉え続けたが、それを喋ったのが角澤照治であったという事実は、技術の進歩が人類の幸福に必ずしも寄与しないという、紛いなき真実を顕著に映し出した偉大な1つの例である。実況者とは真実を大衆に伝える仕事である。角澤もまた、その例に漏れず、職務を忠実に果たしたのである。



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一部、聴衆の間では、格闘新世紀1の鳳凰という称号に対し、大覇王はないんじゃないか、そんな声もささやかれていました。だがしかし、その肩書きを、より強く、深く、高いものに自ら伸し上げていったのが、この大覇王、超南アキラ。今やこの大覇王という称号は、揺るぎないもの、そして、かつてのものとは計り知れないほど高いものになっています。その、大きな壁に立ちはだかる、猛者、ムームーダンス。まずは1ポイント。大覇王がその格式を見せつけます。
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僕は、この実況こそが我が国のEスポーツの歴史において最も素晴らしい実況であったと、今も信じて疑わない。この実況の素晴らしさは、「一切実況していない」点にある。普通、実況者というものは、映像をなぞる。映像に捕らえられている事実を出来る限り正確に喋ろうとする。けれども、斉藤はこの実況において、その努力を完全に放棄した。

見てわかる事は一切喋らない。対戦が始まっているにも関わらず、一言も喋らない。実況しない。その代わり、見ているだけでは伝わらない事を、全力で伝えに行ったのである。斉藤がこの実況で伝えようとしたのは、大会の歴史であり、プレイヤーが背負ってきたものであり、プレイヤーと、クリエイターと、会社と社員と実況者とが、寄りかかりながらそれぞれに、裏街道と呼ぶにはあまりにも細すぎる裏道を、とぼとぼと寂しげに歩いてきた、バーチャファイターという寂れたゲームの、細く長い道のりだった。

株式会社セガの中にも、流石に「この実況者は凄い」という事に気がついた人が居たらしく、家庭用のバーチャファイター5は「実況パワフルVF5」として作られたが、ワゴンに積まれた。バーチャファイター5はワゴンに積まれた。ゴダールに言わせれば、「セガは悪くない。大衆が馬鹿なのだ」となる。どうあれ、バーチャファイター5は、ワゴンに積まれた。僕等の記憶の中ですら、一度として空を飛ぶことなく、ワゴンに積まれてしまったのである。




そろそろ、このエントリーの主役であるDAICHIに登場いただこうと思う。

「俺、この動画はやくあげてえよ。」
このフレーズこそが、DAICHIを象徴する。

「え、これ今何分?動画
 今2時間47分です。予定通りです。予定通りです。
 俺この動画はやくあげてえよ。(野次:DAICHIはやく帰れ!)
 でも実況してえよ。(野次:直帰直帰!)
 わかった、今日徹夜で作業するわ。」

前述のバーチャ実況の斉藤は、セガの社員だった。セガという会社自らが、作ったゲームのユーザーの為に、そして社の利益の為に大会を主催し、それを社員に実況させた。そこで生まれた実況だった。けれども、DAICHIは違う。DAICHIという人は、自らで大会を主催し、自らでそれを実況し、自らでエンコードし、自らでニコニコ動画にアップロードしたのである。それを続けたのである。DAICHIという人は、なぜ、そんな事をしたのだろうか。し続けていたのだろうか。僕が思うに、DAICHIという人は、よっぽどの暇人だったのだと思う。他に理由など無いと思う。

DAICHIという人が、自らで開催し、自らで実況した大会の動画をニコニコ動画にアップロードし始めたのは、10年くらい昔の事である。彼が実況をしたのは、北斗の拳という完全にバランスの崩壊した、全く人気のない対戦格闘ゲームだった。当初は、8人の出場者を集めるのにも苦労し、彼が携帯で呼び出し、あるいはゲームセンターの中の人に声をかけ、さらには自分もプレイヤーとして出場して、やっとの事で開催していた、ささやかで惨めな大会だった。そしてDAICHIの実況もまた、惨めで酷いものであり、僕はそれを慎重に聞いて、非常に大きな失望を抱いたことを、今でもはっきりと覚えている。



「ニコニコ動画に凄いゲーム実況が居る。」
そんな噂が僕の耳に入ってきたのは、何時かのクリスマスの頃だった。

WarCraft3のeSportsシーンの熱烈なファンで、3年以上の長きにわたり、毎週10時間以上もプロのリプレイを欠かさず見続け、それだけには飽き足らず、韓国人の実況動画やドイツ人の実況動画、あるいはロシア人、中国人、アメリカ人の実況に至るまで、言葉を全く理解出来ないにも関わらず見続けていた酔狂な、狂信的とも言うべきEスポーツ好きの僕にとって、「日本人の凄いゲーム実況がある」という、インターネットのどこかで目にしたまちのうわさは、まるで素晴らしい夢のような出来事に思えた。

仕方が無しに嫌悪していた、そして今でも嫌悪しているニコニコ動画のアカウントを取得し、DAICHIの実況動画を探し、一番古いものを選び、それを見た。見るべきものは何も無く、聞くべきものは何も無かった。舌は回らない。済んだ事を遅れて喋る。言い間違えや思い違いを延々引きずる。まるで聞き手の事を考えていない。独りよがり。自己満足。

それは、地方都市のゲームセンターの店員が、場末の大会を嫌々ながら、だらだらと喋っているのと、全く同じレベルだった。酷い実況だと思った。同じ動画で実況してた、もう一人の実況者のほうが、まだ少しだけまともに思えた。今聞いても、同じように感じるだろう。「この実況のどこが凄いんだ」無駄な時間を過ごしてしまい、とても不愉快な気分になった。身内が内輪で褒めているだけなんだろうと考えた。また、インターネットに騙されたんだと、僕は思った。



けれども、DAICHIは変わっていった。
目に見える速度で変化していった。

何がDAICHIを変えたのだろう。
その問いには、はっきりとした答えがある。


DAICHIがDAICHIを変えたのである。

DAICHIは自らの実況動画を自らでエンコードし、自らでアップロードした。当然、DAICHIは誰よりも早くDAICHIの実況を聞く事になった。ニコニコ動画のシステムでは、コメントを読む為には動画を再生する必要がった。必然的に、DAICHIは自らの声を自らで聞き続ける羽目に陥った。適当な人間でありながら、些か神経質な所を持つDAICHIは、コメントを読む為にニコニコ動画にアクセスし続け、その度に自らの実況を聞いた。聞き続けた。そうそて聞いたDAICHIの声が、DAICHIという人を、もの凄い速度で変えていった。

DAICHIは毎週2度もの大会を自らで勝手に主催し、自らで勝手に実況し、自らで勝手にエンコードし、自らで勝手にアップロードし続けた。その度に、DAICHIは自分の実況を聞いた。自分の実況を繰り返し聞き続けるという希有な体験が、DAICHIを常識では考えられない速度で成長させていった。DAICHIは言う。


「俺さあ、滑舌よくなったんだよね。
 喋れるんだよ。自分でもびっくりした。喋れるの。」

実況動画の試合の合間に、ぽつりとDAICHIが漏らした時、周囲の反応は薄かった。それもそのはずである。周囲のプレイヤー達は皆、大会参加者だった。彼等にとってのDAICHIの喋りは大会を彩る、ちょっと突飛なBGMでしかなかった。大会の参加者達は、現場でDAICHIの喋りを聞き、大会の様子を生で見ていた。ニコニコ動画で見るにしても、精々一度きりだった。

その場に居た人達の中で、ただ一人DAICHIだけが、DAICHI動画を繰り返し見ていた。何度も、何度も、繰り返し見ていた。自らで主催した大会であるという誇り、自らで実況をしたというプライド、自らでエンコードしたという情熱、自らの動画に付けられたコメントを読みたいという欲望、そして止まるところを知らない自己愛。それらがDAICHIをDAICHI動画へと向かわせ、結果としてDAICHIは成長し、その成長したDAICHIの姿に誰よりも驚いたのがDAICHI本人だった。そして彼は言ったのである。「自分でもびっくりした」、と。


「今日は18名もの北斗プレイヤーが参加して下さいました。
 ありがとうございます。ありがとうございます。」

DAICHIが変わるにつれ、変化していったものがもう1つあった。

大会参加人数である。当初8名の参加者を集めるのにも苦労していたDAICHI大会は、あっという間に16名の壁を越えた。噂を聞きつけ、ニコニコ動画でDAICHIの声を聞いたプレイヤー達が、中野ブロードウェイへと集まり始めた。

それは、スポンサー付きプロゲーマーらによって、高額の賞金を巡って繰り広げられるWarCraft3シーンを見続けてきた僕にとっては、とても奇妙な光景に見えた。賞金もない、賞品もない、得るものの無い大会に、汽車と地下鉄を乗り継いで、一人、一人と参加者が増えていった。

そうして集まった都内各所の名プレイヤー達によって、DAICHIの声は割れ、喉は枯れ、大会は日増しにその熱を増していった。動画はそれを伝え続けた。精密機械の異名を持つKIが圧倒的な実力で大会を連覇し続けた。「帰宅しようとする対戦相手にお金を渡して対戦を求めた」とか「北斗をプレイする為に上京した」という狂ったエピソードを持つイチは、色物プレイヤーに4連敗を喫して良い所もなく消えて行くという損な役回りを演じながら、いつしか復調し、DAICHI動画において最も存在感のある必要不可欠なプレイヤーの一人にまでなった。弱キャラの中堅プレイヤーという、弱小プレイヤーの一人にしか過ぎなかったひげは、いつの間にかDAICHI動画のもう一人の主人公とでも言うべきサクセスストーリーを歩み始めた。

土曜日と水曜日が来る度にDAICHIは喋り、その度にDAICHIは成長し、参加者は増え続け、DAICHI動画は魔法のような熱を帯びていった。その動画の熱を作り出していたのは、数多のプレイヤー達だった。DAICHIではなく、中野ブロードウェイに集う、一癖も二癖もあるプレイヤー達だった。その事実を指して、「DAICHIは個性的な参加者に恵まれたのだ」と言うのは簡単である。おそらくに、それは真実だと思う。けれども、僕はその事実を認めはしないし、それを真実だなどとは思わない。そこには、ただ、DAICHIが居た。

土曜日が来る度に3時に家を出て4時に着くや否やマイクを握り、野試合をプレイしながら野試合を実況し、午前0時まで息も絶え絶えに喋り続ける。見慣れない顔を見つけては、迷惑とも言えるまでにアドバイスを繰り返して丁寧に育て、大会のレベルについていけない人が増えると見るや、初級者限定の大会を開催し、しかもそれを自ら喋り、自らエンコードし、自らアップロードした。その、初級者限定の大会からも、幾人もの名プレイヤーが生まれるに至った。

何が彼を、そうまでをもさせたのだろう。僕は、多分、DAICHIという人は、よっぽどの暇人だったのだと思う。僕の貧相な想像力では、そのように理解するのが精一杯である。けれども、幾人の北斗プレイヤーはそのようには捉えなかった。そして、彼らは中野ブロードウェイを目指した。



渋谷勢、新宿税、横浜勢。

それら、「外敵の侵入」とでも言うべき事態は、DAICHI動画にそれまでとは少し違った色を加えた。それは、僕が何年も前にWarCraft3シーンで目にした、北米勢の参入、韓国勢の乱入、中国勢の登場、ロシア勢の台頭、といったものと同じような、新しい刺激と衝突を生み出し、それらは必然的にプレイヤーの譲れぬ意地となり、新しい名勝負が生まれ続けた。

「小さなコミュニティの気持ち悪い身内色」といった空気が完全に払拭される事は決してなかったが、DAICHIは彼ら外敵とも呼ぶべき外様勢に、ぎりぎりの所まで極限に気を遣って喋り続けた。僕はDAICHIが身内のノリで、内輪の面子に「おいこら○○!」と何度も呼び捨てにした後で少しの間沈黙してから申し訳なさそうに別の人を指して、「○○さん……、○○さん、あ、試合お願いします。」と縮こまっているのを何度も目にした。そういった点においてDAICHIが成長することは無かったが、おごり高ぶる事もまったく無かった。DAICHIは最初から最後まで、変わらずDAICHIのままだった。変わったのは、実況技術だけだった。そして、それは、中野trf北斗というeSportsにおいて、何よりも大切で、かけがえのないものだった。

「遠路遙々ありがとうございます。」
「またの参加をお待ちしております。」

都内各地の実力者が中野ブロードウェイに来る度に、DAICHIは彼らの目を見てそう繰り返し続けた。見知らぬ人が遠くから、中野くんだりまで来る度に、DAICHIは同じフレーズを、心を込めて読み上げ続けた。8人を集めるのがやっとだったDAICHIによるDAICHIの為の大会は、遂に32人の壁を越えた。参加者からは優勝賞品が寄せられるようになった。ゲームセンター側からDAICHIに送られた報酬は、ジュース1本だけだった。DAICHIという人は、世界で一番ジュースが好きなんだろうと思う。僕の想像力ではそう理解するのがやっとだった。けれども、世界はそうは思わなかった。大会は熱を帯び、誰もが見た事の無かったような奇跡的な試合展開が録画され、その度にDAICHIは声を割って叫んだ。それはDAICHIの手によってエンコードされ、ニコニコ動画にアップロードされ続けた。そして生まれた名勝負の後に、DAICHIは言った。「ゲームは楽しむものです。」

「もう、俺なんでもいいわ。
 楽しければなんでもいいわ。
 ゲームは楽しむものです!」

これを聞いたとき、初めてDAICHIを理解出来たような気がした。僕にとってのゲームとは、心に生まれた恐怖を埋める為の道具でしかなく、現実から逃避する為の手段だった。けれども、DAICHIにとってのゲームは、僕のそれとは全く違ったのだ。「ゲームは楽しむもの。」そう言い切れる強さが、DAICHIにはあった。そのメッセージは何よりも鮮烈で、何よりも強力なものだった。そしてDAICHIはこう続けた。

「さあ、こんな楽しい空間中野TRF!
 是非、全国の北斗プレイヤーは一度遊びに来て下さい。
 お待ちしております。」

そこに、1つのコメントが付いていた。


「秋田からだけど行けるかな?」

北斗の拳というゲームはあまりのバランスの悪さから、商業的には完全に失敗し、全国各地で筐体が撤去されつつあった。秋田には、既に一台の筐体も残っていなかった。秋田の北斗プレイヤーは自ずから全滅し、数人のプレイヤーだけがわざわざ仙台まで北斗をプレイしに行く惨状にあった。そして、その仙台のゲームセンターすら閉鎖されてしまうという話だった。

秋田と東京。あるいは秋田と仙台。それらの距離がどのくらいのものなのかを、僕は知らない。知らないが、このコメントをした当人は本当に、中野ブロードウェイに現れた。

そしてDAICHI動画初の秋田勢は、DAICHI動画に嵐を巻き起こした。

彼はまず一回戦で渋谷屈指のプレイヤーを葬り、次に中野ブロードウェイ生え抜きの、DAICHI動画の主人公とでも言うべきひげというプレイヤーをも、何もさせずに葬ってしまった。それは、衝撃的と呼ぶにはあまりにも衝撃的なデビューだった。地方のレベルは都心よりも低いという事実が当然の常識として人々の胸の中にあったが、DAICHIが彼の試合を一言実況する度に、その常識は砕かれていった。秋田勢、シェフリーラオウというそのプレイヤーの次の相手は、大会に出る度に優勝を掻っ攫っていく、あの憎たらしいKIだった。他のゲームの大会を3連覇し、「このゲームやってなくても勝てる」と言って大顰蹙を買った、あの尋常ならざるKIだった。

ところが、ジェフリーラオウはKIから1本を先取してしまった。並々ならぬ事態が起ころうとしてた。あの小憎たらしい憎たらしい、忌々しいKIが、誰も名前を知らないような田舎から来た見ず知らずの外敵に敗れ去ろうとしていた。ジェフリーラオウはヒットポイントをほとんど全て残したままで、KIを残り1割にまで追い詰めたが、KIはKIであり、とどのつまり、ジェフリーラオウの冒険はそこで終わった。

常に無敵のKIは、いつの間にか素知らぬ顔で勝っていた。それはいつもと同じ光景だった。それはいつもと全く同じ光景だったけれど、未だかつて誰も見た事が無い光景だった。あの憎たらしいKIが、まるで中野ブロードウェイを、侵略者から守った英雄のように光輝いて見えた。あのうんざりするKIが、英雄に見えてしまう。それも、手に汗握って秋田勢を応援していた僕等の目にすら、光輝いて見えてしまう。

呆然とした。ああ、DAICHIという人は凄い。僕はこの時初めて思った。ブログを書き始めてから、誰かに負けたと思った事はほとんど無かったけれど、この瞬間、僕ははっきりと敗北を自覚した。自らのブログパワーが、DAICHIという人の持つブログパワーに完膚なきまでに打ち破られたのだと悟った。悔しくて仕方が無かった。

もしもあの日、DAICHIというなんの才能も持たない一人の格闘ゲームプレイヤーが、自らの稚拙な実況を記録した動画をアップロードしていなければ、こんな日は決して訪れなかっただろう。参加者を募り、新規参加者へのケアを行い、ニコニコ動画という場所で日本中のプレイヤーへと呼びかけ続けなければ、こんな日は決して訪れなかっただろう。DAICHIの熱は熱を呼び、それはやがて熱波となって、日本中を駆け巡った。




DAICHIの実況の特徴は、型である。

DAICHIは有力プレイヤーの特徴を完全に記憶し、「彼ならばこう動く」というパターンを記憶し、それに対応した実況を試合が始まるよりも前に頭の中できっちりと完成させている。ゲームが始まれば、頭の中で既に書き上げた台本を、杓子定規に読み上げるだけである。動きを見てから喋るのではなく、DAICHIがマイクを握った時点でもう既に、DAICHI実況は完成しているのである。DAICHIは、「リアルタイムで臨機応変に喋る」という実況者に必須であると思われる能力は極めて低く、完全に努力の人、あるいは現場の人とでも呼ぶべき実況者である。

それ故に、DAICHIは驚くのである。対戦の中で、自らが想定していなかった、予想を超えた何かが発生した際に、誰よりも驚き、ショックを受け、取り乱し、叫び、自らを見失い興奮し、いつもとはまったく違う調子の実況を行うのである。そのDAICHIの驚きが、たとえば僕のような、北斗というゲームを全く知らない人達にも伝わる普遍的な説得力を生み出し、DAICHI動画に魔法の力を生み出しているのである。

一方で、たとえ決勝戦や、事実上の決勝戦であっても、予想された範囲内の展開であれば全くテンションを上げようとしない。過剰に盛り上げようとしない。凡百の無能な実況者ならば、「盛り上がっていきましょう!」だとか、「決して負けられない闘い!」などと、こわれたラジオのように同じフレーズを繰り返す局面であっても、DAICHIは決してそのような事をせず、たんたんと冷静に喋り続けるのである。脳内に前もって入念に書き上げておいた実況用の台本を、平坦に、そして丁寧に、冷静な調子で読み上げ続けるだけである。

「淡々とした決勝戦をありのままに淡々と実況する」というのは、なかなかに難しい仕事だと思う。とくに、ネット上に自らの実況動画をアップロードするという立場の人間にとっては、かなり困難な事だと思う。DAICHIという人は、それを決して気負うことなく、ただ黙々と、成し遂げ続けてしまっているのである。これは凄い事である。

話を、DAICHIに戻す。


無名の実況者というよりも、誰も知らないビデオゲームの、名も無き一人のプレイヤーにすぎなかったDAICHIは、実況動画をアップロードする事により、僅か数ヶ月後には、満場一致で闘劇実況に推されるまでになった。そして、見事に選ばれた。08年度の闘劇実況がDAICHIであるとの決定に北斗プレイヤーはビビットに応えた。DAICHIが都内各所、いや日本中から中野ブロードウェイに呼び寄せたプレイヤー達はそれまでとは逆に、中野ブロードウェイから日本各地へと散って行き、闘劇出場権という切符を手に入れて、DAICHIの元へと帰参した。

あるプレイヤーなどは、わざわざその為だけに沖縄にまで帰郷し、沖縄予選の切符を取ってDAICHIの元へと戻ってきた。日本土着のeSports事情にあまり詳しくない僕から見れば、それはまるで悪い冗談のようなものだった。そうして迎えた闘劇の本戦では、あの小憎たらしい憎たらしい、忌々しいKIが、全ての北斗プレイヤーの折り重なった夢と希望を完膚なきまでにぶち壊しにして優勝し、それをDAICHIが喋り伝えた。それは、何か果てしない、1つの素敵な、まるで夢のような出来事だった。


そして闘劇のあと。
しばらくして。
1つの事件が起こった。
DAICHIがマイクを握らなかったのである。

「Web 2.0大会」と銘打たれた、記念すべき初ネット配信大会の決勝戦が行われたとき、DAICHIはそこに居なかった。中野trfの隅に置かれた筐体で、野試合をしていたのである。決勝戦をしゃべったのは、DAICHIではない別の人だった。そのままDAICHIは一言も喋る事なしに、大会は終了してしまった。「DAICHIは終わったんだ」と僕は思った。それは疑いようの事実だった。DAICHIは終わってしまった。


DAICHIの代わりに実況をした、名前も知らない人の実況が、DAICHIに匹敵するレベルのよくできた実況であった事も、僕を打ちのめした。DAICHIという一人の先駆者が駆け抜けた苦難の日々とその手によって、「どのような実況が聞きやすいか」という事が完全に知れ渡ってしまっていた。対戦格闘ゲームの実況を行おうとする人にとって、少なくとも北斗の実況をしようと志す人にとって、DAICHIという完璧すぎる青写真は、何よりも優れた目標到達地点だった。DAICHIのスタイルを可能な限り再現するだけで、聞きやすく、癖のない、それでいて不思議な説得力のある、確かなゲーム実況が出来てしまう。DAICHIが常々心がけてきた、"ゲームを知り尽くした現役のプレイヤーによる、アドリブに頼らず、忠実に、丁寧にという実況スタイルにより生み出される驚きを伝える能力の高さ"は、今や北斗のみならず、全てのゲーム実況者にとっての目標となるべきものだろう。このように書くと、事実からは多少の乖離が生じてしまうかもしれないけれど、今では誰もが少しの努力で簡単にDAICHIを超える事が出来る。

けれども、だからと言って、DAICHIが風化することは決して無い。何故ならば、DAICHIという人は、世界中でただ一人、DAICHIになろうとした男だからだ。そして世界中でただ一人、DAICHIになった男であもある。いったい、誰が、他に誰が、DAICHIになろうだなどと志しただろうか。DAICHIを夢に見ただろうか。その大それた夢を、心から願っただろうか。そればかりか、夢で終わらず、完璧な形で実現させてしまった。それが、DAICHIという人である。




終わり。
それは必ず全てのものに訪れる。

DAICHIが夢見たDAICHIという夢。
その夢にも、終わりは訪れた。
DAICHIはその夢を、叶えてしまったのである。



夢は終わった。
それは現実になった。

現実になってしまったDAICHIが、あれからどこへ行ったのかを、僕は知らない。北斗をやめたのかもしれないし、ゲームをやめたのかもしれない。この国の遠いどこかで、遠い昔に野垂れ死んでいるのかもしれない。それは、僕等の知る事ではない。ただ、DAICHIの言葉を借りるならば、こうなるだろう。




「ありがとう。
 本当にありがとう。」
と。