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河馬までの  [掌編小説]

 

 一人、河馬の前に立つ。

 雨があがったようだった。カーテンの向こうで正午のひかりがあかるくなる。クーラーから蒸された温気が排出されはじめたと感じた。
 裸のまま、プリントアウトされた原稿の山の上に置かれたスマートフォンを手に取る。ずっとバイブレーションしていた気がするが、「兄」からの留守番電話は五件しか入っていなかった。
〈実篤、か?〉録音の奥に、しばしの無言。実篤は初めて自分がサネアツという名前を与えられたと瞬間信じた。いや、実篤にまちがいないな、と兄は声を絞り出す。
〈……かな子も居るのか……どうでもいいが……(沈黙)……おぼえとるか、三十年も昔か、あの、桃みたいなやつ(長い沈黙)水蜜桃、ち言うのか、かかがわしらにくれたとき、おさんは小一だったのか?(沈黙)わしの、その水蜜桃か、それ、って裏山に逃げとったよな。そいで結局、お前さんは水蜜桃、棄てて帰ってきた、ち言うたな(沈黙)お前さんはどうしても食えんかった、ち言うとったな……(さらに長い沈黙)……実篤は盗むこともできん……(沈黙)……母も心配しとるに……かな子と何しとるか(音声切れる)〉
「何もしとらんのにねえ」
 と裸の義姉がベッドに寝そべって言う。実篤は萎んだ陰茎からコンドームを外した。封をいま切ったばかりにも見える、なんの精液もついていないゴムのかたまり。
「あんたができんこと、知っとったわ」
「努力はした」
「んなことにばっか努力して、ほかにすることねえずらか」
 実篤は自分の体を見た。通常の同年代の中年男よりは大胸筋が厚い。そして通常の男よりは陰茎が惨めに見える。
「これから、面会いくんじゃろ?」
 義姉は背を向けた。背中も腹も、肉に盈ちあふれ、事実尻の皮膚は脂肪過多により罅割れて、獣じみている。乾いた皮膚だった。
 天動説の天から降り注ぐ声のように、電柱のスピーカーから市民放送が音割れする。
「……市民公園の河馬のバッカスくんが亡くなりました。二十四歳でした。市民のみなさん、どうかバッカスくんに祈りを。くりかえします、河馬のバッカスくんが……」
「ああ」義姉はブラジャーをひっ掴んで、
になるなあ」と言った。

 面会室は普段看護師やソーシャルワーカーが会議室として使っている窓のない部屋だった。ロの字型に置かれた長机が人と人との接触を拒んでいる。実篤は首にかけた「精神病棟B 入院患者家族」のIDカードを少しだけはじいてみた。冷房は効いていなかった。
「暑くていやね」
 紐を抜いたトレパン姿の妻は入ってきて一番に言った。また痩せたな、と実篤は思った。
「病室の方がいい。涼しいもん」
「僕と会うのが」
 そんなに厭か、と言いかけて遮られる。
「河馬が死んだんでしょ?」
「たぶん。まだ実際に見たことはない」
「いちども見ずに終わっちゃったね。それとも、誰かと見に行ったのかな? そういう友だちができるといいね」
「別に見たくはなかったよ」
「嘘。触りたいっていってたよ、河馬に」
「冷たかっただろうな」
「何が?」
「河馬の皮膚。火を吐く龍は、体を冷やしに河馬の血を飲みに来るんだ」
「象じゃなかったっけ、それ」
「どっちでも同じことさ。もう居ないんだ」
 もう居ないんだ、と言って、それが取り返しのつかないことだと思った。俺は取り返しのつかないことをしてしまった。もうその時には戻れない。今というこの時にも戻れない。
「……でも、触れるんだよ」
「河馬に?」
 と訊けば、妻はTシャツで眼鏡を拭き、
「なんにでも」と答えた。
「なんにでも、触れるよ。もうどこにも居ないものだから、触れるんだよ。ぺたって、てのひらで。だって、あなたはここに居るじゃない……わたしには触ってくれるでしょ?」
「君はここに、今、こうして居る」
「だから触ってくれないんだね」
 妻が掛け直した眼鏡の下で、つと涙を零す。「もういい。帰って」
「ハガキを出すよ」
「わたしの居ない家から?」
 実篤は答えなかった。妻はさよなら、と言った。

 逃げ水を追いかけて車を走らせた。十五分足らずで市民公園に着いた。駐車場では急拵えのホットドッグ屋台が静かな風にゆすぶられ、午後のしろい景色の中で少年が三人殴り合っていた。他に停まっている車はなかった。ホットドッグ屋は熱い空気を無為にゆらめかせ、店主が呆然と立ち尽くしていた。深深とうずくまっている公園の森もしろかった。実篤は車を降りた。少年たちは少年ではなく中年の小人だった。ホットドッグ屋に近づいた。「売りもんはねえよ」と店主は言った。
 かまわない、と実篤は言った。もう失うものは失ってしまった、ここには河馬が居ないから、俺はやっと河馬にふれに来たんだ、でも、どうやって? とは口にださなかった。
「そういえば、あんちゃん」と店主が言った。
「あの河馬、ついに童貞だったらしいぜ」
 太陽が一段にギラギラっとした。実篤は両手を組み、ましろい空間に、居た。

 また一人、河馬の前に立つ。


#小説 #文芸

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