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母の話 -ハゲタカのぬいぐるみ-その②

【↓前回:その①】

 癌の闘病中に自宅で倒れた母。そのまま病院へ運ばれ、脳の放射線治療を経て寝たきりとなり、余命半年を宣告されました。
 倒れる前まで普通にやりとりしていた母は、病院で面会した時にはもう起き上がることも、ほとんど話すこともできませんでした。そんな面会後から話は続きます。



[5]ミートソーススパゲティ
 面会が終わり自宅に帰ってから一人、病室での出来事を反芻していました。この数週間で運命が大きく変わりつつある母、変わらない自宅、気持ちが行ったり来たりしているうちになんだかお腹は空いてきて、なんだかじっとしていられないので、コンビニに向かいました。
 何気なく商品を見ていると、ミートソーススパゲティが視界に入りました。もう10年以上食べていないのに、視界に入った瞬間、母の得意料理であるミートソーススパゲティを思い出してしまいました。味だけではなく、思い出、深めのフライパンに入ったミートソースに火をかけて温めなおした記憶が次々と蘇ってきました。
 きっともう、母の作るミートソーススパゲティは食べることができないんだろうな。きっともう、というか、恐らくかなりの可能性で。その事実を目の前にして、病室であれだけ堪えていた涙が、コンビニで止まらなくなりました。
 「ちょっと…、待って…」と繰り返しながらコンビニを出て、家に着いてもずっと泣き続けてしまいました。ミートソーススパゲティを見て、初めて避け難い現実として母の病状が立ち現れたのでした。


[6]父の話
 こんなに涙が止まらない理由の一つに、僕には父がいないという事実がありました。5歳の時に寝ていると両親が激しい喧嘩をしていて、朝起きたら父はいませんでした。その後、小学生の頃数回会ったくらいで、以降父の姿は見ていません。父がどういう人なのか、どういう性格なのか、どういう声なのか、何を考えているか、生きているのか、死んでいるのか、分かりません。
 父のいない生活を普通の状態として暮らしてきたので、特に不幸だという実感はありませんし、母のことも恨んではいません。また、僕の父と兄の父は異なります。おばあちゃん、おじいちゃん、ほとんど知りません。
 なので僕にとって母は、自分のルーツとなる唯一の存在といっても過言ではありませんでした。なので、母が居なくなるかもしれないという現実に、思わず涙が止まらなくなってしまったのでした。
 学生時代、母が仕事でずっと家に居なくとも、毎日泥酔してようとも、タバコをどれだけ吸っていても、母との思い出や会話が極端に少なくても、大事な母には変わりありません。だから尚更、母のミートソーススパゲティが食べられない事実が受け入れがたかったのです。


[7]酒の話
 母との面会から幾日が経ち、会社に事情を説明したり、バンドメンバーに話したり、各方面への心構えをしていました。ある日、何かあると飲みに誘ってくれる別所さん(CHOCHINES / ex.完全にノンフィクション)とお酒を飲んだ帰り、一人で歩いていました。
 一人になると、やはり母のことを考えてしまいます。「母とお酒を飲んだのは実家近くの居酒屋で一回だけだったなぁ」と、数年前の日のことを思い出していました。僕は一度だけ、母とお酒を飲みに行ったことがありました。
 その日は母とくだらない話ばかりして笑い合っていました。誰かの愚痴や昔の思い出を手繰り寄せては肴にして飲み、「また行こうね!」とやり取りをしたあとコロナ禍に突入し、母が癌になり、今に至ります。
 母は癌になっても倒れる前までは、「内緒やで」と言いながら、僕の前でだけ酎ハイのストロング缶を空けていました。「刺激の強いもん食べたり飲んだりしたら、抗がん剤の副作用で、こめかみの下が痛くなるねん。でもこれだけは辞められへんねん」と口に含み、こめかみを押さえて悶絶しながら「辞められへんなぁ、内緒やで」と笑っていました。なんでロング缶を買うんだよと思いつつ、やはり僕はワイルドな母の息子なんだなと確信していました。
 母ともう、恐らく一緒にお酒を酌み交わすことはできません。それを寂しいと思うのか、一回でも一緒に飲めて良かったと思うのか、どちらがいいのでしょう。視界が涙で滲んで、一回でも飲めて良かった、また一緒に飲みたい、どっちの気持ちも含んだまま、家に着きました。一人になると泣いてばかりでした。


[8]エゴか、エゴじゃないか
 僕は悩んでいました。ベッドに横になり、起き上がることも会話をすることもままならない母。この状態の母にまた面会に行くことは、自分のエゴじゃないのか、そんなことを考えていました。自分の心の整理のためだけに、母を利用しているだけではないのか。ずっと考えていました。
 悩みを抱えたまま、一人で母に会いにいきました。病棟に着くなり看護師さんが「今日お母さんね、だいぶ調子良いですよ!お刺身も食べてましたし!」と声をかけてくれました。
 病室に入ると相変わらず母は横になっていましたが、目が合うと笑顔を見せてくれました。明らかに前回より調子が良さそうでした。話しかけると聴き取りづらいですが会話の内容に合わせて単語が返ってきます。
 母の性格的に、弱っている姿を見せたくないのだと思いました。僕は声だけは大きく、だけれども母のプライドを傷つけないために会話のスピードは落とさず、内容はいつもの他愛もない話を、家で母と話す時のように話していました。それが母の尊厳を守ることだと思っていました。
 母は会話の度に笑い、会話に沿った単語を小さな声で発してくれました。それを拾ってまた会話が続き、あくまで「いつもの時間」が繰り広げられていました。病室のテレビではニュースが流れていたので、僕がチャンネルをドラマに変えて「平日ってテレビおもんないなぁ」というと、母は「さっきよりマシや」と言って小さく笑いました。


[9]ハゲタカのぬいぐるみ
 僕はリュックから「ぼろぼろになったハゲタカのぬいぐるみ」を取り出して母に見せました。(写真を載せているハゲタカのぬいぐるみは、僕が大人になってから新しく買って母に送りつけた新品で、病室に持っていったぼろぼろのハゲタカではありません)。このハゲタカのぬいぐるみは母が離婚した少し後、幼い僕を連れてショッピングモールに出かけた時に出会った「サファリのなかま」シリーズのぬいぐるみでした。
 なぜか当時の僕はこの可愛くデフォルメされたハゲタカのぬいぐるみを見た途端「絶対に欲しい!!!!」と母に懇願していました。買ってもらってからいつも一緒、遊ぶ時も一緒、母が仕事でずっと家に居ないので、楽しいこともしんどいことも、ずっとこのハゲタカのぬいぐるみが話相手で、僕の全てを肯定してくれる存在でした。
 遊びすぎて破れて体の詰め物が取れたら縫い、それでもまた破れて縫いを繰り返し、もはや縫跡ばかりになって布地も禿げてぼろぼろになったぬいぐるみを、いまだに僕は自分の部屋に置いてくつろがせています。
 僕は直感的に、そのハゲタカのぬいぐるみを病室まで持ってきて、母に見せたのでした。ぬいぐるみを見た瞬間、母はこの日一番の笑顔で僕を見つめました。「ほら、可愛がりすぎてぼろぼろなって自分で座られへんねん」といいながら首がだらりと垂れ下がったぬいぐるみを見せると、母は小さな声で「ふにゃふにゃや」と言って笑いました。
 「じゃあまた来るね」と言って手を振ると、母は僕が病室を出るまで手を小さく上げてくれました。


(続く)

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