肩書きと資本

[1]肩書き
 小学生の頃は「先生」が人の道とは何たるやを教える存在だと思っていたし、最初に勤めた組織の「部長」はドラマで出てくるような真っ黒な意志を腹に抱えた人で、格下の人をずっと視界に入れないようにしながら経済新聞を細く折りたたんで読んでいた。肩書きというものは、周りの見る目を縛ったり、本人の在り方も縛ったりする。
 人は心に沢山の隙があるので、気がつけば権力や肩書きの衣を身に纏って偉そうにしたり、お金を自分の実力以上に得ようとしたり、自分の意見を通しやすくしたり、とかく自分を有利に見せて無意識に図々しく毎日を過ごそうとしてしまう。
 僕個人はそういったものが全てどうでもいいのだけれど、社会はそういった上辺のステータスで成り立っている側面が強いので、多少タチが悪かったりもする。いまだに辞めた組織のホームページを覗いては、「あ、あの人、課長になってやがる」なんて思ってしまっている間はまだ肩書きや権力から解放されそうにはない。

[2]資本
 よくもまあ、人間はお金を使った資本主義なんていう概念を生み出してくれたものなのだろう、と毎日思っている。稼ぐことが善といった暗黙の価値観に振り回されている。お金が無くても、お金が有っても、結局はお金に行動が縛られて人生の時間をベストなものに使えない。そんな時にとてつもないストレスを感じてしまう。
 僕が仕事であろうが、音楽であろうが、休暇であろうが、生きることを考えたりすることであろうが、常に全力でありたいと思うのは、お金という魔力に惑わされながらも、そうではない人生の充足感を求めているからだった。肩書きや権力から解放されたいのも、人間という業の深さからくる全ての悩みの解消を心から求めているからだった。
 しかしまだ、まだまだ、そういったものから解放されそうにない。お金や肩書きや権力に絡め取られながらもがく自分を、どこか他人のように見ながら、師走の忙しさに片足を突っ込んでいくのだった。


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