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夜会主義者

夏至の日、窓枠の額縁に嵌められた黄昏〈トワイライト〉が、蕩けた琥珀蜜の色から、熟れすぎていよいよ腐る一歩手前の果実の色を通り過ぎ、燻る煙の向こうの緋色に変る時、それが現と夢の境、明の幽のあわいに立つもの達の夜会の合図。
ある者は釣鐘草の、ある者はカンパニュラの、ある者は蛍袋の、ある者はイワシャジンの形の、中心から自ら光を放つ花を手に持つ。
筋脈が見えるほどの薄い花びらの中に、螢蟲をしまい込んだ行灯は、翠のぼんやりとした蛍光を発し、空の虹天幕(オーロラ)を種火として、宙の奇跡を譲り受けたように、蟲の生命尽きるまで、輝き続けるのだと思われた。
その朧げな幻燈が、異界の者共がたむろする夜会の招待状替わり。
道すがらそれらの光が、目に見える足など飾りにしか過ぎない者達の手によって、縦横無尽に交差するさまは、周りを飛び跳ねる囚われていない螢蟲たちの、雌への大胆な告白よりも目を引く、小さい箒星たちがじゃれあっているような素晴らしい光景だった。
葬列のようにしずしずと厳かに、しかしその顔には何かを亡くした痛みなど全くなく、同好のよしみと分かるように身体に振りかけた沈丁花やら、月下美人やら、金銀花(スイカズラ)やら、茉莉花の香水の馨しい匂いと共に、今まさに享楽が起きる場所に赴かんとする、歓びが万全に満ちた顔ぶればかり。
もともと、この集まりは真祖の吸血鬼から始まったものだった。
月齢に定められた時に何かしらの集まりや行事を催すことは、長すぎる生に飽きて砂漠の如く枯れ果てた彼の心の、一粒の砂の乾きを癒す、一雫になり得る時もあるのだろう。
美麗なる処女の生き血を好む伯爵の城のカーテンには、夜の眷属の肌を焦がす、天上の灼熱の光を遮り、夜の闇や影に触れただけで、内なるか細い生命を掠め取られてしまう存在たちを守るための、神秘の塊のような布が宛てがわれていた。
太陽の光の波の一跡を紡いだ金の糸は経糸に、月鏡で照り返された光の銀糸は緯糸として紡がれ、二つの糸の交差する点に、朝露の雫と夕闇を移しとった梟の眼の水晶体を砕いて粉に、混ぜたものを霧吹で吹きかけたまま、水晶と象牙でできた機織りで織り上げると、そのような類まれなる神秘を宿し、目に見えないが、触れると赤子の柔肌のように心地よい、薄い布が出来上がるらしい。
この布を織り上げた名手らは、妖精女王(ティターニア)の菫色のドレスや妖精王(オベロン)の向日葵染めこマントを一手に任されている、お抱えの宮廷お針子や、機織りを得意とするの絹婦人(シルキー)であった。
受付係の猫妖精(ケット・シー)は、受けった花と幻翠火で出来た洋燈(ランプ)の中から、果物の白酒漬けをかき回す時の細長い銀の匙で螢蟲を救い出してやり、上等な砂糖が混ざった甘い液を、小皿に出して舐めさせてやる。腹が脹れた螢蟲は、金の手さげ金具の着いた、キャンディーポットのような、口の広い硝子瓶にいれて、休ませてやる。
人狼たちは、目覚めたばかりの満月を見て、訓練の成果が、骨の髄まで染み込んで飼い慣らされた狗のように、喉仏の玉を震わせながら遠吠えを発し、それを聞いていたドルイド僧の一人は、
「マンドラゴラのほうがまだ行儀良く鳴くというのに」と愚痴を漏らした。
犬妖精(クー・シー)は、余った色とりどりの筒状の花達をバランスよくいくつか小分けにして、流線が美しい花瓶に入れ、自慢の健脚で野原や城の中の長テーブルに置いていく。
二種の動物に似た妖精達はたまに、人狼たちの遠吠えに怯えたり、逆に聞き惚れたりしたせいで、質の悪い人狼に絡まれたり、それを助けると見せかけて、魔女達に使い魔の契りをかわさないか、と持ちかけられ、親切な者達は困った顔をするしかなかった。
招かれた客人の中で、産まれたばかりの妖精達は一日しか持たない夏至の日に咲いた芍薬の花を、なんとか数日だけでも延命させようと、無邪気に薄命な花を弄びながら、誰が一番それに到達するが早いかを競い合う。
魔女達は、無数の白いデイジーの花と紫と桃色のルピナスの穂が連立している野原に大きな篝火を炊き、屋敷の当たり一辺の地の気脈を高めながら、己の暗闇の君主に頭を垂れる。
いずれ神の裁きを受けて、自分達が堕ちるであろう地獄の業火にも勝る火の中には、炎の魔人(ジン)が狂い乱れた眼を、らんらんと光らせる。
体が気体でできている魔物たちが時折、その篝火の信じられないくらいの真っ黒な煙を吸い込み、浴びに来る。
品行方正な氣精(シルフ)たちは、その光景を見て下品だと軽蔑の溜め息を漏らし、篝火を余計に燃え上がらせる羽目になってしまっていた。
晩餐の食卓に並ぶ銀食器は、水銀の膜かと見まごう程薄く、豪奢な料理たちの口溶けを助け、真祖ほどでは無いにしても、鏡に映らない幽鬼、夢魔らの顔をうっとりさせるほどの、輝きを放つ。
またこれらも、鍛冶屋や銀細工が得意な妖精の職人達の見事な手腕の賜物であった。
立派な銅の鷲の脚で立っている蓋付きグラスの中には、干からびて黴のような、苔むした幹肌から生えてきたような人間の指が、つまめる菓子として入っていた。
「緑の指の月干しですってよ、ねぇだれかいかが?」
グラスに、極上な鷹の爪のように真っ赤な爪を生やした嫋やかな手が伸びて、蓋の丸い取っ手を、人間の躯の弱点を刺激する時のように、淫靡に掴む。
「あぁ、では私も頂こう」
「さすが、植物に愛されている指、そんじょそこらの人間の指の味とは違うわね」
「これは、月光で干すのも、この城にかかっているカーテンと同じような布で遮らなければ、このような妙味にはならぬだろう」
まだ歳若く雌雄がはっきりしない淫魔と、若輩か年配か区別がつかない顔をした死神男爵(バロン・サムディ)は、そのような他愛のない言葉を、連れ合う猫の尻尾のように互いに投げかける。
人間から精を盗みとる夢魔も、薄暗い墓地の紳士も、この時ここでは誰もが無礼講だ。
荒くれ者たちの力比べはある程度まで容認されてちるが、もちろん、互いの存在をこの世から跡形もなく抹消するぐらいの力を発することは禁止されている。
真祖の城には、異国中からの客人のために、特別な内装の部屋が設えてあった。実際のところ、半分くらいは趣味の古美術収集の言い訳も兼ねた部屋だったが。
外から見る以上に、中が広いことを気にするのは、人間世界の矮小な常識や物理法則が書かれた辞書の言葉など通用しない者達の前では、野暮というものである。
藤と睡蓮の簪をつけ、薄絹や繻子織りの天女のような衣装を、まだ変化のできない野狐に長い裳裾を引き摺らないように持たせた、 瑞桃と阿片罌粟の大陸からやってきた妖狐は、細い鳳翔竹に螺鈿細工の施しが見事な、煙管を吸う半島出身の大虎と、団子のように積み重なった茘枝(ライチ)の実の一つをそれぞれ手に取ると、産まれたばかりの穿山甲(センザンコウ)の子供に似た皮を剥き始めた。
子供の眼球にそっくりな白く弾力のある果肉がすっかり見えると、口内にいれて弄り回し、外側の味を楽しめなくなった頃に、嬰児(あかご)の喉元に食らいつく時のように、一番鋭い犬歯を果肉に突き刺して、汁が口内から零れ落ちる感触を楽しむ。
妖狐は、まだ腹に物足りないのか、少し離れたところに、普通の桃を上から力で押さえ込んで平になったような形の蟠桃が、浅めの白硝子の深皿に盛られているのを見つけた。午前十時と三時のやつ時の和やかな飢餓状態の子供のように、手を伸ばす。
空腹が癒された妖狐は、その時になってようやく大虎の亜熱帯の竹の茂みに潜んでいる時の視線に気づいたものだから、いそいそと真っ赤な花びらが透けてみえる雛罌粟のような扇子で、口元を覆い隠す。それだけの小さい動きで、日に照らされた小麦色の毛並みに挿されている簪が、しゃらりと涼やかな音色を出した。
その妖狐の様子を獲物の痩鹿を捕らえる時のような目付きで見ていた大虎は、付け焼き刃にも満たない取って付けた気品さなど嘲笑うかのように、肉厚な舌で自身の口まわりを舐めとる。
妖狐は、慣れた手つきで鮮やかに扇子を閉じると、手の動きだけで野狐たちに下がれと命じた。
野狐たちは、何も言わずに黄金色の中に黒い部分が垣間見得る前足を、長い袖の中にし舞い込んで、自分たちの主人と大虎の両方に向かって、一礼をした。
暫しの時間、従僕ではなく一人の妖魔として夜会を楽しむ事を許可した主人の意に沿うべく、てんでばらばらな方向に向かう野狐たちの足並みは、主人の面目を汚そうとなど微塵も思っていなくとも、しょうがないくらい浮き足立っていた。
周りに野狐達も、他の下賎に覗き込んでくる野次馬もいないことを確認すると、妖狐は透かし彫りが施された縞黒檀の衝立に遮られた、向こうの牀榻に大虎を誘う。
牀榻の房飾りのついた枕元には、蕊(しべ)だけが紫色でほかは真っ白な猿梨の花が生けられていた。
猿梨は、まだ獣の命だけがある猫が吸うと、狂ってしまうほど、気分が高揚する木天蓼(マタタビ)と近しい間柄の樹木であった。
龍と竜は、互いの体に無いものを物珍しく検分していた。
竜は、蛇の鱗に馬の鬣、鹿の角が合わさった河川のような龍の体を。
龍は、蝙蝠の羽に悪魔の角、獅子の牙が合わさった火山のような竜の体を。
互いに、どちらがより良いものか、劣るかなどの単語など一切思いもせずに、ただ花の色や形の違いを見比べている幼児のように、無邪気に違いを探している。
竜が知らずに龍の逆さ鱗に近いところに顔をやると、龍は竜の顔に鼻息をかけて、少し怒りながら弱点となる場所に近づくな、と竜に教えた。
竜の方は、相手の機嫌を損ねたことをすぐさま察知すると、喉の玉を転がすように、低く優しく唸る声を出して、不愉快にさせるつもりはなかった、と発した。
龍もそれで、敵意は無いことを感じ取り、
二頭の巨大な力の化身のまわりは、すぐ先程の穏やかな空気に戻った。
天地(あめつち)の嘆きの涙のような豪雨が降ってこない限り、河川が氾濫する訳では無いのと当然に、
今まさに噴火しているのでもない限り、溶岩を滾らせる火山も、休んでいる事はあるのだ。
ところで真祖の、文字通り血をわけた子孫達の様子はと言うと……。
魔女にどうにか陽の光の中を歩けるようになる薬か、肌を守る軟膏を作ってくれないか、とせがむ者。
ドルイド僧に、どうすれば死ねるのだろうか、と懇願するもの。
東洋の魔物らに、自分たちの体質を少しでも変えてくれる、未だ知らない奇跡の術はないだろうかとせまる者。
その他の者も皆、夜を歩くもの(ナイトウォーカー)の代名詞という冠を背負っている自負も矜恃もなく、とにかく自分以外の怪物たち相手に、己の生を終わらせる可能性があるものを探っていた。
真祖は、この光景を見るのが心底厭がり、我が同胞といえども、決してこの祭には招待をかけなかったのだが、子孫達はそんな真祖の気持ちなど知ってか知らずか、これ程の化け物たちが一堂に会する機会などそうそうない、といって、毎年来るのを恥にも思わなかった。
それぞれ、真祖に血をねこそぎ吸われるのを恐れて、もしくはその光景を見たせいで、ただ無残に嬲り殺されるところだったのを命乞いをしたもの、昼と人の営みを憂いて夜の世界に足を踏み入れたもの、憎む相手に人以上の力を得て復讐したいと誓ったもの、もしくは単純に力そのものに憧れたもの、死の破滅を恐れて神を裏切って真祖の手をとったもの、闇の中にいる限りは不滅だと、永遠を手に入れた気になっていたもの……。
動機は様々で、たとえその場限りだった命を繋ぐためでも、皆自分から望んで真祖の配下になるのを了承したというのに、大体三百年ほども経つと、この世に長年意識を置き続ける苦痛というものが、生きている喜びより上回るものらしい。
夢遊病患者のように虚ろな目で、青い血管が透けて見えるほど白い肌を疎いながら、ただひとつの死ねる方法だけを、塵捨て場を荒す鴉のように、浅ましく探すのだ。
それらも、真祖がこの世に在り続ける事を嫌がる理由の一つだった。
ただ吸血鬼は、肉体の破滅で精神も消滅するので、死ぬと言うのは厳密には正しくない。
人は死んでも魂は消えずに次の転生を待つが、卑しく血を啜る吸血鬼に成り下がったものは、魂など高尚なものを持っていられるほど、高潔でいられる価値はない。
つまり彼らは、死ぬこともないので、そもそも生きてもいないのだ。
その彼岸と此岸の境界線にずっと佇んでいる狂気に耐えられるのは、真祖以外には居ないという、ただそれだけのことだった。
晩餐のメインディッシュは、人間の女だった。
母親なのか、大きな腹を抱え、余計なものを何も見ないように、黒い布で目隠しをされ、悲鳴をあげないように猿轡を噛まされ、逃げ出さないよう囚人のように手に枷がはめられ、繋がれた長い鎖を真祖が直々に手に持ち、漆黒のドレスを身に纏った死神の花嫁が入場するようにして、生贄は怪物たちの前に引き出された。
背徳的な聖母像のような出で立ちで、大きい腹のためか、視界を闇に閉ざされたまま歩く恐怖と共に進むのは躊躇われる為か、歩幅は歩くのを覚えたばかりの幼児のようだった。
「ええ、今宵の皆様の舌の上を喜ばせるための最後のひと品。真珠歯を産む女であります」
アメジストと同じ紫色の瞳の、シャム猫妖精がそう言った。
人間の女が、そんなもの産むのだろうか。
と暗がりのローブ姿の者が、密やかに声に出した。
それは、真祖が連れてきたものに、自分の知識と照らし合わせて純粋な疑問が出ただけで、見世物小屋の街頭広告に騙されたつもりで行ってみると、実際に出てきたものは動物の死骸を継ぎ接ぎした剥製ではないか、と冷やかす客のように言ったものではなかった。
否、いるのだそういうものが。
生まれつき、片方の足や目がない人の子がいるだろう、それと同じでおそらく、この女もたまたま、天か運命の悪戯でそのように生まれついただけなのだろう。
同じような姿の二人が、未熟者の惑う考えを丁寧に導く賢者のように、言葉を発した。
その三人は、共に山深くに隠れ棲んでいる隠者だったのだか、長年山の氣が満ちた霞に包まれた生活と乾いた苔に地に落ちて腐れた果物と、清水を口にするだけ粗食と、厳しい修行が重なったせいで、体の一部に毛が生えたり、肌に鱗ができたり、頭に、瘤のような角の萌芽が出来ていたりした。
真祖の爪が服を通して腹の上に置かれている状況でも、女は身じろぎ一つしなかった。
真祖の爪先が当たっている鋭い感触は、明らかに女の触覚にも伝わっているであろうに。
それは、もう多勢の化け物たちを前に、既に逃げ出すことなど諦めているのか、薬か何かを嗅がせて、知覚を狂わせ何も分かりないようにしているのか、判断ができなかった。
けれども、後者の可能性は限りなく低かった。
真祖は、客人の前に出すものならば、余計なものを何も加えない最高のものを、という君主らしい信念を持っていたのだから。
真祖の爪が、女の腹を引き裂いた。
真っ赤な血飛沫とともに、真珠光沢の乳歯ぐらいの歪な玉が、小さな貝殻のネックレスの紐が切れた時のように、四方八方に飛び散る。
星が爆発した時の光と炎の飛沫のように飛び散った珠らを、闇夜の住人達は、玩具にじゃれる子猫のように目敏く探し出して、すかさず舌で嬲る。
暫く、晩餐会が披露されていた客間には、子牛が母親に乳を強請り、吸い出しているような音しか鳴らなかった。
女の遺骸は、糸の切れた操り人形のように地に力無く倒れた。
普通の人間の殆どが刃物で腹を切られただけでは、瞬間的に絶命までは至らず、痛みで苦しみ抜くか、結果的に失血死になるかどうかだが、真祖は女の腹の薄い皮膚だけでなく、生命の弦まで断ち切っていた。
真祖は、三女神たちが運命の歯車で紡いだ人間の生死を決める糸までにも、触れるだけの力があった。
もっとも、無闇矢鱈と神のみに許された領域に触れるのは、不要な祟りや怨みを買うだけなので、滅多にしなかったのだが、それを差し引いても、わざわざそんな方法で殺したのは、供物となるのならせめて苦しませずに終わらせてやろう、という真祖の温情だった。
それは、知性ある生物を殺してしまったという、より高位な存在特有の上から眺めるような、傲慢さからくる故の憐憫ではなく、 人間が食卓にのぼらせる日々の糧の為に尊い犠牲になった獣たちにそうするのと、変わりないものだ。
程なくして、女の死体の下に広がる血溜まりから、無数の血濡れた手が伸びてきた。
いつの間にか、特別に生まれついた女の血が、辺りの魔力や妖魔の気配と反応を起こし、この城の床と何処かを結ぶ異界の窓となっていたようだ。
手は、何かを探しているようで暗闇の中で人間が手探りで鍵をみつけようとする時のように、無数の手がわらわらとする様子は見ていて気分の良いものではない。
良くて、敬虔な信徒ならば地獄の業火に妬かれる罪人の救いを求め天に伸ばされた無数の掌か、悪魔ならば熱波に揺蕩う彼岸花(スパイダーリリー)に似た形だ、と形容するであろう。
手は、自分たちが生えている根元に、目当てのものがあるとようやく見つけ出したらしい。
手は、人だったものの亡骸をしっかり掴むと、女の血でできた赤い穴に、引きずり込んだ。
穴は何処かの空間か次元の狭間にでも繋がっているのだろうか、次第に収縮し始めると次にはただ一点に砂が引き込まれる蟻地獄の巣のようなり、仕舞いには消えてなくなってしまった。
勿論、そんな光景を見ても、その場にはさっきまで生きていた女だったものの行方を毛ほども気にするものや、可哀想に、などと口にするものは誰一人としていなかった。
雲に隠れた月が、再び顔を出してから、茶色の毛皮の上に虎柄を描いた猫妖精が、歩み出て言った。
「それでは皆様、最後のお食事も済んだ事ですし、どうぞ中庭の方へお進み下さい。失礼ながら、食がまだ下っていられない方は、ご気分が優れるまで、ご自由に休み下さい」
産まれたばかりの妖精たちや、そよ風が吹いただけで飛ばされそうなほど力の弱い化生たちは、特にそうだった。
真祖が、一年に一回必ず我が城の祭りに駆けつけて、灰になるのをぎりぎりで思いとどまらせてくれる礼として直々に客人たちの存在の核に力を注ぎ込めるように、選んだ供物である。
常日頃から、只人を驚かして恐ろしい気持ちを食らったり、自分の役目(しごと)を真っ当にこなしたり、体の一部または全てを食らったりした時とは比べ物にならないほど、力が注ぎ込んでくる。
言うなれば、笹の葉でできた玩具の水車に、本物の水車で回す量の水を浴びせかけているようなもの
だ。子供が空腹のあまり己の腹の容量を見誤り、これ以上は食べられないが、まだたくさん残っている料理を前にして、母親にだから言ったでしょう、と窘められるのを疎んで、無理やりわが腹へ納めたような、これ以上空気を入れたらはち切れそうな風船の腹を抱えた塩梅で、どうにもこうにも、息をするのを苦しかった。
他の者達は、猫妖精の言う通り素直に、中庭へと歩み出た。
この城の中庭に、この世の全てから魑魅魍魎達が集まっていたと言っても過言ではない光景があった。
空気を通して、先程の篝火を焚いたときの、闇夜の煤と魔術の烟の香ばしい匂いがした。
黒いジャケットに白いカフス柄の前足を持ち、瞳は緑柱石(エメラルド)の瞳で、灰色の髭を持つ雄の猫妖精が、吸血鬼の真祖の前に、螢蟲の集まった硝子の瓶を差し出した。
(これも、城の中と同じく外から見るほど狭くないようだった。螢蟲たちは、思い思いに飛んでいるが、一匹としてぶつかったりも、窮屈そうにもしていない。空気も循環されているのか、酸欠になる気配もなさそうだった。)
花幻燈の光を彩っていた螢蟲たちが、何百何千と集まっている硝子瓶の中は、鉱山の中に何百年と眠っていた螢石を紫外線放射電灯(ブラックライト)で照らしだしたのを見つけた、貧しいなりで一山当てるのにかけた鉱山夫の瞳を通して、覗き込んでいるようだった。
「それでは皆々様方、何か一つ自分の心の中で願い事をして下さいませ」
客人のフリークスたちは、素直に目を閉じて頭の中からこんな時に言うべき希望を探し出した。
中には、手の指を交差して、天と神に向かって真摯に祈る修道者の仕草をした哀れな吸血鬼もいた。
「それでは、真祖さま。お願い致します」
真祖は、猫妖精に言われるままに、もみの木の根元に置かれた聖夜の贈り物を初めて開ける子供のように、生き物が入っている水槽の蓋を開ける時のように、硝子の瓶の蓋をそっと開けた。
生暖かい、夏至の夜の風が入ってきたおかげで出口の存在を感じとった螢蟲たちは、翠光を発しながら我先にと外界に飛び出して行った。
それは、天の川を形作る星屑達を、術のかかった硝子瓶で全て吸い込もうとしている時の映像を、逆から再生したかのような、有様だった。
螢蟲たちは夜の湿った空気の中で、葉先を垂らした植物たちに止まったり、花の窪んだ部分に溜まった夜露を啜りに行ったり、とにかく暗闇の中の異形たちの顔すれすれに飛んでいくので、人間の目からは廃墟の如く朽ち果てた城の中庭に、鬼火(ウィプス)に照らされた無数の亡霊が現れたようだった。
この光景を臆病な人間がもしも見ていたら、そう勘違いしていたに違いない。
人あらざる者達は、子供の瞳が流星の群れに圧倒され、惹き付けられているように、いつまでも螢蟲たちの描く翠の光線を眺めていた。
それぞれに、その軌跡に託した想いを、ふたたび心の中で反芻しながら。
もちろん真祖が、天に向かって放たれる翠色の光に一体何を願ったのか、それは、真祖以外誰も知らない。
ただ、持っていた硝子瓶と同じ色の瞳の、カフス柄の立派な猫妖精だけが、濁った水晶玉の霧模様の向こうに、一体どこの未来を指し示しているのかまっとく見当もつかないのによく似た真祖の瞳を、真っ直ぐ見つめていた。

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