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錆釘

ある人は、心に釘が刺さっていた。
そのようになった原因は、誰にでもあるような辛い過ちのせいであったけれども、その人自身は心の中に異物が刺さっているのを、もはや自分の一部だと思い、生きていた。
初めの頃は、針のような小さな痛みで、気にする程でもなかった。
けれど、放置しているうちに、だんだんとそれは大きくなってきた。
指で触って大きさを確認出来るようになった頃には、自分でなんとかその釘をぬこうと必死になっていたが、そうしようとする度に、体の中心から外側まで、捨てられた子猫が拾ってくれた人の肩に必死で爪を立てるように、細かい逆毛がいくつも逆立ったように、己の居場所はここだ、と必死に弁論するような痛みが、波紋のように広がった。
仕方が無いので、その人はその釘を完全に放ったらかしにするしかなかった。
刺さっているとたしかにじくじくと痛いが、引き抜こうとする時よりは、よっぽどましで正当な痛みのような気がしたのである。
それでもやっぱり、冬の夜の寒さが骨身に染みるように、もはやこの痛みとは一緒に居られない、と感じる孤独な夜が幾度もあった。
その人は、もしやこの釘は、自分が何かの傷を埋めるために発生させた瘡蓋〈かさぶた〉のようなものなのではないか、と考えた。
ならば、傷口を修復するだけで事足りるのに、なんの訳だかこれは、立派な鋭さのある釘にまで成長してしまった。
一度や二度、何かの病原菌やウイルスが侵入したせいで、体内の抗体その後に過剰反応を起こし、アレルギーを発症してしまうように、自分は心の奥底で、知らず知らずに、もう傷つきたくない、と感じて、傷口を埋めるどころか、そこを塞ぐように真鍮の棒より硬いものを生やした。
陽だまりに浸っているような気持ちや、他のの感情の侵入を許さなくなり、それら外側の何かしらを威嚇するように、鋭い凶器〈狂気〉を備えている。
けれども、そういう考えも胸を言ってはっきり正解だとは言えなかった。
何しろ自分の心の中など、自分で考えれば考えるほど、木が密集して生えている所の沼地に嵌めるように、分からなくなっていくのだから。
そのようにして、その人は心の中の釘を、気難しい隣人か猫に対するように接して、なんとか生きていた。
道行く人の心の中に、どす黒い色の棒など刺さっていない事を時に恨めしく、羨ましく、感じながら。
逆に、自分一人が抱えている痛みの優越感に浸る時もあった。
なんだかそれは、自分自身が舐めることを唯一許された、甘露のようだった。

ある人は、心に釘が刺さっている人を見て、真っ黒い穴が心の中にぽっかりと空いている、と思った。
その穴は、宇宙のどこかにある虚無さえも飲み込む黒い穴より、底知れない色をしていた。
その人は、それを見て、ああこの人は大変な孤独と、痛みと、寂しさを感じているのだな、と思った。
ならば、自分が少しでもその人の心の穴を埋められるような、そんな存在になろう。
心の優しいある人は、そう固く決心した。
最初は少しだけ、料理にお気に入りの香辛料〈スパイス〉を振りまくように、そっと希望をかけた。
けれども、心に釘の刺さった人は痛がって、気持ちは有難いけれど、そういう事はやめてくれ、と返してきた。
その人は、あぁこの人は何もかもすべて拒絶しているのだ、飢えた犬が脂ぎった骨付き肉を与えられても吐いてしまうように、いきなりの事で心の中の穴が少しの希望を受け付けなかったのか、と思った。
それから、様子を見てはその人は希望のきらきらする粉を、心に釘の刺さった人に振りかけていった。
けれども、何回試しても多少多くしても、〈心の穴〉は、まるで硬い金属のように、変化がなかった。
〈心に穴が空いている人〉は、人の優しさの価値に裏切られた人のように、希望を振りまいた人の事を拒絶した。
やめてくれ、そうされると心がとても痛くなるんだ、と〈心に釘が刺さった人〉が訴えても、その人は埋められる心の穴を、もうこれ以上自分でなんとかすることに疲れて、きつい事を言ってきてのだろうと思った。
その人が近づくと、〈心に穴が空いている人〉は、天敵の猛獣に睨まれた兎のように、怯えた目で逃げるようになってしまった。
その様子を見て、その人は、きっととても辛いことがあって全てが恐ろしく見えてしまっているのだ、だから自分が安心させてあげたい、と思った。
〈心に釘が刺さった人〉は、どこに居てもこちらを狙ってくる嫌らしい狩人のようなその人を見かけると、野犬のような速さで逃げるようになった。
こちらが、それをするのやめてくれ、心が痛くなるんだ、と何度言っても聞く耳を持たないその人を、悪魔のように恐ろしがった。
それでも、その人は諦めなかった。
ある日、その人は〈心に穴の空いた人〉の後ろからいきなり、とても大きい希望の塊をその人の〈心の穴に〉思いっきり押し付けた。
その時、〈心に釘が刺さった人〉には、体の皮を全て剥かれて、業火の上の鉄板で焼かれているような、とても口では説明しきれない、とてつもなく酷い痛みが、全身を襲った。
〈心に釘が刺さった人〉は、思わず絶叫してその場に倒れ込んだ。
体を真っ二つにされた猿の悲鳴よりも大きい、地を裂けるような声をしたあと、〈心に釘が刺さった人〉は、一瞬にして燃え尽きた蝋燭のように声が枯れ、呻き声を出すしか無かった。
そして、目からひとひと涙を流しながら、
〈心に釘が刺さった人〉は思った。
この世に希望などないのだ、と。

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