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上海水蜜

桃膠〈 とうきょう〉というものがある。
桃の花が咲く頃になると、その柔らかな花が可愛らしい孫娘だとして、訝しい祖父のように見える幹肌に、鈴なりの琥珀色の宝石のように実るのが、桃膠だ。
その様子から、かねてより大陸では桃花の泪、と呼ばれていた。
その夕日よりも甘美な色の樹液の塊は、一日清水に漬けておくと、水を吸った分ふにゃふにゃと柔くなる。
死んだばかりの子供の眼球のように膨らんで柔い桃膠と、氷河の一塊を削り出したような氷砂糖、海水に溶ける寸前の死んだ海月〈クラゲ〉のような銀耳〈シロキクラゲ〉を混ぜて、出来上がった甘露の一杯は、味よりもその美容効果で貴婦人たちに持て囃されて、今のところどこの喫茶店でも、甘味処でも引っ張りだこだった。

この前、翡翠の耳環が流行りだしたと思ったら、今度は黒真珠の耳環が、世間的目ざとさを持つ女達の耳朶に、牡丹に獅子、梅に鶯と言わんばかりに、ずらっと下げられている。
鬣犬〈ハイエナ〉も恐ろしがるような、流行を嗅ぎ分ける彼女達の鼻には、誠に恐れ入る。
翡翠モドキの……、金メッキの拘束具に捕まり、哀れにも無理やり緑に着色された硝子玉の耳環達は、宝石箱や小物入れの隅に追いやられ、質屋に売り払われ、二束三文にもならなかった。
それらも、そろそろ新しい噂に上書きされようという頃合だった。

水罌粟〈みずげし〉の街には、天女が降りてくるという噂があった。
白波の泡を領布に、衣に纏った水天は、紅珊瑚色の沓に虹色を帯びた真珠の飾りをつけ、鼈甲とも違う、海亀の甲羅を細かくしたものの簪をつけ、体が海藻で出来ている龍の落とし子の精や金魚と闘魚のそれぞれ一番美しいところを頂いた小魚達を、珊瑚礁より豊かな髪で戯れさせて・・・。
蜃というのは巨大な蛤のことで、波間と陽炎の間を飛ぶ船の幻影を吐いたりする生き物だ。
蜃の口管から吐き出されるそれら幻想の煙は、長い時を経て体内に結石した真珠を溶かして作り出される。
真珠の格は、並のあこや貝と同じ白が一番低いとされ、次に淡い桃色を帯びたもの、徐々に蟹の甲羅のように濃くなっていき、魚〈うお〉の血のような赤に、珊瑚の朱紅、磯巾着の橙から黄、若い海藻の色、陽を反射する海水の色に、ぼんやりとした海月の行燈が灯された夜の海の色に、すぐそこに大凧か大王烏賊が這っている闇のような深海色、という順に決まっている。
蜃の王は、七つのはっきりした虹色の珠を体に宿すという。
七つ色の真珠玉は、子供が舐めるような飴玉か玩具の紙風船と同じような均等な配色で、七つ色に光るらしい。
けれども、それぐらいの大蜃ともなると、真珠を溶かして煙にするのに大変に体の力を持っていかれるので、俗に言う「大食らい」となる訳だ。
凶暴な海魔に襲われる幻を見せて船を転覆させ、落ちてきた人々を喰らい尽くす。
要するに、人食いの大妖となる。
水罌粟の街に気まぐれに降りる天女は、その蜃の王から取られた脂を使って作られた、蝋燭をなんの気なしに只人に与えるのだという。
その蝋燭は、蜜蝋で作られたものとは違う海の薫りと光沢を放ち、祭りや遊びの場で燃やせば、極上の橄欖油を注いだようによく燃え、学びや畏まった場で灯せば、霜で焼け爛れたように火が萎びてしまうらしい。なんとも、現金な蝋燭である。
蝋燭に身を落とす前の蜃の王は、余程賑やかなものが好きだったのだろうか。
そして、何故水天がこのような代物を只人に与えるかということも、人間達は訳が分からなかった。
この街に黴のように蔓延る噂の中には、この水天は、海神の吐息がかかった海の泡から生まれ、留まることを知らない潮の流れと同じで自由奔放の為か、はたまた人間の体の臓器というものがまるっきり抜け落ちて、液体の体に魄はなく、魂だけを得た身で、自身の考え事を自分で制御できずに、猫か白痴のように振る舞うことしか、出来ないからなのだという者もいる。

他にも、おさげ髪のような耳の狆は、猛毒の血を持つ妖鳥の酖を食い殺したおかげで、不死竜を殺した英雄〈ジークフリート〉が、浴びた血で不老不死になったように、狆自身の血も解毒の作用を持つこととなり、名も同じ読みで表裏一体の毒と薬を表すようになったのだ、という。
その為、後暗い経歴を経てその地位に着いた貴婦人方は、夫の愛妾らなどに、己のギヤマングラスに毒を盛られる事を恐れるあまり、こぞって豊かな絹糸のような毛並みの狆を飼い慣らした。
中には、海の潮満ちる時月の力も満ち、血潮もまた癒しの力充ちるという言い伝えを信じ、ひと月に一回ほど、愛犬の血を抜き取って、銀の飾りの着いた硝子の管に保存するほどの女もいた。
殆どは新しい血と入れ替わりで、棄てられる運命だったが、中にはそれを高額な値段で買い取る呪術師もいた。犬の血、ましてや霊験あらたかな狆の血は、特定の符形を書いて、呪いを載せて術を発動さる墨としては、これ以上ない材料だ。
そこそこの地位もあり、夫の阿漕な商売で常に懐も暖かいというのに一人の夫人は、とろりとした紅い液体が入っただけの硝子管一本を、瑪瑙の釵〈かんざし〉と螺鈿の黒箱を合わせてを二十個も買えるほどの値段に釣り上げた。
仕事の依頼が来たというのに、材料が底をついて困り果てた溝鼠に良く似た顔の厭らしい性根の呪術師の男は、仕方なくそれを買うしか無かった。案の定、ぞっとするような術ばかり得意な呪術師の恨みを買った奥様は、不審な死を遂げ、葬儀も身内で最低限なものにしかなされなかったという。

ある子は、鬼灯で作ったお手玉が好きだった。
目が空いていても、その瞳に映る世界はなんの知識もなく放り出された異郷そのもので、磨りガラスの向こうの景色よりも朧気に見えたに違いない。
それを踏まえても、赤ん坊が何を考えているかなど、皆目検討もつかない。
それに何だか、大人とちがって赤ん坊の意識は、体に縫い留められておらず、そこらを幽魂のようにふわふわ飛んでいるのぢゃないかと思ってしまう時もあった。
だから、母親が作ったただ一つのものが、ほかの何よりも、あの子の心を射止めていたという事実が、幼い頃に初めて舐めた、おはじきのような飴玉の甘い味が、舌の上に広がっていく時のように、ただただ愛おしかった。
それがただの偶然であったとしても、とても、嬉しかった。
普通の、沙羅や縮緬の布で出来た袋の中に、蕎麦殻や小豆の入ったものより、母の、お手製の透かし鬼灯の中の実を取り除いて、小さい蜻蛉玉や飾り鈴を縫い糸と針でぶら下げ、気の毒にも突き破ってしまった殻を赤い糸で閉じて作られた、小さな小さなお手玉。
柔らかく色とりどりの布で出来た、少し固くて握りがいのあるものよりも、骨のように透き通った植物の繊維に触れるのは、不思議な感触がして、赤子の未発酵の粉生地のような手には好ましかったのだろうか。
母もまた、透かし鬼灯の作り方はその母から教えてもらった。
透かすために何週間、何ヶ月も同じ水に放置されたの大量の実は、当然物凄い腐臭を放つ。
蓋を開けて二人で、臭い臭い、と文句を言いながら、大きな木桶を傾けて茶色くなった水を流したことは、昨日の事のように覚えている。
当然、母になった女も我が子と同じような体験をできるのだと、思い込んでいた。
水罌粟の街には、様々な噂がある。
中でも、幼くして亡くなった我が子を偲んで、一人の女が塚を立てた。
月命日には子供が好むような、甘く味付けされた餅や粉砂糖の衣を来た菓子を、毎年の命日には鬼灯の実を透かして、中の実を赤い珠や鈴に入れ替えたお手玉を必ず、子供の掌ほど大きさの塚の麓に木の葉を敷いて、置いていった。
他人は、理由は聞かなかったが、七つもいかない歳の子が、急に死んでしまう事など、この街では珍しくもない。
珍しくもないが、健気に毎月毎年、一回も欠かさず塚に参る女を見て、人々はこの女の優しさが、今は冷たい土の下にいる子が生きている時に、どれだけ暖かく降り注いだのだろうか、と考えずにはいられなかった。
女の悲しみを軽んじる物など誰一人もおらず、大雨や強い風で塚の周りが荒れた時は、人知れずに掃除をしていく親切な者もいた。
次第に、塚に参るのは女ひとりではなくなっていった。自身の哀れな水子に報いたいという気持ちの親や、体が大きくなってから不幸にも事故や病気で
この世を去ってしまった子の魂を慰めるために、女と同じように、生前子供たちが好んだ品々を、贈り物を渡す時のように、置いていく人の数が増えていった。
それから、その塚に参ると、親より早く亡くなってしまった不幸な子供達の魂を迷いなく、千枚の花びらの蓮が咲き乱れる、極楽へ連れて行ってくれるのだ、という噂が出来た。
なんでも、夜な夜な、一人だけ年長者のような子供が塚に現れて、大小色とりどりの紙が貼られて、ぼんやりと光る提灯のような人魂を引き連れ、丑三つ時の霧の中に消えていくのだという。
その子は、真っ赤な色の蜻蛉珠の耳飾りをして、鬼灯の透かされた繊維のような薄衣をまとい、骨のように白い脚から歩く度に、ぽっくりのような履物から、鈴のくぐもった音色が聞こえるという。
その噂は、あの女が天寿を全うしてから出来上がったものだろうが、そんな事を知っている人は、この水罌粟街にはもういない。


もう人生にも、世界にも希望の光を見いだせず、平たい死綿の敷布団と冷たい掛け布団の中に蹲り、中身が死んで腐りゆく繭の中の、幼虫の身のように、どろどろとした感情をどうしようも出来なくなった人間達を、その様子から、まるで我が子だと勘違いして、夢現の世界に連れて行ってしまう胡蝶達がいるらしい。
春の花畑のような、透けた曙色の羽から零れる鱗粉は、吸うだけで脳の働きも血管とそれを司る心の臓の動きも、苦しみなく緩やかに止まり、魂が抜け出た遺体を腐らせて蕩けさせる事もなく、一点一点のひびがほんの少しの力で繋がって割れる陶磁器のようになって、粉々に砂より砕けてしまうという、阿片よりも優しい薬だった。
六本の細い脚に抱えられた人間達の魂は、かつて頼もしい父の背におぶさって、優しい母の胸に抱きとめられた時の心地よい気持ちを思い出しながら、もしくは生まれてから一度もそのような思いを出来なかった子供たちは、その時に生まれて初めて、浮世の憂さが全てどうでも良くなるほどの、天井の聖母から抱擁された心地を知るという。
そしてそのまま、この世でもあの世でも、どこでもない、胡蝶たちの甘い鱗粉の香りが充満する世界へと連れていかれる。
そこでは、真の魂の休息が受けられ、気の済むまで癒されることが出来るのだという。
そこにいることで払うべき対価も代償もない。
人間世界のおぞましい常識など影も形もない素晴らしい世界なのだという。
現世の悲しみ辛さを忘れたいのなら、胡蝶たちが前脚を子供達の頭の上に翳して、そうとりはからってくれるらしい。
逆に、どれだけ辛いことだろうとも一等大切な思い出として覚えていたいならば、胡蝶たちは子供の心がそれを完全に受け入れられるようになるまで、一時も離れずに、時たま目尻に浮かぶ泪を優しく口管で吸ってくれるのだという。
中には、夢幻の世界の胡蝶たちは、この世の悲しみに堕ちた人間達を子供だと勘違いして、傷を癒すために我が巣に連れて帰っているのではなく、その泪を甘露の餌として利用しているだけなのだ、連れていかれた人間達は、蜘蛛の巣に絡まって糸に巻かれて、動けないところを毒を刺されて吸い尽くされてて、身も心も虚だらけになってしまう小虫のようになってしまうのだ、という人間もいる。
もっとも、それを確かめる術はない。
誰一人として、心地よい幻影の粉が舞う、夢幻の世界から戻ってきた人はいないのだから。
あるいは、その両方かもしれなかった。

水罌粟の街には、今日も金継ぎ師が鉛の欠片を両の紐に結んだでんでん太鼓をチャリチャリと打ち鳴らしながら、客寄せをしている。
向こうの女衒では、やつれた目に青いくまを垂らし、ひび割れた鼈甲の簪を髪に刺した遊女が、惚けた顔に濁り硝子の眼をして、銀細工の煙管から阿片の紫色の煙を吐き出していた。
そして、あのじゃらじゃらした格好の女達の姦しい声が、密林の小鳥の声よりざわめく喫茶店では、生き血を吸ったばかりのような色に塗られた唇で、十七の娘が、その唇と同じくらい瑞々しい生の桃が乗った菓子を、甘くてベタベタする汁を口の端から滴らせながら、自分ではそんなことに気づきもせずに艶めかしく、しゃぶっていた。
色硝子の窓から侵入した夕日は、その娘の金のフォークの湾曲部分で反射され、流れ星が……、蝋燭の火が消える一瞬前とおなじ、強い光を放つ。
娘は、紅もせず素爪をピカピカに磨いただけの、その歳にだけ許された黄金比の美しい指で優しくフォークを握りながら、菓子を刺し、ちょうどいい大きさに分けて、白雪姫の末裔のような自身の口に運ぶ。振り子のように同じ動作を繰り返し、消えかかる本体から逃げ出した夕日の光を、たった一本のフォークで捉え、金色の軌跡を描く。
その金色は、一つの顔に口が二つも三つもある女たちの、耳朶に吊るされた耳環の遠慮のない光よりは、余程ましであろうと思われた。

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