エルバベインの虎
エルバベインの虎は、かなりの横暴者だった。
龍仙郷の谷間に降りて、霧の吐息を吐き、濃度の高い雨雲を呼んで、弦のような髭の摩擦で雷を
落とすのが、何よりの楽しみだった。
坊主が木炭と山羊の唾液と鼠の血を混ぜたもので、檀家の家の前に招副と拒禍の呪形を描いていると、必ずそれを鞭のような尾で拭い消し去って、錨よりも鋭い鉤爪で坊主を指さして、命ずるのだ。
「やい、そこのお前。天に轟く雷鳴よりも、千年生きた古代樹の葉脈よりも素晴らしい、おれの模様を描く手伝いをさせてやろう」
可哀想に、蛇に睨まれた蛙のように、鷹の目に狙われた雀のように、震え上がった坊主は言うことを聞くしかなかった。
こうしてエルバベインの虎は、自分の毛皮の上の素晴らしい檳榔子黒〈青みがかった黒色〉の樹形を、一つ増やすのだった。
その図形はさながら、一年経つ事に必ず魔封じの刺青が継ぎ足される程の、凶悪な妖〈あやし〉のものを封じた壺が1000年経ったような、百歳〈ももとせ〉生きて魂魄を得た蔦植物の精の手足よりも、見事なもので、この虎が人間の考えうる最大の単位の数も遠く及ばない程、齢を積み重ねてきたことを雄弁に語っていた。
高麗の虎どもが、ただの獣と知性ある我が身を分かつものとして、そして嗜みとして唯一身につけている煙草を、力で片っ端から奪い取とると、籐の寝椅子に片膝をついて、嫌味ったらしく、大蜃の怪が氣楼の幻煙を吐き出すように、黄ばんだ鋸鮫の歯ような牙の間から、霞草と万寿菊に迷送香を燻した紫色の煙を漏らすのだった。
水晶筒で出来た煙管は、特に気に入って、手放そうとしなかった。
紅珊瑚に黒真珠の飾りの着いたものよりは、石化した黒檀の周りにいぶし銀で装飾が施されているものを、好んだ。
生薄荷の結晶を溶かした綿の煙草よりは、鯨の目脂と麝香の混ぜ物に桃酒を加えて発酵させた煙草を好み、それらを吸ったときの彩雲の吐息からは、子の邪龍が生まれでた。
邪龍たちは、エルバベインの虎の、獅子よりも頑な前足に、鰐の肉よりもぶ厚い肉球にまとわりつき、じゃれついた。
邪龍たちは、見ただけで少しの災いをもたらす氣を纏っていたが、それも少し強い風が吹いただけで、邪龍ものとも呆気なく消えてしまった。
一人になったエルバベインの虎は、大きく一息で煙草を吸い上げてしまうと、耳の穴から急須の湯の蒸気が漏れるように、体内で熟成させた煙草の煙を、蒸気機関のように吹き出した。
それはどす黒い紫色で、空気を汚し、周りを飛んでいた蝶や羽虫達は、落ち葉のようにぱたぱたと地に落ちた。
どんな悪徳を重ねた生き物の死骸が腐っても、これほどの悪臭にはならないだろう、という臭いもした。
煙を振り払うために、エルバベインの虎は、子山羊が短い尻尾をふるように、耳をぴこぴこと動かした。
夜の闇にぼんやりと浮かぶ白梅の花の蕾のような、耳の斑点が、小禽の頭の如く忙しなく動いた。
ある時、五百年生きた猿猴〈エンコウ〉の首長から、「お前は、私が夕空に酔う酔芙蓉のようにくらくらするほど長い時を生きているのに、世の中にとって善行や徳とされる事を積まないのは、一体どういうわけなのだ」
と、聞かれた。
エルバベインの虎は、牙の間の食べかすを舌でこそぎ取る時のような表情で、こう言った。
「おれが、石灰が混ざった一雫が巨大な鍾乳石の洞窟を作るほどの間、世のため人のためになる事をしても、天地の理に逆らいやりたい放題に振舞っても、それは結局どちらとも同じことなのさ、猿猴の爺」
首長は、大嵐が過ぎ去った後で大樹が根こそぎ倒されている光景を見た時のような、自分ではどうしようもない巨大な力を前に、なるべく関わり合いになりたくはない、という顔をして、エルバベインの虎の元から、去っていった。
エルバベインの虎は、その苔むした背中を眺めながら、髭を小さな象牙のような爪で擦って、大気が震える音を出して、遊んでいた。
一刻もすると、年老いて藻を体に絡ませた水の主から苦言を言われたことなど、もう記憶から綺麗さっぱり消されていた。
ある時は、迦楼羅の使いの薔薇〈そうび〉の天女が、ふくよかな朱唇を三日月の孤のようにかき鳴らして、こう聞いた。
「お前には、この世で何ものにも耐え難い、恐ろしいものは無いのか」と。
「ああ、おれにもひとつくらいあるとも、おれは何より始まりが恐ろしい、始まりは全てを否定してしまう」
その時の、エルバベインの虎は、幼児が誤って触れたりしないように、温かいものを触って火傷をした振りをする両親のように、大袈裟に怖がる素振りをしていた。
けれども、それは天女を煙に巻くための方便なのか、それとも声音一枚向こうの、心の奥底では、本当に髄の髄から怖がっていたのか、誰にもわからない。
分からないのだ。
この虎の全てを知ろうとするのは、煙を手で掴もうとするよりも、蜘蛛の糸で薄布を編むよりも、月のか細い光を虫眼鏡の湾曲した硝子の板で束ねて、虫を焼き殺そうとするより、難しいのだ。
ある時は、長い時を生きて知恵を持った琵琶猫の大将に、
「お前は、この世の全てを自分のものだと思っているらしいが・・・」と聞かれたら、火山が己の血肉の中の膿を轟かせでもしたのかと思うくらいの大きな声と息を吐いて、笑い吹き出した。
「お前は、この世でただ一つでも自分のものになったものがあると思っているのか?」
エルバベインの虎は、ぞっとするくらい鋭い爪の先で、目尻に薄く浮かんだ涙を、幼子を載せた木船の櫂が、尊い眠りを妨げないよう水面をそっと撫でる時のように、拭った。
「物や銭ならともかく、少なくとも自分の命や心は自分だけのものでは無いのか?」
琵琶猫の大将は、自分の骨の髄まで染み込んでいた常識というもの、物心がついてから今まで少しずつ積み重ねて知り、自分の血肉にしてきた知識の欠片たち、それらの集合体である自分自身が屑山のように、呆気なく崩されていく恐怖を感じて、心臓が脂汗をかいている感覚に、どうしようもなかった。
エルバベインの虎は、雨雲を纏った雷神も逃げ出すような、地震を起こす大鯰も怯えるような大声で、また笑いだした。
「命など!自分の意思でこの世に生まれ落ちたわけでもない!ましてや、自分の意思で傷ついた体を癒せるわけでもない!それどころか外界の物事で簡単に病む心身であるぞ!我らにできることはせいぜい自分の好きな時に、己の命を断てるだけ!終わりの権限しか与えられずに、何か自分の命か!なにが唯一の自由であるか!」
エルバベインの虎の、鼓膜が簡単に白旗を上げて破れるような大声に、琵琶猫の大将は、臓腑を震え上がらせるしか無かった。
「しかし、それでは自分の心はどうなのか、心の中だけでなら、いくらでも自由に好きなことを描けるだろう」
琵琶猫の大将は、霰のように降ってくる箒星の音に怯える子鼠の情けない声で、言った。
「莫迦ものめ!お前の頭がその程度なら、人間の書物や獣の長達の話など聞かずに、お前の眷属達のように白痴に戻って夕日でも眺めていた方が、よほどましであろうなぁ!」
エルバベインの虎の、この物のいいように、琵琶猫の大将は何も言い返せなかった。
実際、普通の琵琶猫たちは、自然の氣精がそのまま大きな猫の形をとっているだけのようなもので、触れる肉体もなければ、脳もない、自由気まま、考えて行動する必要など、微塵もありはしない存在だった。
「お前は、自分の頭で考え、自分の心で感じたことを自分の言葉で出力していると勘違いしているだけだ。お前の体のどころを探しても、芽生えた心や自意識などありはしない、脳みそはただの臓器だ。」
「五感を束ねる頭の天辺に脳みそが入っているから、そんな気がするだけさ、お前達は脳みそがあるべき場所に胃袋が入っていても、胃袋でものを考えていると勘違いするだけだ」
「お前の体どころか、この世のどこを探しても、お前の意識が正しく、丁重に宝箱の中のように収まっているべき場所など、ありはしない」
気の毒な琵琶猫の大将は、干上がった川で情けなく口をぱくぱくしている鯉のように、しているしか無かった。
「実際のところ、お前達のくだらん考え事や意識は、食物の残り滓のように、排出されるのを眺めているだけなのだ」
「思考が糞同然なのならば、一体糞はどこから来る?自分の体の中からか?いやいや、食べたものから出来上がるのか?その食べたものは、元々外界から自分の体に取り入れたものだ、それらも土や水やら陽の光からできて、土も元々は死骸や糞からできあがったというけったいなものだ。」
「それで、糞同然のお前の思考は、一体どこからやってきた?それらを垂れ流してくれる源の自意識は?」
琵琶猫の大将は、ぼんやりとした頭と虚ろな目で、死が重なり合ってできた地層を眺めているしか無かった。
「心も、体と同じように自分のいいなりになったことが一度としてあるか?心の底から、怒りと悲しみを完全に自分の配下に置いた事があるか?嬉しさも楽しさも永遠に自分の傍にいてくれたことがあったか?その他の児戯にも等しい感情らに、手網をつけて自分のものにできるとでも思った事が一度でもあったか?」
エルバベインの虎は、瞳の中の瞳孔でだけ嗤った顔で、おぞましく言った。
「お前らの思考も、感情も、存在も、全て流れる雲と一緒よ、雲を素手で捕まえられるか?体から出る糞を我慢出来るか?目に見えて触れられるものだろうが、己の知覚に頼って存在を認められるものだろうが、この世に存在している全ては、水の上の落ち葉のように、眺めているしか出来ないのではないか?」
「己の内から湧き出ていると勘違いしているだけで、お前らから発された事はなんでも、外界の影響から与えられ、そこから派生したものでしかないのじゃないかね」
そこまで虎が言って、ようやく琵琶猫の大将は口を開いた。
「お前は、お前はいつでもそんなぞっとする事を考えているのか・・・?」
エルバベインの虎は、何回懇切丁寧に教えても、大事なところを間違えて覚えてくる幼児を窘めるような顔で、こう言った。
「心だろうが体だろうが、外界の影響で容易く病むそれらに自分と存在を同一視して、それらに一切の疑問を持たずに過ごしているお前らの方が、よっぽど私はぞっとするよ」
琵琶猫の大将は、目の前のこの獣が、世界で一番恐ろしい存在だと、心の底から思った。
谷底が濃霧を一気に送り出すように、この虎が腹の底の吐息と共に吐き出したものは、琵琶猫の大将の限りある心の中では受け止めきれないものであった。星と同じ大きさの硝子の器に、宇宙の骨髄液をなみなみと注ぐのと同じくらいに。
同時に、エルバベインの虎の主張は物凄い重圧を絡ませた矛盾を孕んでいた。
エルバベインの虎の申すところも、また外界からの影響の子らであり、水晶にあてられた音叉が鳴るだけであり、己の中にただ一つあったはずの銀の音叉は、一度として自分から音を出したことなどないのである。
この虎は、これほどの重苦しい矛盾をその身に乗せながら、平然と酒を飲んだくれて、だらしのない輩と同じようにして、日々をくらしているのだ。
それは天性の才能のように、果てしない己の中の宇宙に思いを馳せる時と、食べかすを楊枝でこそぎ落とす時は、全く別人の心のように、昼と晩のように、自然と切り替えが行われているのか、それともエルバベインの虎の度量は、凡夫が気づきもしない事実を突きつけられても、発狂も戯言であるとするのか。
それともそもそもこの世の全ては、全て受け流れる、些細な事に過ぎないと、気にもとめないだけなのか、琵琶猫の大将の矮小な頭脳では、皆目見当もつかなかった。
もしかすると、その虎の逃げ水から蒸発した靄と同じような心の中では、その全ての行われているかもしれなかった。
エルバベインの虎の、瞳の中の瞳孔はこの世の何よりも暗く、冥く、我々よりも頭脳も発達した高等な生き物が誕生して、大樹の年輪と同じくらいの辞典から言葉を語彙を導き出しても足りないような、言いようのない色を、讃えていた。
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