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『自家中毒の天使』

男は、何もかにも疲れ果てていた。
端正な顔立ちでも、かといって下卑た造形でもなく、普通の顔立ちにやつれた表情をさせた男は、誰も来ない路地裏の壁に寄りかかって、仕方なく煙草を咥えていた。
どこかの子供がした悪戯だろうか、壁のよく分からない落書きの線に、タバコの煙が沿って上がっていく。
男の目の先には、まだ少しだけ青い空に橙のベールをかけてのしかかっている夕陽がある。男の気分も、黄昏そのものだった。
男は、やることなすこと全て中途半端だった。
大昔に印度に生まれた覚者は、中道を行けと説いたそうだが、男にとってのそれは全てに満ちていて、普通である事を喜ぶ余裕も、無かった。
男にとって、この世は人生をかけてまで夢中になってうちこめる事がある訳でもない、逆に全てに絶望して死ぬ程の勇気がある訳でも無い。
可もなく不可もなく、何かしら興味が湧いたものをやってみても、何か違う。違和感を抱く。
これは自分の人生も、命も、心も満たしてくれるものではない。
やりかけたものを投げ出しても、納得がいかないまま続けても、次第に全てが辛いものと化す。
男は、既に人生に、この世界の全てに飽き飽きしていた。
煙草の煙が肺を満たすように、男のどうしようもない思いも、常に心を満たしている。
「……のう、あのう、もし、そこのお方」
男は最初、てっきり自分の疲れ切った心が捕らえた幻聴かと思った。
が、あまりにはっきり聞き取れるので、思わず顔を上げた。
目の前に、太った溝鼠を思わせる老人が立っていた。
いや、老人と言っていいのだろうか、風貌はまさしく、歳をとった男なのだが。
老人は夕日を背にしながら、こちらに向いているので、逆光で詳しい面立ちは分からない。ギラギラとしている目ばかりが目立つ。
その目には、まさに鼠のような野生の生命力、ある種の意地汚なさが宿っていた。
同年代と比べると、恐ろしいほど姿勢もいい。腰が少しばかり曲がっていてもおかしくない年齢に見えるのに、その様子は微塵もない。
なんとも形容しがたい、不自然な頑強さが、老人の体には宿っていた。
「いやはや、なんとも貴方様は、全てに憔悴しきって、小指ひとつ動かすのも、億劫なようですな」
男は、夕闇が自分に話しかけてきたように思えた。
やはり自分で作りだした幻か、男は自分の耳を塞ごうとした。
「ははぁ……。そうやって全てから、自分を閉ざしているのですか、お辛いのも当たり前ですねぇ。」
男はますます、老人の耳障りな声が嫌になった。
「まぁこれも何かのご縁でしょう。どうですアタシの店の商品をご覧になっては?」
幻覚にしては、いやに喋る。それどころか、なんだ……店?
「はい、このアタシがですね、世界中から見つけたきた、不可思議な商品をご覧になれば、貴方様も浮世の憂さ晴らしに、丁度いいかと思いまして」
男はやっと、目の前の喋る老人の像が、世間に摺れた自分の心が映し出した幻ではなくて、正真正銘、本物の他人だと見抜いた。
「そこの角を曲がればすぐですよ、どうです」
男は、全てがどうでも良くなっていたはずなのだが、老人が口に出した「不可思議な商品」という言葉が、何故だか気になってしょうがない。
「なぁに、見ればすぐに分かりますよ、あぁ閉店時間なんて、お気になさらず。趣味でやっているようなものですから」
聞いてもいないことを勝手にペラペラ喋る老人に、どう口を挟んだものだか、と男は少し戸惑った。が、男が立ち上がったのを見て老人は、同意とみなしたのか、今度はこっちに背を向けて歩き出した。
老人の言った通り、その店は男が座っていた所から、すぐ近くの角を曲がったところにあった。

店の外観は、いかにもなアンティークショップだった。偏屈でこだわりが強い骨董趣味の大人や、人より変わったものが好きというアイデンティティを売りにしている女の子が食いつきそうな、そんな感じの。
しかし、立派なショーウィンドウがあるというのに、一枚の硝子の向こうには、(男の月収と比べて)ゼロの数がおかしい値札しかなく、品物はひとつも置いていない。
男は、一瞬店主であるこの老人が、値札に売り切れ、とか例の文句を書き忘れたのだろうと思った。
「あぁ、それはですね霜の花なのです。冷えると花を形作る気体が、そこに満ちているのですよ」
男は、あぁこの老人こそ、独り身の寂しさのあまり浮世の憂さ晴らしをしているのだ、と思った。
それかきっと見た目の割に頭に少々痴呆が入っていて、幼い頃の記憶が蘇り、その時していたごっこ遊びを楽しんでいるのだろう。
男は、いつかの本で見た痴呆症の患者が、幼児退行を起こして、幼い頃の生家に帰ろうとしてそのまま行方不明になってしまった、というのを思い出した。
それならば、この寂しい老人のままごとに付き合ってやるのも、一興だ、と思った。
「さぁ、どうぞ見ていって下さいませ」
カラン……。目の前で老人が呼び鈴付きのドアを開け、そのまま男を招き入れるように、主人に対する執事がそうするように、手で店の中を示した。
男は、怪しい世界に入り込んだような錯覚をした。

「こちらです、冷えた外にいたのですから、まず熱いお茶をどうぞ」
老人に案内されて、男は店の真ん中の丸テーブル近くの椅子に座った。
老人は、取っ手付きの銀の盆に、何やら仰々しいティーセットを乗せて、男のいる丸テーブルまでやってきた。
ティーセットは、誰が見ても高級だと分かるような、繊細な花やら小動物が描かれた、時代を帯びた陶器だ。
それどころか、スプーンやティーストレーナーに至るまで、本物の銀でドワーフの職人が丹精込めてつくりあげたように、素晴らしい模様のドレスを纏っていた。
それに詳しくない男から見ても、これらはとても高いものだと、ひと目でわかった。
本当のところ、古美術収集家達が見たら、ひっくり帰ってしまうシロモノばかりだった。
老人は、ひどく手馴れた手つきで、緩やかな動きでお茶を入れる。手だけ見ればそれこそ、本物の執事のような。
男は、こんなに丁寧にお茶を入れて貰う経験がなかったため、少し場違いだと感じたが、老人の動作を見ている内に、本当に自分がどこぞの御曹司にでもなってしまったのではないか、と思った。
「さ、お気に召すとよろしいのですが」
ティーカップの中身は、とろりとした夕日をそのまま溶かしたような色の紅茶だった。
情景に凝る詩人ならば、水面に映る夕日をカップで掬い、このテーブルに持ってきたようだ、と言うだろう。
紅茶からは、液体の茶色、紅茶特有の甘い匂いに混ざって、橙の花、金木犀の香りが漂ってくる。
おそらく砂糖漬けにされているものを、これに混ぜ込んだのだろう。
男は、この紅茶を口にするにはなにやら自分も、きちんとマナーを守らねばならない気がして、慎重な手つきでカップの持ち手をつまんだ。
一口飲んだけで、体中に夢心地が訪れた。
美女に化け、人を誑かし食らう魔物の部屋に、満ちている香の塊をそのまま飲んでしまったようだ。
これ程ふくよかで甘い味と香りに包まれて、死ねるのならば、最早本望である。
阿片の夜にくらくらとする酔芙蓉のような、柘榴石の粒に惑う塒(ねぐら)の竜のような……。
それに加えて、男は紅茶の色でさっきの夕日を思い出し、この世でたったひとつの太陽が、自分の体にだけ活力を与えてくれたようで、何故だか心強い思いもした。
「さぁて、どれからご覧になられますかな?」
しわがれた老人の声で、現実に引き戻された男は、寝起きの微睡みを体験した時のように、少しだけ惜しい思いがした。
こうやって向かい合ってみると、目の前の老人は、この島国生まれではないことは人目でわかった。
彫りの深い目付きに、鷲鼻。
皺だらけの手は、爪が伸び放題で、そこかしこに出来物があるのが分かる。先程も太った溝鼠と感じたが、確かに小太りな腹に比べて、手足はすこし痩せているように感じる。おまけに上下とも黒い出で立ちで、全体の雰囲気は、まるで不気味な死の商人のようだ。
「さっきも言いましたが、この店には、アタシが世界中からかき集めた可愛い品物達がどっさりいますからね、全て見て回るには、もう時間が遅すぎる」
男は、何も言わずに老人の一人芝居を眺めた。
「ならば、このアタシが一等素晴らしいと感じているものを、順に紹介していきましょう。もちろん、お楽しみは、一番最後でね、ヒヒッ」
老人が笑うと、いよいよ目の前に薄汚い大きな溝鼠が笑っているように思えた。

「これは、鯨の喉仏にあたる玉でございますよ」
老人の、ポケットから取り出された(黒すぎて、ポケットどころか口の切れ込みも確認できなかった。男は一瞬、老人の手が無くなったようで、ギョッとした。)玉は、占い師がよく使うような水晶玉と同じくらいの大きさで、色はよくある青いビー玉に似ていた。
「貴方、鯨の鳴き声を聞いたことはおありですかな?あれは耳にすると、中々のもんですよ。なんというか、全ての悲しみを嘆いているような、こころの深い深いところに到達するような……。胎児の頃の記憶があれば、母親の胎内の羊水が巡る音にそっくりと、いいますがね」
「その鳴き声というか、歌声といいますか、それはこの玉が喉に正しく納まって、始めて発せられるのです。貴方、水晶が振動を起こすと高い周波数が出るのはご存知ですかな?この玉もそのようにして、鯨の筋肉から……」
男は、この老人は、こんな辺鄙なところで、こんな可笑しな店をやらずに、暇つぶしに物書きにでもなった方が、余程マシなのではないか、と感じた。
「ふゥむ、これはお気に召さないようですな」
男が、なんとも反応しないのを確認した老人は、今度は玉を元のポケットには戻さず、テーブル近くの棚に置いてある台座に、そうっと乗せた。
「しかし、あの玉を取り出すのは中々苦労がいるのですよ?あの玉同士は、近くに置くと共鳴して、特殊な音波を発するのですが、あぁそれが生きている鯨がやれば婚姻印となるのですが……。要するにですね、浜辺に打ち上げられた鯨の死骸に、この玉を近づけて、鳴るのを調べるのです。鳴れば、その鯨に玉があるのが分かるのですから、あとはまぁ地道な作業でな。ヒヒッ」
男は、孤独な老人の妄想だとわかっていても、鯨のどろどろに腐敗した肉と皮と、脆くなった骨を掻き分けて、この玉を取るのを想像してしまい、胃の内容物がせり上がってくる心地を覚えた。
おかげで、先程紅茶を飲んだ時の高揚とした気分は全て掻き消されてしまった。
「さて、お次は、これはどうでしょう?」
言いながら老人は、店の奥、ごちゃごちゃと変な品物が置いてあるところへ向かった。乱雑と並ぶ商品をかき分け、砂埃を巻笑げながら、何かを探す。
男は、勘弁してくれと感じながら手で繊細な己の鼻と口を、砂埃から守る。
さっき、せり上がってきた胃酸のせいで、まだ喉元がぴりぴりとする。もう一杯紅茶が欲しいところだが、当の主は砂埃と格闘している。
いや、すでにあたり一帯に蔓延した砂塵のせいで、ティーポットの中身も台無しだろう。
男が、唾を流してぴりぴりとした感じを誤魔化そうとしていたら、老人が茶色で四角い物を、重量を感じる手つきで、持ってきた。
「はぁ、はぁ、これは、この世に実在しない人間の日記を勝手に綴るタイプライターでございます。あぁ、実在しないといっても、既に死んでいる人間という訳ではありません。元々本当に実在しないのです。」
男は、老人がテーブルに置いた、ガラクタ山からの掘り出し物を見つめた。
てっきり茶色だと思っていたそれは、埃が積もり積もっていたせいで、老人の手の痕がついたところからは、黒い塗装が覗いている。
かなりの年代物で、立派なタイプライターのようだ。
「しばしお待ちを」
自分のハンカチで手を拭った老人は、どこから持ってきたのか、白鳥かなにかの鳥の羽でできたボリューミーなハタキで、全ての埃を払おうとした。 男は、また慌てて鼻と口をおさえた。
全ての黒い塗装が見えるようになると、老人は満足した顔でハタキを置き、今度は何やらタイプライターについている、似つかわしくないゼンマイを回した。そして、用紙をセットするとなんと自動で動き出した。
ちっちっと小さい音を立てながら、キーボードが押されたようにへこみ、何かの文章を打ち込む。
それを何回も繰り返して、一つの文が組み立ち、用紙の端までやってきたら、それも自動に、お馴染みのチン!という軽快な音と共に、行がずらされ、
また下に新たな文章が刻まれる。
男は、最初少しだけびっくりしたが、なんのことは無い、このタイプライターが発明される前の時代から、全自動で動き出す人形もあったのだ。
オートマータと呼ばれていたそれは、字を書き、チェスを打つという人の模倣ばかりだけではなく、なんと自分で餌を食べ、飲み込んで排泄までするアヒルの人形もあったという。
日本にも茶運び人形を筆頭に、占いをしてくれるものまである。
それと比べれば、目の前の機会のなんと陳腐な事。
人形の造形を含め、一から複雑な動作をこなす絡繰機構を設計しているだけ、自動人形の方に軍配が上がる。元の機械の上に、自動で一定の文章を書きあげる細工をこなす方が、とても優しいだろう。
もちろん、キーボードに記されているのはアルファベットで、書きあがる文章も英語のものだ。
しかし、英語も人並みに読み書き出来る男には、難問ではなかった。
チン!と最後の音がして、いよいよありもしないという日記の一枚のページが出来上がると、さらりとした動作で老人は、男に差し出した。
「1998年、6月9日、今日は雨、教会の墓地巡りをしていたら、黒い犬に追いかけ回された。おばあちゃんに、ブラックドックを怒らすなんて!って言われたけれど、僕はただの、毛が黒いだけの番犬だと思う。……そうだよね?」
「6月10日、今日は晴れ、隣の太ったおばさんの染みの着いた下着が水たまりに落ちていた。僕は知らんぷりしていたけど、多分おばさんはまた洗って綺麗にするだろう。あんなに汚いんだから、もう捨てればいいのに、ケチだって噂は本当みたい」
「 6月15日、テスト勉強のせいで、日記を書くのをすっかり忘れてしまっていた。ジェニー先生は本当に神経質で嫌な奴。店で僕のお小遣いでも買えるような飴玉を、テストの上位点数者に配って、〔ご褒美が貰えなくて残念がっても、これが君たちの実力だ〕だって、どうしたらそこまで最低な人間になれるんだろ。」
一通り読んで、これは少しばかり背伸びをした、男の子の日記だな、と思った。思春期によくある自分は賢くて、世間は馬鹿しかいないと本当に思っているような。それこそ、児童文学でよくあるような冒頭の書き出しの雰囲気を感じる。
「この日記ではご不満ですかな?では、南米の遺跡発掘員のものでもー」
老人は、そう言いながら、側面のゼンマイ近くのボタンをなにやら色々いじって、「この世に存在していない」新しいページを作ろうとした。
男は、ははあ、そうやって設定をして、書き出す文章が変わるのだな、と一人で納得し、もう十分だ、と老人の動作を、手で制した。
「これも、お気に召されない?……となると今度はあれですかな?」
その後も、老人の長ったらしい商品のデモンストレーションは続いた。
碧瑠璃嬢の扇、龍王の娘で、世にも稀な美貌を持つ化生である碧瑠璃嬢の一枚の鱗を、そのまま使った扇で、扇げばたちどころに大滝のような雨を降らすという。
有名な時計塔の前で、人死が出ると必ず花を咲かせるという時計草、もちろんただの時計草だろう。仮に本物だとしても、確認の仕様がない。
有名な時計塔と言われても、魔術の国、英国のグリニッジ天文台の他に、錬金術師の街と言われるプラハにあるもの、その他にも世界中に、いくらでもある。人なんて、世界中で毎秒、蟻のように生まれて死んでいるのだ、本当にどこかの時計塔の前で人が死んだ時に開花したとしても、偶然の範疇を出ない。
命の熱を食らう翡翠の腕輪、腕に通したものの体のの熱を少しずつ食らって、美しい鴗のような輝きを増すという。しまいには、持ち主の鼓動の熱まで奪って、殺してしまうらしい。たしかに触ると死神に触れたように、酷くひんやりとしている。
が、石でできているものが、冷たいのは至極当たり前である。猫の腹を触った時のような温かさがあった方が、逆に不気味だ。
骨珊瑚の実、おそらくこれは、老人かほかの作家の創作物だろう。
皮が腐れて、筋ばかりになり、亡霊が持つ提灯のようになった鬼灯の実の中に、小さな真珠光沢を帯びた、沢山の骸骨形の粒が、魚の卵のようにひしめき合っている。
しかし、老人が次に紹介したのは、たとえ作り物だとしても、男の掠れた気持ちを少しだけ、揺り動かした。
「こちらは、亜細亜のとある王国に伝わっているものを譲り受けて、頂いたものです」
枯れ果て、種子(しゅし)が抜け落ちた蓮の花杯(かたく)の中から、なんとも見事な、血涙のような赤い曼珠沙華が、何本も咲いている。
蓮と、曼珠沙華、どちらも彼岸の向こうを表す花であるが、目の前の作品はまるで極楽の上に地獄が乗っている有様だ。
ちょうど、金色の雲の上に、紺碧色の髪と目玉、雲と同じ黄金色の体を持つ菩薩が、すっぽりと納まって、ひとつの仏画を為すように、なんとも絶妙なバランスをもって、一つの手向けの花のようになっている。
老人は、これは何やら男の琴線に触れたようだ、と分かり、満足した顔をしながら近くの大きな花瓶を持ってきて、男が存分に見れるようにそのまま置いてくれた。
「こちらにまつわる逸話も、なんとも妙な味でしてな……」
男は、未だにひとつの花を見つめていたが、構わず老人は語りだした。
「雷を受けた木の、幹の割れ目から滴った樹液と、雨水が混ざり 、その甘露が、種子(たねご)がおさまっていた穴の中に長い年月をかけて溜まり、時季になるとハチドリの群生がやって来て、それで喉を潤すのだそうです。そのハチドリ達が、礼として曼珠沙華の種を、甘露の盃となった穴に落とし、咲いたものなのだとか。これを譲り受けた王国では、その近くにあった、雷を受けた木の枝で、当代の王の杖を作るのらしいですよ、いやはやなんとも……美しい物語でございましょう?」
男は、始めてこの老人の語り節を、褒めたくなるような気分になった。
いくら植物に詳しくなくとも、曼珠沙華、もとい彼岸花が、種ではなく球根から咲くものだというものは、常識までとはいかなくとも、そこそこ知っているものである。
いや、本当のところは種も存在しているし、それからでも彼岸花は咲くのだが、開花率は、球根と比べたら塵芥のようなものだ。
仮に芽吹いたとしても、そのあとの管理も難しい。
ましてや、ハチドリが咥えて持ってくるなど。
だから、やはりこれは枯れた花托の穴の中に、切った彼岸花を挿して、何かしら枯れないような処理を施して……
ここまで考えて、男はいや造花だろうか、と勘ぐった。それならば余計に見事だ。
量産品では、ここまで細やかな造花は見られない。
男がなにやら考え込んでいるのを知ってか知らずか、老人はまたあの鼠のような笑い声を出しながら、今度は平べったい箱を持ってきた。
「さあ、こちらの商品もいかがですかな?」
絵の具やパレットの収納に使うような、横に長い箱を開けると、そこには律動している、何だかよくわからない赤い固まりがあった。
塊には、人間のそれと同じように気色の悪い血脈が通っており……よく見るとそれは、心臓であった。
似ているのは色だけで、人間にあるはずの動脈や静脈の管が見られない。
形も見慣れないものだ。
たが男は、まるで自分の心臓が抜き取られて、箱に収められているような感覚がした。
「こちらは、リャナンシーの心臓。どんな媒体の作品でも、これをひとたび飲み込めば、アイディアが頭から入力され、手で目に見える作品の形として、出力されます。
……ご存知ありませんか?詩人にしか寄り付かない性質を持った妖精で、心臓だけにすることでどの創作を行う作家にも服用できるようになったのです。
が、詩人の魂と引きかけえに才能を与えるという性質を抜く事は出来なかったので、一度飲み込んだら最後、服用したものの命を蝕む副作用はありますが」
男の頭の中にある常識というものが、砂の城がさらさらと音を立てて崩れていくように、意味をなさなくなっていく感覚を味わった。
今の医学の技術力で、人工の臓器が出来るのは、男も耳にしている。しかし、やはりそれは本来体の中にあるものほど、働ける訳じゃない。
それに、それを作るのは清潔な研究室の中であり、なになら意味のわからない液体につけられて、人工の管に繋がれて始めて動くものだ。
しかし、目の前の妖精のものだと言われる小さな心臓は、木製の箱に入れられているだけなのに、男の鼓動と同じかそれより少し早い位の、一定のリズムで、休みなく勤勉に動いている。
その様子は、忙しなく動く小動物のようだ。
それでも、男は、未だ此岸の岸辺にしがみついている亡者のように、そんな事は有り得ない、と目の前の光景を否定するしかない。
きっと箱の中にポンプが仕込んであり、それで空気を送って、心臓のように見せかけた風船を膨らませているのだ。
……そうだとしても、目の前の心臓は、本当に生々しい。血の通った生き物の、生臭い香りまで漂ってきそうだ。男の額から、嫌な脂汗が湧き出てきた。
「ヒ、ヒ、少しこれは悪趣味でしたかねぇ?」
男の様子を楽しむようにして、老人は箱をそっと畳んだ。
「それでは、こちらで最後になるのですが……」
老人は、ガラクタ置き場と化している店の奥へ歩いて、また何やら不思議なものを持ってくるのか、と思ったが、今度は男に手招きしている。
男は、自分のうるさい心臓の音を聞きながら、仕方なく老人のあとを追った。
ガラクタの山を越えたところに、もう一枚ドアがあった。どうやら店にはもう一部屋あるらしい。
しかし、外側から見て、この店はそれほど大きかっただろうか。
男は、考えても仕方ないことから思考を戻し、目の前のドアを観察した。
なんと、全て硝子で出来ている。それに模様も美麗だ。しかし、なんだかこの模様は何だか見覚えがある。
そこまで考えて、男はこのドアそのものが、小さなステンドグラスを模してあるものだと気づいた。
老人は、ステンドグラスのドアを開ける鍵を探すのに手間取っているのか、何回も体のあちこちに手を回している。
ポケットの中から取り出した鍵束もがちゃがちゃ言わせているが、どうやらその中にもないようだ。
このドアだけは、なんとも浮いている、というかこの店には相応しくない。
男は独りごちた。
老人の趣味かとおもったが、どちらかというと悪魔に生贄を捧げる方が似合うだろう。
「さぁ参りますよ」
老人の手には、光り輝く金の鍵があった。ようやく見つけたらしい。
かちゃり、と子気味良い音がして、鍵と組み合わさった錠が開いた。
男は、禁じられた開かずの間に向かうのような気持ちで、天の光に護られている聖者や聖母が描かれているドアをくぐった。

ステンドグラスのドアの向こうは、白い別世界だった。
床も壁も、カーテンに至るまで何もかもが白く、その他の色は、何も確認できない。
その部屋の真ん中に、これまた硝子でできた大きいテーブルが置いてある。
四角い板を、硝子の猫足で支えた家具の上に、なにやら家の模型のようなものが置いてあった。
さしずめ、硝子宮の温室、と言ったところだろうか。
ヴィクトリア朝の英国で、羊歯を育てるのが流行った時に、ウォードの箱と言う硝子でできた入れ物が持て囃された。その温室代わりの箱の中で、羊歯や他の植物を育てるのだ。その箱と、小さい人形の家が混ざったような形のものが、テーブルの上に置いてある。
小さなクリスタル・パレスの近くには、人間サイズの望遠鏡のようなものがセットしてある。
望遠鏡は、水晶を切り出して作ったもののようで、天の女神持ち物のように光り輝いている。
それから、まるでそこからでしか見えないものがあるように、銀の留め具で硝子の机に固定されいた。
「さぁ、この穴から覗いてみて下さいませ」
男は、幼い頃に初めて万華鏡の中を覗いて、無限に続く鏡の世界に迷い込んだ時の気持ちを思い出しながら、水晶のレンズの中に瞳を預けた。

白い世界の中では、少年とも少女ともつかない美麗な子供が、シーツの上で微熱に苦しんでいた。
男はそれを見て、最初この望遠鏡のレンズの中に、動く絵のようなものが仕掛けられているのだ、と思った。
一応、確認のために望遠鏡が指し示しているだろう部屋の場所を肉眼でも観察したが、子供どころか人形サイズのベッドも無い。もっというと硝子の家の中には、何も置いてあるものは無いのだ。
男は、もう一度覗き魔になって、子供の様子を丹念に見た。
さらさらとした金髪は汗でべっとりと額に張り付き、荒い息をして、小さな胸を上下に動かしている。
子供の顔は、瞼も唇も耳も鼻も睫毛の先に至るまで、神が丹念に時間をかけて造形した人形のような、美しさだった。水晶レンズの範囲では見えないが、きっと手足の爪も一枚一枚丁寧に貼り付けられたものに違いない。
睫毛どころか、まだ弱いであろう肌に生えている産毛までが金色で、そのせいで顔全体が、甘い薔薇の香りに酔った朧月のように、ぼんやりと光っているように見える。
男は、稚児趣味などもっぱらなかったが、この人間離れした美しい子供が、苦しんでいるのを見ると、なぜだか目が離せなかった。
それどころか、子供の小さな額の丘から流れてくる汗の粒が、まるで天上の柘榴のように思えてきて、舐め取りたいような、変な気持ちになった。
これまでは、俗に言う変態趣味の貴族の気持ちなど全然わからなかったが、このような色気を持つ子供の喘ぎを見たら、分からなくもないな、と自分でも納得してしまった。
男は、時間が許すまで白銀と水晶硝子の世界に浸りたかったが、すぐ横から老人の声が聞こえていた。
「この天使は、自家中毒にかかったのです。
いえ、気体エーテルが凝縮して出来た天使の体に、人間の体と同じような、体内の巡りがある訳では無いのですがね。」
天使……。店主のその言葉に男はひどく納得してしまった。
なるほど、天使であればこれだけ美しいのも無理はない。けれども、なぜこの天使はこんなにも苦しんでいるのだろうか、この様子は、天の使いという名前に、およそ似つかわしくない。
「この天使は、哀れな境遇で生まれ、満足に生きられず、吐き捨てられるように死んだ人の子の魂を天に召し上げよ、と神に命じられたのですが、その任務を忠実にこなす度に、人の世の荒む事を目にする度に、人以上に心を痛め、そして病んでしまったのです。」
男は、神がいるのならば自分のこの人生も訴えれば変わるのだろうか、と思った。
「 その天使の名前は、真砂(まさご)と名付けました。 アタシが、この逸品を見つけた時、きめの細かい星砂が混じった砂浜で、のたうち回っていましたのでね。 」
老人は、そのまま語り続ける。
「いやぁ、この天使がこれ以上弱らないように色々整えるのに苦労しました。何しろ、相手は天使ですからね、小さな虫の殺生でさえも嫌いますから、絹のシーツでは駄目なのです。綿織物ならば、なんとか大丈夫だったので助かりましたが」
男は、老人の語り口にもはや感嘆の息を漏らしていた。
「……アタシはね、こんな業の深い商売を始める前は、もっと普通の顔立ちだったんですよ。」
男は、業の深いという言葉に一体何が当て嵌るのか分からなかった。
「いやね、世界中を渡り歩いてきて、色んな品物を大金で買ったり、それ以上に価値があると思われるものを持ち主に渡して、原始的な物々交換でここにあるだけの品物を揃えたのですが……。」
「 元から物凄い念を内包している品物も少なくありませんし、持ち主が相場に納得したと見せかけて、品物に呪いをかけたままアタシに渡す事も多いのです。そうして、少しずつ恨みや呪いを受けまして、こんな形相になってしまったんですよ」
きっとこの老人は、このような物語を作って自分の醜い顔が鏡に移る度に、それを心にいいきかせて、慰めているのだろう、やはり自分が最初に感じていた事は当たりだったのだ。
男は、そうして自分の中で結論を出した。
男は、帰りに店のドアを鳴らすまでここにある品物達が全部、孤独な老人の創作話の種である、と思っていた。
「貴方が、この愛らしい品物達を見て、一体何を感じ取ったかなどと無粋な事は聞きませんが、一時でも浮世を忘れて、楽しんで頂けたのなら、幸いでございます」
男は、帰りに無性にまたあの夕日を見たくなった。同時に、心の中に紅茶を飲んだ時の夢見心地を思い出す。
店の窓からも、既に辺りは夕暮れ時ではなく、魔物が跋扈しそうな濃い夜になっていたのを確認できたのだけれど、なんだか一直線に家に帰るのが惜しいような気がして、もう一度来た角を曲がろうとした。
その時、酷い立ちくらみがして、体にクラっとした衝撃を受けたまま、よろよろと壁にもたれかかってしまった。地面が揺れている錯覚に、三半規管が騙されて、吐き気までする。
男は、目を閉じて視覚の情報を脳に送らないようにした。脳にかかる負荷を少なくした方が、症状が収まると思ったのだ。しかし、なにか体にのしかかってくるような感覚が強く、地面に伏せったまま、失神してしまった。
男が目覚めると、顔見知りの夕日が目の前にあった。すっと立ちあがり、あたりを確認すると時が、暗闇から夕闇に巻き戻ったようになっていた。
男は、いてもたってもいられず、自分の鼓動に急かされ、あの店があった方向へ走った。
あの老人の店は、なくなっていた。
店のあった場所は、普通の家になっていて、玄関近くには表札も見えた。
男の脳みそに、目眩がぶり返して来た。
俺は、一体今まで何をしていたんだろう?
あの店も、老人も、不思議な商品も全部俺の夢だったのだろうか?
男は、自分の心に浮かんだ質問の答えを誰も返してくれないと分かっていながらも、それをずっと頭のなかで反芻していた。
遠くで、男が目覚めるまでの夜には、巣に帰っていたであろう鴉が、仲間を帰還するように高い呼び声を出しているのが聞こえた。
カァー、カァー、と少し濁声が混ざった高い鳴き声は、いつまでもいつまでも、男の耳の中にこだました。

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