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ショートな物語『雪で煙る夜』

ワイパーが忙しくフロントガラスを愛撫し続けていた。そんな雪が降りやまぬ夜、ぼくは新潟に帰省するために車を走らせていた。去年から神奈川県にある会社で仕事をはじめて、その会社が正月休みに入り、あともう五分くらいで実家にたどりつく頃だった。

自宅まえの公園を通ると、白いセーターを着た女性が手をあげているのがみえた。その女性のまわりには粉雪が渦を巻き、女性を優しく守っているかのようにみえた。
 
なにかトラブルなのだろうか? とにかくぼくは車を停め、ドアをあけると、女性はつばの広い帽子をかぶり、うつむき加減に立っていた。顔はよくみえないが、ぼくとおなじ二十代前半くらいのようだ。

「どうかした?」

「いいえ、あなたを待っていたんです。あなた、吉原義男さんでしょ?」
 
どこかで聞いたことのある声だ。低音で優しげな声。なぜか懐かしさでいっぱいになる。

「どうしてぼくがこの車に乗っていると、それになんでぼくの名前を知ってるの?」

「私、中山香奈の友達だったんです。香奈が写した写真のなかに、あなたがこの車に乗っているものがあったし、昨夜、この時間にあなたが通る夢のようなものをみたんです」 

「えっ、香奈の……、と、とにかく、雪も降っているからあなたを家まで送りながら話を聞きますよ」

「それでは、荒井浜までお願いできますか?」
 
荒井浜はぼくの生誕の地だ。今のところに引っ越した後もよく香奈とよく海をみにいったっけ。ぼくはぐいっとアクセルを踏んだ。

「ところで、彼女は、香奈は今でも元気にしていますか?」

「香奈は、香奈は……、先月、事故で亡くなりました」
 
動揺したぼくは急ブレーキを踏んでしまい、後続車のことを思い、とっさに車を左に寄せた。
 
雪が落下傘のようにつぎからつぎへと降りてくる。ワイパーの届くところ以外は白い雪で覆われていた。
 
ぼくは気をとりなおして車を発進させた。今夜はなぜかハンドルがやたらと重く感じる。

「すいません。つい、動揺してしまって」

「いいんです。吉原さんも、香奈のことを忘れずにいてくれたのね。香奈はずっとあなたに逢いたがっていたわ……」
 
どうにも涙があふれてとまらなかった。まだ、二十二歳の若さで亡くなったなんて。
 
香奈と別れてから二年。今思えば若さのあまり、自分の気持ちに嘘をつけずに、香奈の思いに応えることができなかった。香奈の望む道を選択することができなかった。でも、あのとき香奈と結ばれるために嘘の言葉を連ねれば、香奈を裏切ることになると、心からそう思っていた。十八歳の頃の六月十日に香奈と出逢い、なんどか別れと再会をくりかえしもしたけれど、そのたびにぼくにとって本当に大切な人は香奈しかいないと痛いほど思い知らされた。

「香奈って、吉原さんのまえではどんな人でした?」
 
つい昨日のことように思える。ぼくは彼女の笑顔がいちばん好きだった。小さな手、愛らしい瞳もなにもかもが好きだった。

「そうですね。頑固で、傷つきやすい人で、いつも香奈に振り回されていましたね。もっと香奈の思いを言葉にして、ぼくに伝えてほしいと思うこともありましたね」

「いいところはなにもなかったんですか?」
 
彼女はちょっと不満げだ。しかし、香奈の好きなところを話したらきりがない。でも、今夜はなんとなく話してみたい。

「だけど、とにかく香奈のすべてをひっくるめて大好きでした。好きになった理由なんて考えたことがありません。ただ、香奈のそばにいると、とっても安らいだ気分になって、とても幸せな気持ちになってくる……、ただそれだけです」
 
ぼくは、涙をふき、車を発進させた。バックミラーに写った彼女は、肩を震わせて泣いているようにみえた。そういえば、香奈も涙もろい人だった。ふたりの心が通い合うほどに、小さな隔たりが、とても大きなものに感じてしまうこともあった。もし、今ここに香奈がいたらなにを話そうか。話すことはたくさんあるのに、逢うと、いつもすっかり忘れてふざけたことばかり話してしまい、香奈の気分を悪くさせてしまうこともあったっけ。 

そろそろ、荒井浜のあたりに来たようだ。黒い波がフロントガラスからみえてきた。

「吉原さん、少しだけ散歩でもしませんか?」
 
ぼくは彼女の申し出を快く受けた。はまなすの丘の駐車場に車を入れて駐車させ、ドアをあけると雪風が小さな渦を巻きながら入ってくる中、彼女はうつむきながら車から外にでていった。
 
夜が雪の舞いで白く煙っていた。彼女の姿と香奈の姿がひとつにみえ、ぼくは香奈の名前を叫びたい衝動を抑えるのに懸命だった。
 
まるで彼女が雪を招いているかのように、彼女の帽子もセーターも雪に包まれて、たちまち細めの雪だるまのようになってしまった。

「義男、ありがとう。これでやっとあっちの世界に逝くことができるよ」

「なに、おまえ、香奈なのか?」
 
顔も白く雪にくるまれて誰なのかよくわからない。

「そうよ。義男のほんとうの思いを聞いたから、もう思い残すことがないよ」
 
ぼくは思わず香奈と名乗る彼女に駆け寄ろうとしたが、道路はアイスバーンになっていて、なんども転げながら、倒れたまま、がむしゃらに彼女の近くまでにじり寄った。
 
倒れたまま彼女の顔を覗きこんだ。確かに香奈だった。忘れもしない、忘れたくても忘れられない香奈の笑顔がそこにあった。

「香奈―っ!」
 
香奈の瞳から涙が一粒流れ、小さな氷の玉となってぼくの顔に滑り落ちた。冷たくはなかった。なぜかほんのり熱い氷の玉だった。
 
ぼくは立ち上がり香奈を強く抱きしめた。すると雪が水しぶきのように飛散して、香奈の姿がかき消えてしまった。

「香奈、香奈、香奈ーっ!」

「義男、ここよ」
 
香奈の声のするほうに目をやると、ぼくの頭のうえあたりに香奈が微笑む顔がみえた。

「香奈……」
 
香奈の顔が悲しげに歪んだ。

「義男。やっと逢えたのに、もうお別れね。私だって死にたくなかったよ。いつかまた義男と逢えることを願っていたんだから。でも、仕方ないよ。さようなら、義男、元気でね。ほんとうにありがとう」
 
香奈の姿がたくさんの雪に包まれてみえなくなっていく。そして少しずつ空のほうへと昇っていった。

「香奈、香奈、香奈ー、行くな、まだ行くなよ。まだたくさん話したいことがあるんだから。香奈ーっ!」
 
空からたくさんの氷の玉が降ってきた。その氷の玉がぼくの顔にさわり溶けていくたびに、香奈との思い出がひとつふたつと思い出されてゆく。まるで、香奈との思い出を凍らせていた塊が、優しく、はかなく、ときめきながら溶け出していくように。

「香奈とはなんどか別れたこともあったけど、いつかの別れのあの日も雪がたくさん降っていたよな。香奈が投げつけた雪の玉をずっと冷蔵庫に入れておいたこともあったっけ。そして再会できた日にその雪玉をみせたら、香奈、涙をためてじっとその雪玉をみていたよな。大好きだよ、世界で香奈だけを愛しているよー! 香奈ーっ!」
 
ぼくが香奈の名を叫ぶと、空から大きな雪の玉が降ってきた。道に落ちた雪の玉をひろい、思わず頬をつけてみた。香奈の香りがするような気がした。
 
空からいくつもの雪たちが舞い降りて、ぼくの手のひらのなかで溶けてゆく。
 
ぼくは胸に手をやりながら車に戻り、嗚咽した。頬をとめどなく流れる熱い涙を、手のひらのワイパーで、なんども、なんども、ぬぐい続けた。
   
        (fin)

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