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世界で一番美しい言葉を残した祖父と、溺愛された祖母が、あのころ生きていたという話

みなさんには、心に残る文章や文章ってありますか?

私には、見た瞬間にギュンって心臓がつかまれたような気持になった文章がある。


祖母を溺愛した祖父の旅立ち



それは、生前の祖父が祖母に向けて残した、一枚のメモ。
何かの景品でもらったような紙の裏に、サラッと書かれた文章。

「ありがとう!最高の人生だった!

先にいって座席を確保しておくから、後からゆっくり来なさい」


そのメモ用紙は、祖父のお葬式お会場の入り口に数枚の写真とともに飾ってあった。



祖父は、大正15年生まれ。

本当に努力家だった祖父。
戦争に行くのを遅らせるためには、とにかく学力が必要だった時代で、今では考えられないくらいの倍率何十倍もの高校受験を突破し、その後も勉学に励み、大学へ進学。

いろいろな奇跡が重なって、戦争を乗り越えることができたのだそう。

スポーツも万能だった祖父は、オリンピック選手候補にも挙がるほどのバレーボール選手だったようで。実際は戦争でオリンピックは無かったのだけれども。

残念ながら孫の私はまだ開花していないものの、とにかく祖父はすごい人だった。

私が物心ついた時には、モモヒキを履いたひょうきんで長身なおじいちゃんだったが、本当はすごい人。



時を戻して…


10代のころの祖父


若かれし祖父がお友達の家に遊びに行ったとき、その家にいた妹が祖母だったそう。

祖父から祖母への一目ぼれ。当時にしては珍しい恋愛結婚だった。



そしてその祖父から祖母への恋愛の気持ちは、子どもができても、孫ができても続いていた。

孫の私達に、昔の祖母の写真を見せては「昔から綺麗やろ~!!」「おばあちゃんは、絵を書いてもダンスをしてもすごいねんで!」

など、久しぶりに会いに行くたびに聞かされ続けた。

祖母はそのたびに「も~」「また言うてはるわぁ~」などとごまかしていましたが、とっても嬉しそうで。



2人の生活になっても、2人はずっとずっと幸せそうだった。

90歳を過ぎたあたりから認知症が進行した祖母。祖父は90を越えても頭はしっかりとしていたので、高齢者住宅で祖母の様子を穏やかにずっと見守っていた。




祖父から祖母へのらラブレター



そんな祖父が亡くなる数年前にちょっとした手術を受ける際、書いたのが冒頭の手紙。

1人のこしていくことになるかもしれない祖母のことがとっても心配だったのだと思う。


この手紙でどんなところに心を奪われたのかというと、

・来世も一緒になろう

・君は長生きするんだよ

という気持が間接的に詰まっているということ。

「先にいって座席を確保しておくから、後からゆっくり来なさい」

この一文で、祖父がこれからもずっとずっと祖母のことを愛しているのが伝わってきた。


お葬式という場ではあったものの、私と夫はあたたかい気持ちになって思わず手紙を写真におさめたのだ。


幸か不幸か、この頃から祖母の認知症の症状はより進行しており、

祖父が亡くなったことはもちろん、祖父が誰なのか、子どもや孫、ひ孫のことは全く分からない様子だった。

お葬式中もよくわかっていないのか、おだやかに座っていた祖母だったのだが、会食の時になって


「あら…。なんでかしら。なんだか知らないけれど涙が溢れてくるのよね…。」


と自然に涙が出てくることに、祖母はおだやかに驚いていた。


心のどこかでは、祖父が亡くなったことを分かっていたのだ。

それでも、祖母が悲しみにくれることがなかったのは、私達残された家族にとって幸いだった。


・・・・・・・・・・・・・・・・

祖母との時間


それから数年後の朝10時。子どもたちが小学校・幼稚園へ行って、束の間の1人時間。

私は、スマホで「認知症 声かけ 安心」「認知症 声かけ だめ」など、検索したことのない単語をgoogleで必死で調べていた。

なぜなら、あと小一時間で一年以上ぶりに祖母と話すことになったからだ。


少し時を戻して……。

朝9時母からのLINE。

「今日おばあちゃんが退院して施設に戻れることになりました。お父さんが施設に特別に入らせてもらえるから、zoomができるけど、家にいる?」

すぐに

「よかった!うん、大丈夫だよ!!」と連絡。


認知症で完全介護の施設に入居している祖母が、一人で立ち上がってこけて大けがをしたのが先日の話。

この手の怪我は何度もしてしまっており、その怪我の入院の度にジリジリと認知症が進行していった祖母。

祖母は祖父からそれはそれは愛された、ものすごく謙虚で3歩も5歩も夫の後ろを歩くような根っからの京都の女性。


子どもの時、祖父母の家に遊びにいくと決まって近所のお肉屋さんで一番良い肉を大量に購入し、おいしいすき焼きを用意して待ってくれていた。

そして肉の専門家である私の父が「わ~!!またこんなエエ肉買って~!!いくらしたんや!!」と言い、「そんな、大したことありまへんえ」と答えるのが恒例行事だった。

この流れにはまだ先があり、家族全員ですき焼きを食べて、全員がお腹いっぱいになっても最後の最後まで、祖母が大量の肉を食べ続けるという結末。

そんな祖母を、祖父・父・兄が「やっぱりおばあちゃんすごいな…」とからかい、母と私はニヤニヤしながら眺めるまでが一連の流れ。


息子の手をさすり続ける祖母

皆から愛される祖母も、約10年前くらいから認知症が進み、数年前祖父が亡くなってからは施設で過ごしていた。

この頃はすでに、私のことは理解できておらず、息子である私の父のことは「お兄さん」、嫁である私の母のことは「かわいい女子高生」と言っていた。

でも、終始ニコニコおだやかに車いすにすわっている「おばあちゃん」だった。

ちなみに、多分私の子ども達のことも認識はしていない。近所の子ども達だと思っていると思う。

それでも、ずっとニコニコして、アイスをくれたり、手をにぎったり、それはそれは穏やかな「おばあちゃん」だった。



それからは新型ウイルスの影響もあり、施設に行けない日々が続いていた。

電話はできるかと思うけれど、私の事を認識できていないので、電話したところでちょっと難しいのでは…と勝手に思い、躊躇してしまっていたのが本当のところ。



そんな祖母と一年以上ぶりに画面越しに会えるのだ。

認知症を患っている祖母を不安にさせる言葉なんてかけたくない、どうか安心できるような言葉をかけたい。

そんな気持ちでいっぱいになり、しまいには例文を探してしまっていた。

「病院から退院したところだといっても、もう病院にいたことも忘れているかもしれない」

「大丈夫だった?と聞いても、何か悪いことがあったのか不安にさせてしまうかもしれない」

そんな気持ちがあった。



私の頭の中では、ニコニコした祖母が画面の中で座り、その隣に父が、そして実家からzoomで参加した母も交じえ、穏やかな時間が流れる想像ができていた。

いろいろと例文をみたものの、なんだかしっくりこない。



そうだ、例文なんていらない!あの豪快で奥ゆかしくて、ちょっぴり天然で、おじいちゃんを心から愛していた祖母なのだから。

「おばあちゃん、元気そうでよかった!」

「おばあちゃん、会えてうれしいよ!」

それだけで十分だと思った。



そして、そんな登場人物全員が笑顔でいるに違いない空間を想像した私は、パソコンの画面をスクショする方法をGoogleで調べた。

「Fn」+「PrtScr」

これで、全員が笑顔になった瞬間に画像を残しておこう。

何度か自分の仕事の画面をスクショしてみたりした。

保存先もちゃんと確認しておいた。

もう、心の準備もスクショの準備もバッチリだ。




そして、11時過ぎ。

父からzoomの招待メールが届いた。

慌てて鏡の前に走っていって、口紅を塗った。

久しぶりに会うんだもの、ちょっとでも血色を。

祖母には、私が楽しく元気で過ごしているところを見てほしい。


お茶を一口のんで、ちょっぴり緊張する指で、「zoomに参加する」をクリックした。




そこには、たしかに祖母がいた。


でも、なんだか全然違う。

そう、ずっと無表情なのだ。



どんな時でも笑顔で、超高級牛肉をたらふく食べて、絵が上手で、ダンス習ったりして、サボテンを素足で踏んでしまうような天然な祖母とはかけ離れていた。



一瞬私の笑顔は、つくり笑顔になった。

そして、ちょっぴり涙目になった。



画面の向こうの祖母は、私が画面に加わっても、「久しぶり~!!会えてうれしいよ~!!」とブルンブルン手を振っても

まるで難しいニュースを見ているような硬い表情で腕を組んで座っている。



隣に座る父が優しく声をかけているのが聞こえる。

母も父も私も挨拶を交わしているが、祖母はピクリとも動かない。

母が

「からだは、つらくないですか?」と声をかける。

祖母から

「はい。」

と声が聞こえた。



確かに祖母の声だった。でも何か違う。カタい。カタすぎるのだ。

実は、母からは祖母が結構厳しい状況だということを聞かされていた。

画面越しではあるけれど、次いつ会えるかは分からない。

次会えるのかさえ分からない。



私は、父母の話を上の空に聞きながら、少しずつ状況を理解しようとした。

この1年、子ども達がすくすくと成長しているように、祖母も変化をし続けていたのだ。

私の頭の中に座っていた、ニコニコ笑顔の祖母はもうそこにはいなかった。

それでも、緊張で少し冷たくなってきた指で、なぜかスクショボタンを押してしまった。

「こんな写真を残してどうするんだろう…。自分は残酷な人間なのではないか。」と思いながら。



それでも私はずっとずっと笑顔でいたし、結構な声の大きさで喋ったし、外国人かのような大げさな身振り手振りをした。

父と母は穏やかに笑っていた。



若かれし祖母(右上)

そうか。

祖母はもう笑わなくなったけれど、私達の記憶にはニコニコ笑顔で話しを聞いてくれていた祖母がいるんだ。

祖母には90年以上もの歴史があるんだ。

その歴史ごと一緒に話したらいいんだ。

そんなことに気づいた。



「今日はありがとうね!またね!」と笑顔でブンブン手を振って、その時間は終了。

暗くなった画面を前に、少し動けなくなってしまった。

施設の祖母も、多分無表情で動いていないんだと思う。

多分、祖母と一緒の座り方だ、私。



よく子どもに「相手の気持ちになって考えてごらん」と声をかける。

でも、今の私には祖母の気持ちが分からない。

会えて喜んでくれたのか、迷惑だったのか、それとも完全に「無」なのか。



周りの人が「絶対嬉しかったと思うよ」と声をかけてくれたとしても、本当のところは分からない。

いくら考えても分からない答えなのだ。



ただ、私は確実に画面越しではあったが祖母に会えたし、声もかけた。

動く私が目には入っていた…はず。

完全に自己満足の世界だが、もうその事実だけでいいと思えた。



これから祖母に会う人は、祖母の事を

「認知症でほぼ何も分からない90歳すぎの女性」

だと認識するだろう。



海外のコンクールに出品された祖母の絵

でも、私たち家族は、

祖母が本当は笑顔が絶えなくて

奥ゆかしさと豪快さを併せ持った人で、

私が編み物や絵の描き方を教えてと言った時はとっても嬉しそうに優しく教えてくれて、

私が海外旅行に行くと言ったら何十万もポンっとくれて、

大学の帰りに一緒にカフェに連れていってくれて、

入れ歯になってからは歩く度に口からカチカチ音がして、

祖父から本当に愛されて、

家族を本当に大切に思ってくれている

心優しい女性だということを知っている。


もう、それだけで十分。


どうかこの先、祖母に痛いことが起こらず、穏やかに穏やかに、

ゆっくりと幸せな時間が流れますように。


ただ、それだけを願っている。そんな事しかできないのだ。


・・・・・・・・・・・・・・

祖父に溺愛された祖母の旅立ち



祖母とのzoomから1ヶ月後。
祖母は口から物を食べなくなってきたという連絡を受けた。
慌てて調べてみると、口から物を食べられなくなるというのは、お別れが近づいているサインとのこと。

もう、予定なんて見ていられない。

私は翌日子どもが幼稚園・小学校に行っている間に、祖母の施設に行きたいと親に電話した。

面会は難しい時期ではあったものの、施設の方のご配慮もあり、翌日、祖母の施設に行った。

施設の人たちが、少し硬い笑顔で出迎えてくださった。
この方たちは私よりも、ずっとずっと今の祖母のことを知ってくれている。
心からの感謝と、少し言葉にできない羨ましさを覚えた。

祖母の部屋はすぐに分かった。
入口に、祖母が子どものころにずっと見ていたであろう八坂神社の絵ハガキが貼ってあったからだ。

そして、緊張する手で、祖母の部屋の扉を開けた。


そこには、痩せこけた祖母が横たわっていた。


両親は1週間前も来ていたそうで、穏やかな感じで施設の人と会話している。
ふくよかな祖母の記憶と目の前のおばあちゃんが結びつかず、私だけが心の中で衝撃を受けていた。

けれど。

決して態度に表さなかったし、表してはいけないことくらいは私にも分かった。


祖母と私

もう会話もできない祖母の手を握り、ただただ穏やかに見守ることしかできなかった。
祖母と写真を撮ろうと思っていたけれど、気持ち的に難しかった。
だから、私は祖母との手を撮った。


おそらく1週間前は少しは食べ物を口にしていたのだろう。
母が祖母に手土産を持ってきていたが、施設の人が悲しくそして申し訳なさそうに首を振った。
もう、この好物の手土産に祖母は口をつけることはない。
もう、食べるなんてことが出来なくなっていた。

面会時間は10分。
あっという間に、10分が過ぎようとしていた。
私は祖母に「また来るね」と大きな声で伝えた。聞こえてるか、分かっているのかわからないけれど。

今の祖母と私にとって「また」はおそらく、無い。

でも、それ以外の言葉が思いつかなくて。昔のように「じゃあ、またね〰︎」とバイバイと手を振った。


多分、感謝の言葉とか、大好きだよとかを伝えたほうがよかったのは分かっていたけれど、気持ち的に無理だった。

親の前だからとかそんなんではなく、最後だということを認めたくなかった。


そして翌日、祖母が息を引き取ったと連絡を受けた。

『あぁ、おじいちゃんと久しぶりに会えたんやな。』
そう思った。


祖母は祖父の手紙の通り、あとからゆっくり天国に行ったんだ。
きっと祖父の隣の席に座って、おいしい食べ物を食べてるんだろうな。

私のイメージでは、勝手に飛行機にのった祖父母が頭の中に浮かんだ。
そして、天国から私たちを穏やかに見下ろしてくれているんだ。


こうして、祖父母が旅立った。
祖母を見ると、セットで祖父を思い出していたから、私からすると2人が同時に旅立った気持ちだった。

祖父は30年前くらいから親戚が集まって最高に楽しい瞬間に「これでみんなに会えるのが最後や」と寂しく笑いながら言っていた。

小学生だった私と兄は、『毎年強烈なボケをかましてくる』と思っていたけれど、祖父は命の終わりはいつ来るかわからないか知っていたから、本当にその瞬間を奇跡だと分かっていたのだろう。

そして、祖母が時折宝石を買っては、「はい、これ。お母さんとつけてな」と言ってくれていた高級アクセサリーは形見になった。いつも傍ではおじいちゃんが笑いながら「それは形見や!」とこれまた強烈なボケを言っていたけれど、本当に形見になると笑えない。


数日後、祖母のお葬式は平日行われた。

私だけ参列予定だったけれど、警報で学校や幼稚園が休みに。
バケツをひっくり返したような大雨だったので、子どもたちと一緒に家にいることにした。
雨雲レーダーを見ていると奇跡的に10分間だけ大雨がやむ瞬間があった。


わたしは慌てて着替えさせて家を飛び出した。
列車のダイヤが乱れまくりだったけれど、奇跡的に電車が2台連続でやってきてくれたおかげで、子どもたちと1時間以上の電車を座ることができた。

きっと祖父母が私と子ども達をお葬式に呼んでくれたんだと思った。


こうして、祖母は無事祖父の隣の席へと旅立っていった。



そういえば、祖父は私がOLとして働いている時「何の仕事をしてるんや~カタカナの仕事はよくわからんなぁ~」と言っていつも笑っていた。

多分、私が今は「フリーランス」「ライター」と言ったところで、「またよく分からん仕事してるけど、食べていけるんか~?」と言われそう。

昔気質だった祖父は、「ちゃんと家のこととかしとるんか?」とも言うだろう。

そして、横から祖母が「またそんなこと言うてぇ~。大丈夫よ~、ねぇ?ほら、みんなスイカ食べる?」と言いながら、冷えたスイカを山盛り持ってきてくれるのだ。



今も思い出すと、昔を思い出して胸がザワつくけれど、多分それでいい。

命は、必ず終わる。
でも、生きていたという事実は変わらない。

何十年かたって、誰も祖父母を知らない世の中が来ても、あの素敵な2人が私の祖父と祖母で、激動の時代をしなやかに生き抜いたという事実は、何があっても変わらない。



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