父が死んだ 4
父の危篤の連絡を受け、病院に着いたのは2020年10月23日の早朝だった。
ICUのベッド上の父の顔を見た後、姉②と姉③のいる病院近くのホテルに部屋をとり、ひとまず休憩した。一晩中運転していた夫はもちろん、私もあまり眠れず疲れていた。狭い車の中であまり眠れなかったはずの子ども達は、いつもと変わらず元気だった。甘いものを食べたがり、私の膝の取り合いをし、大きな声で喋った。近くのコンビニでおにぎりやサンドイッチを買い込み、朝ごはんを食べた。ジュースやお菓子も買い与えた。その間に、夫は短い仮眠をとって、新幹線で自宅へ戻っていった。子ども3人と私は、コロナ禍で子どもが病院に入ることは許されていないため、ホテルの狭い空間でテレビを見たり、ルービックキューブをしたり、近くの公園でサッカーをしたりして過ごした。午後、姉②と姉③が子ども達を見てくれる少しの間、また父に会いに行った。
父は朝と変わらず、動かない眼で、首には赤い血の管がたくさんぶら下がり、胸は人工呼吸器のリズムで上下し、私も変わらず話すことがなかった。たまたま主治医に会い、話を聞けた。大腸がんの影響で、しばらく便が出てなかったこと。お腹にたくさん溜まった便の雑菌が大量に増えて、全身に周り、敗血症状態だということ。透析によって回復を待っていること。首にぶら下がっていた赤い血の管は、透析の機械に繋がっていたのだ。入院する前も何度も通院しており、「血液の数値も特に問題なく、こんなに急激に悪くなった原因はわからない。」と言う主治医の真剣な眼差しに、この人は信用できそうだと思った。なんでもっと早く病状の悪化に気づけなかったのか、という疑念全てを拭い去ることができなかったけれど。主治医との話が終わり、父にまたちょっとだけ触れ、長居はせずに子ども達の元に戻った。その日は、父は落ち着いたまま夜は過ぎていき、たった一日ぶりのベッドでの睡眠が、ずいぶん久しぶりに感じられた。
翌朝、10月24日。子ども達と朝ごはんを食べに近くのミスタードーナツにいたら、姉①から「今後のことを話しておきたいから、みんなで集まろう。」と、電話がかかってきた。子ども達を急かし、ホテルの姉達の部屋に行くと、みんな集まっていた。子ども達にはテレビを見せつつ、今後の話をした。昨夜遅く、看護師さんから母に「ここまで透析を続けてきたが、回復の見込みがないかもしれない。」と電話がかかってき、母は覚悟しないといけないと思ったようだ。葬式はどうするか、喪主は誰か、父を一度は家に連れて帰るとか、私は喪服を持ってきたかとか。数百メートル先の病院で、まだ父は生きていたが、私達はもうそんな相談をする段階にいた。
相談が終わり、母と姉達は父に会いに行き、私は公園でサッカーをする子ども達を見ていた。姉②と姉③が、代わるよと病院から出てきた時、姉②の目は赤く泣いた跡が見えた。姉②と姉③に子ども達を任せてICUに向かっていると、姉①から「早くおいで」と電話がかかってきた。走ってICUに向かう途中、初めて涙が溢れてきた。エレベーターの前に一組の家族らしき人達が立っており、その存在すらもどかしく感じた。ICUの父のベッドは、カーテンがしっかり閉められ、中では数人の看護師さんと主治医と、母と姉①が父を囲み、暗く重い空気が漂っていた。父の人工呼吸器は外されていた。自力で動いていた心臓がだんだん弱まってきており、人工呼吸器を外したとのことだった。父は、しばらく自力で呼吸をしていた。人工呼吸器を外すことによって少し楽になり、自ら呼吸をすることがあるのだそう。モニターが時々ピーと音を立てる。手を触ろうとめくった布団の中に、病院着がめくれ上がった父の太もも辺りが見えた。張りのない老人の脚に、見てはいけないものを見てしまった気がした。私は、涙がポロポロこぼれたが、何も言えないままだった。
いつがその時だったのか、わからなかった。大きく呼吸するでもなく、ガクッと身体の力が抜けるでもなく、煙がすーっと空中に溶けていくように、いつの間にか、父は息を引き取っていた。主治医が「ご臨終です。」と言わなければ、まだ生きている気がした。母は父に覆いかぶさり、「お父さん!死んだとね?!」と言って泣いた。「歯がいい!!」と言って怒ってもいた。人は悲しすぎると怒るんだなぁと、私は冷静だった。悲しみ、怒る母の曲がった背中を、そっとさすった。