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小林秀雄以後の「文芸評論家」-小林秀雄と柄谷行人と吉本隆明にとってのマルクス①-

文芸評論家が「思想家」になったというとき、その「思想家」とは、どのような思想家なのか、ということについて柄谷行人は、『ソシュールと現在』のなかで、

「ぼくがソシュールに興味を持ったのは、言語学に関心があるからではなくて、ソシュールが言語について言語学という科学がもたないようにつきつめた考えを持っているように見えたからです。
マルクスの経済学についてもそう思うのですが、『資本論』のほかにマルクスの『哲学』があるのではないと同様に、ソシュールの言語学はそれ自体、言語についての意味以上のものをはらんでいるように思われるのです。
つまりソシュールはマルクスやニーチェと同様に思想家なのだと思うのです」
と書いている。

小林秀雄以後の文芸評論家が「思想家」に変貌したというのは、柄谷行人がソシュールについて言っているのとほぼ同じ意味で考えられた「思想家」のことではないだろうか、と私は、思う。

小林秀雄以後の文芸評論家たちが、「思想家」とでも呼ぶべき存在へと転換したのは、彼ら/彼女らが、文学作品の分析を通じて、文学という問題を越えた、ある基礎論的な問題を問うような存在へと変身したからであろう。

その代表的な文芸評論家のひとりに吉本隆明がいる。

吉本隆明は、1961年、『言語にとって美とは何か』を「試行」に連載するころから、急速に原理的思考の世界に移り、以後『共同幻想論』、『心的現象論序説』というような文芸評論家の世界では処理しきれないような問題作を次々と発表するのだが、これらは、ひとりの文芸評論家の仕事としては、あまりに途方のないもののように思われる。

しかし、吉本隆明は、あくまでも文芸評論家の名において、これらの仕事を進めており、私は、その点に関心を持つ。

文芸評論家に、『言語にとって美とは何か』という言語論はともかくとして『共同幻想論』や「心的現象論」が必要なのだろうか。
吉本隆明は、『心的現象論序説』で、

「いうまでもなく、この領域は、心理学、精神医学、哲学の領域に属していて、私はひとびとがわたしの専門と考えている文学の固有領域から、少なくとも具体的には一段と遠ざかることになる。
しかし、現在では、一個の文芸批評が独立した領域として振る舞おうとするとき、このような文学的常識からの逸脱はまぬがれ難いものである。
そしてこの逸脱がいつの日か文学芸術の固有領域を根源において惹きつけるということを信ずるほかはない」
と述べている。

吉本隆明が、文学常識からの逸脱を必要とし、文芸評論の名において、『言語にとって美とは何か』と『共同幻想論』と「心的現象論」を必要としたのは、おそらく、吉本隆明が、批判的なものに対決しなければならなかったのは、吉本が批判的に対決せねばならなかった当面の敵が、ロシア・マルクス主義であり、それに根拠をおく社会主義リアリズム論であったからであり、「マルクス主義」との対抗上から、必然的に原理論的な次元からの考察を余儀なくされたといってもよいだろう。

吉本隆明は、マルクス主義とマルクスを区別し、史的唯物論と弁証法的唯物論を基礎にしてロシアで発表されたロシア的マルクス主義とマルクスの思想とを区別しているようである。

吉本隆明は、それを「マルクス主義者」と「マルクス者」という呼び方で区別しており、もちろん、後者ではなく、前者と批判的に対決している。

この吉本隆明のマルクス主義とマルクス主義者に対する構えは、小林秀雄に極めて近く、もっと言ってしまえば、吉本隆明はマルクスの理解の仕方をほとんど小林秀雄のマルクス理解からそのまま受け継いでいるのではないだろうか。

このことについて磯田光一は、『吉本隆明論』において、
「吉本隆明をマルクスに近づけたもの、あるいは吉本のマルクス理解を決定したもの、それは小林秀雄の初期評論以外の何ものでもなかった」
と書いている。

例えば、吉本隆明は、『心的現象論序説』のなかで、その根本モチーフについて、
「わたしはここで現象学とも悪しき唯物論ともちがった仕方で『観念論か唯物論か』という二元的な問題のたて方を越えてみたい」
と述べているが、これもまた、小林秀雄のマルクス解釈とそれほど異なったことは述べていないだろう。

「心的現象論」のテーマは、このことばに要約されており、「唯物論か観念論か」という二元的な構えそれ自体の無効を宣言することだと思われる。

そして、それは結局のところ、ロシアマルクス主義的「唯物論」への批判となってもいるようにも、思われるのである。

ロシアマルクス主義的「唯物論」とは、「唯物論か観念論か」という二者択一的問題設定のなかでの「唯物論」に他ならなかったからである。

日本における文芸評論とは、物事を原理的に考える場所として確立されたのであるように、私には、思われる。

小林秀雄以後、文芸評論家に要求される役割は大きく変わり、文芸評論家は、単なる文芸の評論家であることは許されなくなったのだろう。

文芸評論家に哲学者や思想家の役割が加わったのではなくて、哲学者や思想家の役割を担うことによってはじめて、文芸評論家という新しい存在形式が確立したから、文芸評論が文芸という拘束を離れて、一種の哲学的な原理論へと転換したとき、はじめて近代批評が確立したのであり、その逆ではないのだろう。

日本において、文芸評論家は、学者でも、ジャーナリストでもなければ、大学や新聞社などいずれにも軸足を置いていない独特な存在として存在していることが多いのかもしれない。

また、日本では、文芸評論家が「哲学」を語り、「政治」を語り、そして「物理学」や「数学」や「経済学」を語り、マルクスも問題にしてきた。

柄谷行人という文芸評論家を通じて、ふたたび、文芸評論家について考えてみたい。

柄谷行人は、「文芸評論家」として出発し、『意識と自然』という漱石論でデビューし、以後、『畏怖する人間』や『意味という病』等に収録される文芸評論を書き、新進の文芸評論家としての地位を確立したようである。

ほぼ同時代に台頭しつつあった「内向の世代」の作家たちに共感を寄せ、秋山駿とともに「内向の世代」を支える文芸評論家のひとりと目されながら、ある意味普通に文芸評論家の道を着実に歩いていたのだが、柄谷行人は、1974年に、突然、「群像」に『マルクスその可能性の中心』の連載を開始するのである。

『マルクスその可能性の中心』は、柄谷行人にとってはじめての本格的な長編評論になるのだが、文学論ではなかった。

なぜ文芸評論家柄谷行人にとって最初の本格的な長編評論が、文学論ではなくマルクス論で無ければならなかったのかは、次回以降に述べていくつもりだが、柄谷行人は、マルクス論である『マルクスその可能性の中心』以後、それ以前の文芸評論家柄谷行人というイメージを一新するかのように、文学論の分野から離れて、一連の哲学的、思想的な著作を続々と発表するのである。

1977年から「現代思想」に連載された『貨幣の形而上学』、1980年には『内省と溯行』、1981年には『隠喩としての建築』と『形式化の諸問題』、さらには「群像」に連載した『探求Ⅰ、Ⅱ』。

柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』以後、専ら非文学的場所で、文芸批評というより、哲学、思想論を展開してきたようである。

これら一連の哲学的著作と平行して、『日本近代文学の起源』や、中上健次との対談集『小林秀雄をこえて』などにより、文芸評論家の仕事もしているようなのだが、そのような一連の文学論の分野の仕事は、一連の哲学・思想関係の仕事に比較して極めて影が薄く、柄谷は、『マルクスその可能性の中心』以降、「文芸評論家」から「思想家」に転換したかにすら見える。

しかし、柄谷行人は、「文芸評論」を捨て、「哲学」や「思想」の分野へと転向した訳ではないし、「文芸評論家」から「思想家」に転換してなどいないだろう。

柄谷行人が、「文芸評論家」の仕事として、その批評のテーマを「文芸」から「哲学」へ転換させ、「作家」や「作品」ではなくて、マルクスやソシュール、あるいはゲーデルやヴィトゲンシュタインを問題にすることは、柄谷が「文学論」から文学の「基礎論」へ、その文芸評論の活動の場所を深化させたことを意味しているのだろう。

そして、柄谷行人が、哲学・思想論へと転換したかのように見えるのは、柄谷行人が文学の「基礎論」を問うことによって、哲学・思想的な場所と通底するような原理論的な場所に移動したことを意味しているのではないだろうか。

そこ、こそが、文芸評論の本来的な場所であり、小林秀雄と共にはじまった文芸評論とは、そのような場所へ踏み出すことにより、はじめて可能になった文学的な表現形式ではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

次回も、この続きを描いていきたいと思います😊
よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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