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見えない荷物を抱えて生きる

昨日、悩ましい事があり「こんな生活だけどもう自分も29歳か〜…」とゲンナリしていたとき、ふと思った。
そういえば、闘病目的のコミュニティでSNSを始め、親しい人に病気になったと打ち明け、治療を始めて10年目だということ。

記念すべき10周年だ。精神病10年目。
嬉しくもなんともない称号だが、まぁとにかく10年経ったわけだ。
10年前どんな感じで、人間関係がどんなふうに変わって、何を学んで、今の自分はどうなのか。
ハタチ前後の自分。
成人式の若者たちの投稿をたくさん目にし、それに加え人生を振り返る機会が多い今、誰のためでもなく自分の過去の清算のために10年間の記録を消えない場所に残そうと思う。

<長すぎて全て読むのは到底無理なうえ非常に疲れる内容なので、時系列に沿った目次形式にしました。>




あとは、もし偶然検索に引っかかって、あの頃の私のように摂食障害を誰にも打ち明けられず悩んでいるティーンのたった1人にでもこの記事を見つけてもらえたとしたら、
「深刻化する前に外の誰かに助けを求める」「辛いことを隠さず言葉にする」事がいかに重要なことか、私のドブに流したハタチ前後の生活の悲惨さを覗いてもらうことで、反面教師にしてもらえたら良いなという微かな願いも込めています。

成人式の写真をあげていた若い子たちみんな、どうか人生でいちばん自由で楽しい時間を楽しんで、そのまま健康な人生を送ってほしい。願っています本当に

① 拒食悪化の短大生活

33キロくらいでフラフラになりながら就職活動をしていた19歳の年、短大や就活帰りの1週間に1回池袋の薬局で360錠の下剤を買って帰っていた。
学校に行ってもお昼が食べられないから友達とはどんどん疎遠になり、高校時代の友達から集まりの声がかかっても心配されるのが億劫で顔を出せず、筋力の衰えでカバンやスニーカーすら重たく感じて、歩くだけでヘトヘトだった。

自宅での生活。まだ摂食障害への理解や根本的原因への着目が今ほど広く周知されていなかった10年前。
当時の摂食障害当事者ではあるあるなことだが、母との関係は本当に最悪だった。
毎朝母親には食べないことを叱責される日々。母なりに「太らせなければ」という焦燥と心配からの言動だったと今はもちろん分かっているが、当時は私を否定する鬼としか思えなかった。
夜は毎晩「お母さんの前で体重計に乗りなさい」と裸をチェックされた。何をしても敵意を向けられているようにしか感じられず、母との関わりがとにかく辛かった。母の心配の全てが重く、恐ろしかった。

精神崩壊メーターがMAX寸前だったころ、膝上丈のスカートを履き登校しようとした朝のやり取りを今でも鮮明に覚えている。
家を出る寸前の私に母は「そんな格好して、マンションの人たちに見られて恥ずかしいのはお母さんだ」と怒鳴り散らされたことがあった。

そのころの私は、自分が異常だということなんて、とっくに気づいていた。
360錠の下剤をほんの数日で飲み切り、親が作ってくれたご飯すら隠れてチューイングで吐き出し、市販の睡眠薬を買い、それでも眠れない。
それなのにこの生活が辞められない。自分が悪いとわかっているのに苦しい。
鏡の前に立つと自分の脂肪に目が向くのに、外を歩いてビルのガラスに映った自分と目が合うと、あまりにも鶏ガラな体型で目も虚ろな姿にギョッとした。

その異常な暮らしを誰にも話せないだけで、狂っていることなんてとっくに分かりきっていた。
その日は、遅刻ギリギリの玄関で「私だってこんなことはもう辞めたいのに、なんでお母さんは分かってくれないんだ」と号泣し怒鳴り散らして家を出たのだった。
今振り返っても思い出すたび涙が出るほど、世界中でひとりぼっちだと思った朝だった。
短大2年目の時点で限界スレスレだった。

② どれだけ痩せても憧れには届かない

もう一つ、今でも色濃く覚えていること。

エントリーシートに同封するコーディネートの全身写真を親友に撮ってもらった日があった。
私の大好きな親友は昔も今もぽっちゃり体型だ。
いや、かなりのぽっちゃり体型だ。
だけど昔も今も、私にとっていちばん憧れの人だ。
彼女はTwitterで「こんなに痩せました!太ってた頃の自分を笑ってきた人を見返しました!」という人たちとは違うベクトルで、彼女のありのままの体型でずっと輝き続けている。

彼女自身にそんなつもりは微塵も無いだろうが、彼女や彼女の家族には、いつも周りを太陽のように明るく照らしてくれるパワーがある。大袈裟でなく本当にそうなのだ。共通の友人ともその話題で盛り上がった事があるほどだ。
意識せずともそのオーラを携え生きている人なのだ。
彼女が持つ親御さん譲りの明るさや愛嬌や顔の広さ。昔から私にとっては、本当に華やかな存在だった。
それに比べて、19歳のあのころ、Twitterでよく見る「痩せて人生変わりました」の「あちら側」になったはずの私はどうだろう。
明るく振る舞いながら心は暗く、自分を誇ることもできず、充実しているふりをしながら空虚な生活を送っていた。冴えない学生時代よりずっとずっと冴えない自分になっていた。

親友にカメラでスナップ写真を撮ってもらった日、一生懸命充実しているような顔を見せる愚行に撤し、申し訳なく虚しい気持ちで帰りながら痛感した。
どれだけ痩せても私の憧れはぽっちゃりした彼女であることに変わりはないのだと。
容姿がどんなに変わっても、どこまでも私の根底は私でしかない。私には彼女のような家族もおらず、憧れる彼女のような素質もなく、はなから太陽とは遠い人間だと思い知った。

彼女が撮ってくれた写真の私は、可愛い服を着てにっこり笑って、げっそりしていた。
ガリガリの身体に頭でっかちな痩けた顔が乗っかっている、おかしな人間型の壊れかけの人形だった。

けれど、容姿が変わっても中身が変わるわけじゃないという真髄を思い知らされてもなお、痩せ続ける事をやめられなかった。
「痩せることに必死になれる」こと以外、自分に残された価値などないように思えた。
親さえ味方になってくれず、誰にも話せず、自分を知ってくれているのは自分だけだと思うと、少しでも気が緩めば電車の中でも泣いていた。

③ 過食発症  地獄の1日


母親から叱責されながら就活をする日々の中で、心身の限界を感じ学校内のスクールカウンセラーのもとに通い始めた。そこで初めて「私はダイエット依存症だと思う」と人に打ち明けることができた。
あの頃の私にとって唯一隠し事をせず、嘘をつかずにいられる場所だった。
それからは、母にわかってもらいたい一心でわざとらしく自室の机に図書館で借りた拒食症の本を置いてみたこともあった。
そのことについて触れてもらえたことはなかった。

季節は忘れたが、2年生のある日。
レディースのアパレルブランドから内定通知をもらった。身体はもう限界だった。やっと楽になれる。そう思い父親にメールをした。

「とりあえず一安心ですね。引き続き頑張ってください」そう返信が来た。
両親からは「売り子なんて一生は続けられないんだから、事務職じゃないとダメだ」と言われ続けていた。
もう無理だ。何もかもやめよう。そう思った。

内定通知が出たその日、表参道からの帰り道、目に入る全ての飲食店に入り、飲食店の合間にはコンビニに入りパンを食べながらまた店に入る。日が沈むまでそれを繰り返しながら駅に向かい、帰りの電車に乗った。
今まで必死に堰き止めていた衝動が一気に溢れ出したその日、言うまでもないが電車の揺れに耐えきれず吐き気が止まらない。胃も心ももう限界の容量を超えていた。人目もくれず嗚咽し続け、和光駅で電車を飛び出て列を無視してトイレに駆け込み、必死に吐いた。涙と鼻水を垂れ流したまま便器に顔を擦り付けながら、受付時間外のスクールカウンセラーに「たすけてください」とメールを送った。今でも写真のようにそのときのトイレの景色も、便器の中の光景も、メールの文面も、その情報たちを覚えている。
人生19年目、記念すべき拒食から過食転換期、この10年の本当の始まりだった。

放心状態で最寄り駅に着いたときにはもうふらふらだった。そのとき偶然私を見つけて声をかけてくれた友人がいた。それもまた、親友だった。
彼女にはその時ほんとうのことなど言えなかった。
ただ具合が悪いとしか言えない私と、一緒に帰ってくれた。
母親には何も言えず、怒る声を無視し倒れるように眠った。

翌日だったか、それからすぐにスクールカウンセラーが校医を呼んでくれた。
言わずもがな私は摂食障害と抑うつ状態と診断を受け、私の家庭環境を知ってくれた校医から母に電話で全ての経緯や私とのやりとりを伝えてくれた。
その日帰宅すると、母は怒ることも責めることもせずただ「おかえり」とだけ言った。
帰宅時に何も言われなかった夜があまりにも久しぶりで、玄関で大泣きした。

次の日から私は学校に行くのをやめた。というより、ひとりで電車に乗る事ができなくなったので行けなくなった。卒論も残りの単位も全て投げ出し、病院をたらい回しにされる日々が始まった。
退学し、療養生活を始め、学歴も、バイトも、普通の暮らしも、友達とのつながりも、何もかも失った。

④ ドブに捨てたハタチと精神病棟

Twitterで「闘病界隈」と言われる同じ摂食障害の人たちとつながるアカウントを始めたのもちょうどこの頃だっただろうか。
アラサーの今となっては皆それぞれの人生のフェーズで頑張っており、適度な距離で応援し合える。同じ病を抱える同世代の人たちの人生の進捗を見守ったり、病状について打ち明けられる貴重な場所だ。
ただ、当時は病状も酷く病んでいる若者同士の集まりなので、距離感も難しいものだった。いい刺激になっていたかと言えば、馴れ合いに近い悪い作用の方が大きかったのかもしれない。
私の無責任で未熟な言動から依存されてしまったり恨みを買うことも多く、友達というよりは孤独なもの同士の集いでしかなかったように思う。
当時「一緒に頑張ろうね」などと文字上で脆い結託を結んだ人たちの行く末も、結局今は知る由もない。


鬱が悪化する一方だったころ、自殺に失敗し、目が覚めた時には「精神と時の部屋」に入っていたこともある。所謂、監視カメラがついた全面白一色の、二重扉に鍵が付いたベッドと剥き出しの便器しかない部屋のことだ。
「思いつくことなんだって実現できる気がする、身ひとつで逃げてゼロから見知らぬ地で生き直そう」などと無計画に思い病棟の植木の隙間から脱走したこともあった。普通に警察沙汰になりかけた。
その時診断名が今の病名に変わったのだった。大きな転機だったと思う。けれど今となっては恥でしか無い過去であることは確かだ。

入院中は母とは距離を取る必要があるため、面会禁止だった。共依存の私たちが会う事はお互いにとって良いことは何一つないからだった。
父はたまに差し入れなどで顔を出してくれた。関わりが希薄すぎて、話す事はあまりなかった。

元気に友達と会える日もあったが、病状がまた悪化すれば距離を取らざるを得なかった。周りが人生の階段を着実に登っていく中、自分だけ精神年齢も時間も止まっていることを受け入れるにはかなりの時間がかかった。

細切れの入退院を繰り返していた二十歳ごろ、通算で1年分くらいは「人生がない時期」だったんではないだろうか。
社会との繋がりが断絶された病棟で、毎日朝夕2本の映画を観ながら淡々と日々を消費した。入院していたころ観た映画一覧のメモはまだ携帯に残している。

入院していた頃のこと、今でも覚えているエピソードがたくさんあるけれど、自分の人生史に残したく無いこと黒歴史ばかりだ。あげ始めればキリがない。

唯一面白エピソードとして書けることがあるとすれば、最初の入院では20〜30代の躁鬱患者ばかりが集まっていたので、みんな相互作用で躁転しまくってしまい奇妙な現象が生まれたことくらいだろうか。
病棟内で不倫カップルが何組も誕生し、徒歩で行ける距離のラブホテルは虚偽の外出届と共に定番イベントとなり、恋仲の男性がいる病室へ夜這いをした既婚のお姉さんが翌朝には強制退院させられていた。
毎日みんなで庭に出てピクニックもどきの集いをしたりカップルごとにお姫様抱っこの写真を撮りあったり、異常な浮かれ具合だった。あまりにも異様な光景だったと思う。
みんな、シャバと切り離され孤立したコミュニティの中で、人と深く繋がることを渇望していたんだろう。

入退院を繰り返した頃は、いまでも私にとって「人生がなかった時期」だと思っている。

⑤ 10年では親子問題は解決しない


過食期に移行したての頃、ダイエットを始める前の体重、50キロになったら死のうと明確に思っていた。
そのはずが今。1番痩せていた頃のきっちり2倍の体重の今、ぴんぴんの日もあればヨレヨレの日もあるが、親との確執も根本は解決していないが、確実に生きている。
相変わらず悩みは尽きないし病む日も多くあるが自由に生きている。

あの頃病室でウォークマンで聴いていた音楽をライブハウスで生で楽しみ、映画館で好きな映画を観て、友人や旦那と食事や酒を楽しみ、非正規とはいえ色んな仕事を経験し、太ったり痩せたりしても「太っちゃったな」と思いながら生活を続けている。肌が荒れて心も荒んでも「まぁ自分のことなんて誰も気にしてないな」と言い聞かせ生活を続けている。私は私にしかない価値をどうにか見出そうと一生懸命生きている。

もちろん、もう10年、いや、たった10年。何もかもが良くなったわけではない。

ここ数年も親への複雑な想いは違うベクトルで深まるばかりだった。辛かった。20代半ばにしてようやく自覚した我が家の異常さも山ほどあった。
世間に「毒親」「AC」という言葉が浸透し始めたのも私が治療を始めてからだったように思うが、その言葉に自分も多少当てはまるという現実を受け入れるのもかなりの年数がかかった。

主治医に「恨んで良いんだよ」旦那に「もうあなたの親は変わらないから無理だよ」はっきりそう言われても、諦めの悪い私はウジウジ期待することを諦められなかった。でもまぁやっぱり、自分の判断ではなく周りが正しかったと思う。
「子はかすがい」というが、この言葉は時と場合により強い繋がりにも呪縛にもなるのだと学んだ10年間だった。
それでもやはり、私には父親の血が流れており、母親のDNAを継いでおり、私は親の娘である事実に変わりはない。

⑥ 「治療」と「社会との接点」はセットで


とはいえ、諸々のいらぬオプションを背負ったままでもここまでやってこれた理由。
私自身の頑張りだと言ってくれる人が多いが、明らかにそんなことはない。
自分なんかには釣り合わないほど優しい友人たちの救いがなかったら、社会との繋がりが断絶されたままだったら、現代の福祉医療の知識と助けがなかったら、本当に生きてこれなかった。
どんな形であれ、他者との繋がりを絶やさないことがどれだけ病人にとって大切なことか。
身内との繋がりだけでは人間は健やかに生きていけないということ、維持はできても進歩は難しいということ、自分がどれだけ人に助けられて生きてこれているかということ、ことあるごとに実感した。今だって度々感慨深い気持ちになる日々だ。

しばらく会うことを躊躇っていた期間があった親友が連絡をくれて、また定期的な付き合いができるようになり誰より大好きな存在になった今。唯一、親との確執を事細かに打ち明けられ、かなり早い頃から「家を出なよ」と背中を押し続けてくれていた男友達と結婚し、なんやかんやありながらも一緒に歳を重ねている今。生涯携わり続けたい業界が見つかった今。
当たり前にある今の暮らし、19歳の私が観たらどれだけ驚くだろう。
些細なことまで、全てが凄まじい奇跡で、何一つ当たり前なことではないと地下を這い続けた私は知っている。

病みがちな私を見捨てず年一で会ってくれる旧友。入院していた頃、授業をサボってお見舞いに来てくれ、泣く私の手を握って話を聞いてくれたこともあった。
今はもう会えなくなったけれど大好きだった友人。元気がない時はいつも私におすすめの曲を教えてくれ私の心の支えであり続けてくれた。
同じ精神病を抱えながら、もう何年も人生を見守りあっている顔も知らない人たち。
人との単発的なやりとりは得意でも継続的な付き合いが苦手な私が、素直に頼らせてもらっている人たちの優しさ、全てに救われている。大袈裟でなく本当のことだ。
お世辞にも「普通の家庭」で育つことはできなかった「普通でない」私に、普通に友人として接してくれる人がいる幸福だけが、今の私を支えてくれている。

多分、10年経った今も、20年後も、寿命を全うするころも、同じ気持ちだと思う。

⑦ 総括


多方面での疲労に見舞われ体調を崩した今、仕事を辞める決意をした。
5年ぶりの無職。また振り出しに戻るようでいてそうではない。あの頃とは環境も頼れる人の心強さも違う。見守りたい人も見守ってくれる人も多くいる。
何度この波を繰り返し続けるんだろうと絶望する日も多くあるが、繰り返しているようでいて着実に学び続けているのだと、そう思っていたい。

10年前のあのとき、あのきっかけの瞬間、あの選択をしなければ、そう思う時なんて数えきれないほどある。後悔ばかりであることは確かで、綺麗事では片付けられない。10年前の自分をまだなぐさめきれないままだ。けれど、ただでさえ利己的で傲慢な私は、一度すべてを失わなければ、こんな風に今自分にあるものの有り難みにも気づけないまま肩を揺らして歩いていただろう。

口ではあまりいえないが、弱るたびに改めて周りの人にありがとうと心から思うことばかりだ。
残念ながら私のオプションはたとえ寛解に向かったとしても根絶することは無いだろう。否応なく死ぬまで病人なわけだが、またここから10年経ったとき、変わらず他者との繋がりだけは絶やさないまま生きていられたら良いなと思う。
最悪病気が酷くなってようが働けてなかろうが、自分の手元に頼れる存在があれば、それだけで幸せだと思える自分でありたい。素直に、孤独でいたくない一心だ。親友にも、友人たちにも、ありがとうといつだって思う。もちろん旦那にも。色々思うところはあっても旦那は旦那以前に、10年間見守ってくれている友人であることは死ぬまで変わりない。
友達がいるということ、本当に、当たり前じゃない。
ありがたいことだということ、これからも忘れずにいたい。


そういうわけで、10年間の精算、おしまい。
家を片付け、よく眠れるようになり、好きなことをたくさんして暮らそう。
お金も将来も仕事も、生きてる限り先のことはこれから考えれば良いのだ。
病人のオプションに甘えて生きていくことくらい許されるだろう。
10年前の私を悲しませないよう、自分を愛でて好きな人やものに囲まれて生きていけたらいちばん幸せだ。

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