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胃袋

こんなにたくさんいろんなものを食べられたら楽しいだろうな。
妻が羨ましそうにそういうのが聞こえた。

一人のひょろ長い体躯のサラリーマンが仕事であちこち訪れる。商談を終えると必ず腹が減り、その時々の欲求のまま探しだした店、またはたまたまでくわした店に入って思案を巡らせ注文する。食べたいものを食べたいように食べ、満足する。というドラマを妻は毎週欠かさず見ていた。今日も一人で口を開けたまま、この人嬉しそうに食べるな、うちでも作れるよ、などと独りごちながら見いっていた。
そんなに食べたいの?と聞くと、
そりゃあ、食べたいよ。
と訝しげに答える。
たくさん食べたいと思わない人がこの世にいるはずがないとばかりに。
それ、目の前にいますけど。
とは言わないでおいた。少食なんて自慢できないとかなんとか、難癖つけられて強制的にご飯の量を増やされて、食べないとだめ!とか言われるのがおちだから。でも、なんだ、そうか。食べたいのか、ちょうどよかった。もうじき結婚記念日だ。贈り物を何にするかまったく浮かばなかったから。

私は闇市に出かけた。昭和といえばもう100年近く前だが、その頃から続いている闇市があるのを知っていた。そこには何でもあるということも。仕事帰りにいつもの曲がり角を曲がらずに、入ったことのない細い路地に滑り込む。ここか。客はまばらだが、さしあたって怪しい雰囲気はない。良くある道幅の狭いひなびた商店街の佇まいだ。露店もあれば屋根つきの店もある。それらが息を潜めるようにして犇めきあっている。この中のどこかにあるはずだ。
私は乾いたものを広げている露店の店主に声をかけた。
「胃袋あるって聞いたけど」
眠たげな顔をした店主は眼鏡をかけ直した。
言葉を発することもなく、太い葉巻みたいな人差し指で向かいの店を指差した。
指された店は屋根つきだった。木枠にすりガラスがはまっている引き戸をガラガラと開ける。
「胃袋あるって聞いたけど。」
ここでも店主は眠たげでやはり眼鏡をかけ直した。
「あるよ。」
店主は後ろを振り返り、白い扉を開けて中に入って行った。開けたままの冷蔵庫から、白い冷気が私のところまで這ってきて冷たい。
「はいよ。」
ビニール袋に入ったものを無造作に手渡された。
言われた金額を支払い、店の扉を開けて閉めた。高いのか安いのかわからない。法外かどうかもわからない。

結婚記念日の朝、隣のベッドに眠る妻に胃袋を飲ませた。
口の中に押し込んでも目を覚まさなかったのでほっと一息つき、水を注いだ。ゴクンと喉が上下に動き、息をちゃんとしているかを確認してから仕事に出かけた。

夕日が沈んだのと同時に家の玄関の前にたどり着いた。どんな様子か早く知りたくて定時で上がったのだ。
居間に入ると妻が横たわっていた。
「ただいま。」
「おかえり。」
いつも通りだ。
「気分でも悪いの?」
「悪くないよ。」
「花、買ってきたよ。」
そう言って花屋の店員おすすめのピンク系でまとめられた花束を渡した。
「ありがとう。」
妻は花束を手に取ると、そのまま花にかじりついた。
「いい!うまい!この葉っぱとの相性が最高!」
あのドラマの主人公みたいなことをぶつぶつ唱えながらむしゃむしゃと食べ続けている。
「どうしたの?花だよ?」
「花でしょ。わかってる。朝からお庭の花とか草とかずっと食べてる。」
みると庭の花や草がなにもない。雑草さえもどこにも生えていなかった。
「あなた、私に胃袋をくれたのね。」
ゲップをしながら妻が笑う。
「牛の。」
妻がもぐもぐと歯を擦り合わせている。「反芻って素晴らしいわよね。」
買うときに聞けばよかったのか。それとも、店を間違えたのか。
笑っている妻の唇が赤い。薔薇のトゲで切ったのだろう。