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あなたの見ている先に「私」がいるだろうか

(面倒くさいなぁ)と思った。
色んな話をしても、どんな側面から語りかけても、分かり合えない。

延々と続く、この話に私はどういう風に耳を傾ければ良いのだろう、と。

先が見える、これからを一緒に創ることができる、と確信できる話はとてもおもしろいし、前のめりになる。

あれをしてみよう、これはどうかな?
自分の想像力を掻き立てて、起こるであろう未来の何かに想いを馳せる。

逆に見えないもの(おそらく実現しないだろうと感じるもの)に対しての言葉は、湿り気を帯びていて、ずしんと重くのしかかってくるように感じてしまう。

ずっと、ひたすら、固く閉じたものをこじ開けるものを探している。
どんなものが合っているのか、いつも考えているけど見つからない。

何で私はこんなにしんどいことをしているんだろう?とさえ思う瞬間がある。

今日は、調べて目にしたことや書き留めておきたい言葉をせっせとノートに写していた。

そのときにふと、思った。

「私が話す言葉の先に、本当に伝えたい人はいるのだろうか?」と。

どんな綺麗な言葉を並べても、美しい表現をしても、自分が満足して良いものを作ったと自負があったとしても、届けたい人に届いていなければ意味がない。

ひとつの言葉も出来事も、立場や性別が変われば受け取り方も変わる。

そうであれば、その人たちへの届け方は異なるから一方的であってはならない。

積み重ねは地続き。
これから重ねていくものは、届けたい誰かが見える言葉だ。

そんなことに気付いた午後だった。

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