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クリエイターの不幸とは一体何なのか

『半分、青い』を観ていて気になった場面があった。
主人公の鈴愛が涼ちゃんから離婚を言い渡された後の話し合いのシーン。
なぜ「映画を撮る」というだけのために離婚を選んだのか。

一言一句すべて覚えているわけではないし、前のことなのでおぼろげな雰囲気としては「かわいい子供と奥さんとの日々だけで心が満たされるから」というような内容だった。

そのとき『クリエイターは不幸じゃないと良いものをつくれない』という考え方の人物なんだ、と感じると同時に以前、星野源の著書でも似たような話を読んだことを思い出した。

これは前にサッポロ黒ラベルのCM出演時の記事だけど、大体同じことが書かれていたように思う。

引用:星野源、不幸がクリエイターの条件?20代の時の幻想ぶち破る
「不幸せじゃないとクリエイティブなものは作れないんじゃないかという幻想ってなんかある。それこそ20代の若いころは、そういう幻想を持っていて。そういうのに憧れて、ひねくれた方がいいんじゃないかと思っていた」と告白。

例えば、世の中には苦労して作られたものの方が良いとか、苦しんで血反吐を吐きながらでもやった方が良いとか、そういった思想を持ちながら何かを作っている人たちもいて、それがダメなわけではないし否定もしない。

不幸な人が生み出すものは、何かしら影があったりおどろおどろしいような執念のような、日常にはびこる闇(聞こえない声)みたいなものを代弁していて、それはそれで魅力に感じる人もいるのかもしれない。

その一方で幸せな人が生み出すものが人の心を打たないか、と言われればそうではない。

きっと良いものなのだろうけど、心のどこかにある「羨ましさ」とか「妬み」とかそういった感情が一緒にくっついてくることがあるから、素直に受け取れないことも、受け止められない人もいるのかもしれない、とも考えられる。

どちらがより良いか、ということではなく

不幸だったら、必ずしも良いものをつくることが出来る
不幸でなかったら、人の心を打つものが出来ない

とかそういうわけではなく、受け取った人や選んだ人がたまたまそういったものに惹かれたという結果でしかない。

だたひとつ思うのは、何かを作るために敢えてそんな必要もないのに自分を苦しめたり、追い詰めたりしなくても良いし、自分は「不幸なんだ」と思い込まなくてもいい。

幸せなことは悪いことではないし、幸せな状況から生まれるものは少なからず誰かを幸せにしてくれるものだろうとも思う。

だって、楽しそうに何か創っていたら「仲間にいれて」って言いたくなるもの。

アイデアの発売が待ち遠しい。

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