謹賀新年、百合の話をしよう

みなさまあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
この記事はタイトルの通り僕が百合についてのあれこれを語るだけです。前置きなんていらないと思うので早速書き始めます。


百合の定義


まずは僕なりの百合の定義から語っていこうと思います。

女性同士の感情の交わりとそれに伴う関係性

 僕の辞書で百合を引くとこのような記述があります。もう何よりも感情です、大事なものは。感情が大事ですと言いながら、性別に拘ることに矛盾が感じられなくもないですが、(こう考えると百合って言葉は多様性の一翼を担っているようでその実とても保守的な概念なのかもしれない)とにかく、恋愛であるとか友愛であるとかそういった議論の前に感情の有無が非常に重要であると考えます。
 だから、女の子が沢山出てくる作品でも、抱きついたり肉体的に接触していても、感情がそこに無ければそれはただの肉です。百合ではありません。百合ではないからと言ってその作品の面白さが否定されるわけではないのですが、とりあえず僕の中の百合アンテナは反応しません。めちゃくちゃ有り体に言ってしまえば、女女物のAVは百合作品では無いということです。高校生の時、友人に百合が好きと打ち明けたら「俺も好きやで!レズ物のAVめっちゃええよな!」と言われた時に生じた腑が煮え繰り返るような怒りを僕は今でも覚えています。
 それはさておき、その逆に肉体的接触が無くても、恋人という関係じゃなくても、恋というラベルが貼られていなくても、友情も親愛も時には嫌悪でさえも、強い感情は全て百合です。つまり、百合は強い魂に宿るのです。
 僕の中では百合か、百合でないか、はこのような定義に基づいて判断しています。


百合作品の定義

続いて「百合作品」という言葉を定義づけていこうと思います。これは「百合」の定義と何が違うのか?と疑問に思われる方もいるかもしれません。しかし僕は、百合的な要素があることと、「百合作品」であることは明確に違うものであると考えています。そう前置きをした上で、僕の中での「百合作品」の定義は

百合※が話の主題や中核を担っていること

※ここでいう"百合"とは前項で述べた「女性同士の感情の交わりとそれに伴う関係性」という定義に基づく

となります。
 この「百合作品」の定義に基づいていくつか具体例を挙げて考えていきたいと思います。またこの際、百合に馴染みの無い方にも分かりやすいようにアニメ化作品を例に取ります。
 例えば、「百合作品」の代表例としては「安達としまむら」や「やがて君になる」や「citrus」といった作品が挙げられると思います。これらのアニメは全て上で述べた定義にしっかり当てはまっています。
 その逆に、「百合作品」ではない作品としては「ヤマノススメ」「プリンセス・プリンシパル」「響けユーフォニアム」などが挙げられると思います。これらのアニメは全て、登山、スパイ、吹奏楽といった、百合的関係とは別ベクトルの主題が存在し、物語の筋が「百合」にあるわけではないと捉えることができます。
 もうこの段階で「〇〇は百合だろ!」と青筋を立てているオタクの顔が目に浮かんでいるので、弁解します。前置きでも触れた通り、これらの作品はあくまで、「百合作品」ではないだけで、これらの作品内における「百合」を否定しているわけではないです。むしろ、アンプリもなかよし川もめちゃくちゃ大好きなオタクです。ただ、「百合作品」として例に挙げた作品と、これらの作品を同列にすることは、自分の中ではできません。
 また一つ付け足すと先ほど「響けユーフォニアム」は「百合作品」ではないと述べましたが、その番外編である「リズと青い鳥」は「百合作品」であると思います。そうなる理由もやはり、定義に基づいていて、「リズと青い鳥」はのぞみとみぞれの関係性や感情が主軸になっているお話だからです。

 さて、いくつか例を挙げましたが、ここからは話題作や、グレーなラインの作品に触れていこうと思います。
 例えば、百合界隈で定期的に話題に上がる「機動戦士ガンダム 水星の魔女」
 これを百合作品とするかどうかは非常に難しいところであります。というのも、スレミオの関係性が「百合」であることはもはや疑いようもありませんが、本作品は他のガンダム作品の例に漏れず、ロボット同士のバトルから政治的な要素から、人種間の対立、グエルやエランやシャディクといった他のキャラとの関係性まで内容が多岐に渡っています。なので、前述した定義に基づいてこれを「百合作品」であると断じていいかと言われると疑問符がつきます。ただ、話の一つの主題としては「母親の言いなりで、エアリアルを動かすパーツとして存在していたスレッタがミオリネとの関わり合いの中で1人の人間としての自我を獲得していく物語」という解釈も可能なように思われるので、このことも踏まえると本作は「百合作品」、あるいは限りなく「百合作品」に近いものであると結論づけることができるのではないかなと思います。
 また、「少女歌劇レビュースタアライト」も判断の難しい作品であると思います。僕はこの作品の主題を「自己の発見と体現」であると考えています。これは「アタシ 再生産」というワードからもそういったメッセージ性を見出すことができると思います。この点だけで観ると少女歌劇は百合要素はあれど「百合作品」ではないという結論に至るでしょう。しかし、本作品において発見され体現される自己は大抵、他者の存在の中で、他者との関係性において存在します。例えば、幼少期に交わした華恋との約束を中心に行動するひかりはその際たる例でしょう。そう言った要素に加えて、映画ではそれぞれのカップリングの関係性が物語を展開する上での軸に据えられたことまで勘案すると、少女歌劇は一転して「百合作品」であると考えることができるようにも思えます。なのでこの作品も先ほどと同じく、映画まで併せて自分の中では、「百合作品」かまたはそれに限りなく近いものとして位置付けています。
 それでは、少し角度を変えて「ぼっち・ざ・ろっく」はどうでしょうか。私はこの作品こそ、百合要素はあるものの「百合作品」ではない事象の典型であると考えます。
 もちろん、当作品の「百合」としての強度を否定するわけではありません。むしろ僕自身も「星座になれたら」の歌詞、もとい公開告白文に脳を焼かれたオタクの一人です。
 二次創作をピクシブで漁り、眠ることのできない夜もありました。ゼミの発表を控えているのに、論文そっちのけでssを書いた夜もありました。
 しかし、それでも、オタクとして自分の信条を曲げることはできません。「ぼっち・ざ・ろっく」という作品において、どれだけぼ喜多や虹リョウが尊くても、主題となるのはバンド活動であり、それを通して現れる彼女らのきらめきです。きらら作品的に出力される日常も目標も全てはバンドに通じています。
 百合要素がどれだけ濃く、強いものであっても(ぼっち・ざ・ろっくに関しては、アニメスタッフが確信犯的に百合要素を強めた節もあるが、いずれにせよ)百合がテーマではなく、テーマに包括される場合は「百合作品」とはカテゴライズされないというのが僕の考えであると、改めて主張します。


日常系作品と百合作品

きらら作品であるぼっち・ざ・ろっくに触れた流れで、この議題にも触れたいと思います。
 先に立場だけ明示しておくと、僕は「日常系作品」である限り、「百合作品」として捉えることはかなり困難になる、と考えています。
 故に、「百合作品で何が好き?」という質問をした時に「ごちうさ」や「きんモザ」という回答が返ってくると、言葉を選ばずに言うと少しがっかりしてしまうタイプの人間です。
 印象づけとして、強い言葉を使いましたが、何度も言うように話題に上げた作品の百合的な要素や面白さを否定するわけではありません。ただ、それならばなぜ、「日常系作品」を「百合作品」と捉えることが困難なのか。それについて論を述べていきたいと思います。
 例のごとく、ここでも「日常系作品」の定義づけから行おうと思います。これもあくまで僕の主観によるものですが、基準は明文化されるべきであると思うので。

「話の起伏が少なく、キャラ同士の掛け合いや何気ない生活を見せることに主眼が置かれた作品」

 僕は「日常系作品」をこのように捉えています「きらら系」という言葉でみなさまが思い浮かべる作品がそれに当たると思います。もちろんきららに日常系以外の作品が存在することは重々承知ですが、傾向として、上で定義づけたような作品が多いことは事実であると思います。「ジャニーズ系」という言葉で世間の人間は大体のイメージが共有できるように。
 定義を確認したところで冒頭の問いに戻ります。
 なぜ、「日常系作品」を「百合作品」と捉えることが困難なのか?その理由は「日常系作品」のレンジの広さにあります。
 例えば、A子がB子に容姿を褒められて照れる、というシーンがあるとします。これは間違いなく「百合」です。しかし、この「百合」の存在感は「日常系作品」において大抵の場合長続きしません。なぜなら「日常系作品」は、そう冠される時点で「生活」を描くからです。大抵の場合、「生活」には沢山の人間が存在します。想い人と関わる以外の時間があります。漫画という表現においては、数多の視点や思考も描かれます。こういった「生活」の質量に「百合」は埋没していきます。
 つまり、「日常系作品」の軸として据えられているものが「生活」という限りなく広範囲なものである限り、「百合」は局所的にしか見出すことができず、「生活」に包括されてしまうものであるので「百合作品」として認められることは困難である、ということです。
 では、「日常系作品」が「百合作品」として存在することは不可能なのか?全くの不可能ではないと思います。ただし、それが可能になるパターンは限られると思います。そのパターンをいくつか挙げます。

1.登場する全てのキャラクターの生活が継続的に「百合」である場合。

2.登場するキャラクターの数や視点が限られていて、そのキャラクター間で「百合」がある程度継続的に見出される場合。

3.話の軸が、キャラクター同士の関係性を前提とした上での「生活」である場合かつ、そのキャラクター間で「百合」が見出される場合

これらのうちの、一つ、或いは複数を高水準で満たす作品は「日常系作品」でありながら「百合作品」としても捉えることができると思います。
 では具体的にこの条件を満たす作品はあるのでしょうか?

 恐らく、「日常系作品」、延いては「きらら系」という概念と「百合」を併せて論ずる時、多くの方の頭の片隅に自然と浮かんでくる作品があると思います。
「桜trick」は上で挙げたパターンの内、1を完璧に、否、それ以上に満たしている作品であります。この作品は化け物です。パワーが桁外れです。百合界のハリー・ボンズです、それもドーピングをばちばちにしている時の。
 知らない方のために説明すると、この作品は主人公とその親友が永遠にキスをしています。キスが終わると、場所を変えてまたキスが始まります。たまに、主人公と同じグループの友達同士の可愛らしい百合が挿入されて、それが終わるとまた主人公達のキスが始まります。そして、さらに恐ろしいことにそれが「日常系作品」としての起承転結やオチといった要素を完璧に拾いながら行われます。マジでアニメを観ていて、漫画を読んでいて、これを成立させることができることの訳がわからなさすぎて頭を抱えました。圧倒的な百合的物量を持ちながら、平然とした顔で「日常系作品」として仁王立ちしている様は圧巻の一言です。そんなんできひんやん普通。言っといてや、できるんやったら。
 この作品に関してはもう「百合作品」であることは前提として、キスという肉体的接触が多くを占める「百合」が感情を最重要視する僕の定義と矛盾しないか、とかそういった方向に話が飛躍してしまいます。きららにおいて、高出力の「百合」自体が恐らく一般的でなかった時代に、それの連なりである「桜trick」が産まれたことは驚嘆せざるを得ません。(この辺りの話はきららを体系的に修めている方に詳しく聞いてみたいところです)
「桜trick」は半ば殿堂入りのような、傑出しすぎている存在なので置いておくとして、一般的「日常系作品」で上に挙げたパターンを満たすものとしては「まちカドまぞく」も挙げられると思います。
 この作品は視点がほとんど、シャミ子視点か桃の視点に限られていて、なおかつ話のほとんどが2人の関係性を軸にしたものであるので、上で挙げたパターンの2と3を高水準で満たしていると考えることができます。
 「まちカドまぞく」に関しては「百合」として見出される要素は「桜trick」よりは低出力なのですが、とにかく継続性に優れ、それでいて時折、激重感情パンチを繰り出してくるので、これも「日常系作品」でありながら、「百合作品」として文句なしに捉えることができると思います。

 僕自身、きららを全て網羅できているわけではないのですが、アニメ化しているきららの「日常系作品」の中では、「百合作品」であると断言できる作品は以上になると思います。下に僕が視聴したきらら作品を全て「百合」の観点で仕分けした表を貼るので、それも併せて参照していただけたらと思います。

 きららにあまり詳しくないと重ね重ね前置きした上で、漫画も含めて考えるなら「きもちわるいから君がすき」は1と3を高レベルで兼ね備えたスーパールーキーだと思います。しかもドロドロとした感情を通して現れる「百合」なので、僕の好みに本当にドストライクです。
 なんとなくの肌感なのですが、「きもちわるいから君がすき」は「日常系作品を書こう!」ではなくて「百合を書こう!」というところから始まったものを無理やり「きらら的日常系作品フォーマット」に捩じ込んだような感じがします。ただ、書かれているものは歪みに歪みきっているものの間違いなく「生活」ではあるので、「日常系作品」かつ「百合作品」と考えても問題はないかと思います。
 ちなみにきららの漫画で百合といえば「アネモネは熱を帯びる」も名前があがると思うのですが、あれはもう有り体に言ってしまえば完全に百合姫なので、「日常系作品」からは少し外れるかなと思います。当然に「百合作品」であり、僕はめちゃくちゃ好きです。

 いつのまにか「きらら」の枠組みで話を進めてしまったので、きららではない「日常系作品」で「百合作品」と捉えることのできるものはあるのかについても考えます。
 これも範囲が広くなりそうなので、アニメ化した作品に絞ります。僕が見た中で「百合」が一部にでも見出せる「日常系作品」は、以下のようになります。

ここから「日常系作品」かつ「百合作品」である作品を考えたいのですが、今一度、先ほど挙げた3パターンをおさらいしようと思います。いちいちスクロールさせるのは心苦しいので。

1.登場する全てのキャラクターの生活が継続的に「百合」である場合。
2.登場するキャラクターの数や視点が限られていて、そのキャラクター間で「百合」がある程度継続的に見出される場合。
3.話の軸が、キャラクター同士の関係性を前提とした上での「生活」である場合かつ、そのキャラクター間で「百合」が見出される場合

これらを踏まえた上で、まず取り上げたいのが「となりの吸血鬼さん」です。
 このアニメは構図的には「まちカドまぞく」に非常に似ていると思います。物理的に生活を共にしていますし、それがそのまま話の軸になっています。しかも、生活を共にすることになったきっかけが、完全に主人公の主体的な行動に拠っているのも非常にポイントが高いです。2と3をある程度の基準満たしていると思います。
 ただ、僕の中で「百合作品」であると断言するには至りません。個人的な感覚の強い話で申し訳ないのですが、本作品は百合的出力がやや低いように感じられます。それは主人公のソフィに対して向ける気持ちが一種のテンプレートな日常系ギャグとしての変態的言動によって表される場合が多いことや、キャラクターの持つ感情が普通の友情の枠に収まってしまう、つまりはそもそもの心情描写がそこまで強くはなされていないことが要因として挙げられると思います。
 ただそれを抜きにしても、生活を共にする中で描かれる細やかな幸せや、相手への愛情は確かに「百合」であることに違いはないと思うので本作品も「百合作品」として捉えることができるか、または限りなくそれに近いものとして考えることができると思います。
 また、これは余談なのですが、アニメの先の範囲の原作の、特に最終巻が百合的にとても良いものであると風の噂で聞いたので、近いうちに読んでみようと思います。

 上で挙げた作品で他に取り上げたいのは、「私に天使が舞い降りた」です。この作品はなんと天下の「百合姫」連載作です。しかし僕はこの作品は限りなく「日常系作品」であり、「百合作品」としては下手をすると捉えられないのではないかと考えます......いや、それも暴論か?
 というのも僕の感覚として「私に天使が舞い降りたは「日常系作品を書く!」が初めにあり、その表現方法として「百合的感情」が描かれているような感を受けるからです。あくまで感覚なのですが。
 一応先ほどあげたパターンで分析すると本作品は1と3に当たると思います。ただ、1と3もどこか不完全なような、けれど否定するには至らないような。
 なんだか、この作品があまりにも「日常系」の雰囲気を纏うのが上手すぎて僕が見つけるべき百合を見つけれていないようなそんな気がしてきました。ひなのあ凄い尊いし。
 一応それっぽい理屈を付けると、みゃー姉が引きこもり設定な故に、「三つ星カラーズ」と似たようなロリが歳相応の日常を過ごす、といった感じのパートにある程度の尺を割かれることが多々あり、その結果パターン1の「継続性」という面でやや翳りが見られるとか。または、みゃー姉から花、乃愛からひなた、ひなたからみゃー姉への矢印がてんどん的なギャグテイストを孕むことが多いのでその結果感情としての強さに欠けて、そもそも「百合」的に100%で受用できていないとか。そこらへんになると思います。
 結論として、「私に天使が舞い降りた」は「百合作品」として捉えられても問題はないが、僕自身の感覚としては「日常系作品」としての要素を強く感じている、となります。


百合から百合を知ったか、作品から百合を知ったか


ここまで論を展開して気づいたこととしては、僕は「百合」を見出すハードルは比較的低いけれど、作品を「百合作品」とカテゴライズすることにはとても保守的だということです。
 こういった感覚は僕のオタク的ルーツ、もっというと百合原体験に深く起因しているのだと思います。
 それが章題にもなっている、「百合から百合を知ったか、作品から百合を知ったか」の違いに繋がります。恐らくこれだけ読んでもあまりピンと来ないと思うので、今からそれについて論じて、ひとまず筆を置こうと思います。


 僕は百合を知る前、ただのアニメオタクでした。クラナド、シュタゲ、まどまぎ。名作と名高いアニメをひたすら貪り続けるだけの豚でした。
そして、一通り面白いアニメを観終わって、オタ活に少しの停滞感を抱いていた頃、「リズと青い鳥」が上映されました。「響けユーフォニアム」は好きなアニメだったのでもちろん観に行きました。とても感動して、けれどその感動に相応しい名前をつけることができずにいました。
 そしてなぜか、恐らく変わり種を観たい気分だったのだと思いますが、その後すぐに「桜trick」を観ました。そこで完全に「百合」を知りました。自分はこういうのが好きなんだと解りました。
 そこからは早かったです。「百合漫画 おすすめ」と調べて出てきた漫画を買いました。「やがて君になる」でした。地元のイオンに行って、いつもは足を踏み入れない棚の前でその漫画を見つけました。それを手に取るときはドキドキして、なぜかちょっといけないことをしている気分で、カモフラージュのために「かぐや様は告らせたい」の新刊と「1Q84」でサンドウィッチしてレジまで持っていきました。店員のおばちゃんの無表情に胸を撫で下ろしたのを覚えています。
 そして、そんな冒険の後に広がっていたのはあまりにもエモくて切ない恋愛譚でした。こんな物語があるんだと衝撃を受けました。その衝撃はリズと青い鳥の感動と結びつくようなものだったと思います。女性同士の感情が、交わることの美しさ。
 その後、偶々YouTubeでアニメ映画の広告が流れてきました。「あさがおと加瀬さん」でした。一人でこっそり「梅田ブルク7」に行きました。「百合」を知った状態で観る初めての百合映画。緩んでしまう口元が恥ずかしくて、それでも笑みを抑えることはできず、表情筋と格闘していました。そんな状態でふと横を見ました。
 隣に座っていたおじさんが何の恥ずかしげもなく、衒いもなく、にやけていました。ここでは自由なんだ。そう思いました。引き締めていた表情筋を解放した時の快い感覚を僕は今でも覚えています。
 次は、ライトノベルだ。そう思って調べた結果、「安達としまむら」を見つけました。すぐにイオンに行きました。奇跡的に1から7巻まで全て置いてありました。念のためカモフラージュで「86」の新刊と「青春豚野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」で上下を挟んでレジまで持って行きました。爽やかな男の店員さんが優しく微笑んでくれたことを覚えています。
 そこから連日連夜「安達としまむら」を読み続けました。その一週間は僕の人生で一番輝いていた瞬間でした。
 その後、某vtuberの関係性にハマりssを書くようになり、漫画もアニメもラノベも目につくものは全部摂取して、今の僕へと繋がっていきます。

 この長い自分語りから何を伝えたいかというと、僕は「百合から百合を学んだ」ということです。章題でいうところの前者にあたります。つまり、僕は「百合」の原体験から、ある程度「百合」を理解するまで、一貫して「百合が話の主題や中核を担っている」作品を摂取し続けたということです。
 ご存知の方も多いと思いますが、鳥の雛は孵化した後に初めて観たものを親だと認識し、その行動を真似るそうです。これを刷り込みといいます。
 これを踏まえた上で、百合オタクとして雛だった時期に「やがて君になる」や「あさがおと加瀬さん」「安達としまむら」を観た顛末は容易に想像がつくと思います。 
 はい、そうです。百合的要素があるだけじゃそれを「百合作品」とは認めようとしない、立派な厄介オタクへと成長します。百合原理主義的な思想の持ち主へと。
 例えば「まどマギ」のような作品から百合を見出しそれが原体験を成している方と僕ではルーツが根本的に異なるのだと思います。この、「作品から百合を見出したこと」が百合原体験のオタクが章題における後者にあたります。
 そういったルーツの違いが思想の違いへと繋がっているのだと思います。そして、それを否定する権利を僕は何も持ち合わせていません。むしろ、もっと昔、百合が今ほど供給されない時代においては、「作品から百合を見出す」という手段こそが百合オタクにとっての正道だったのかもしれません。そういう意味では、「原理」でさえも章題の後者に味方をすることになるでしょう。
 それでも、僕は僕として生きてきました。自分なりに「百合」と向き合ってきました。そんな日々の中で培われた思想を、誰に共感されなくても、理が無くても、書き連ねたことは確かに意味のあることなのだと信じています。
 そんな願いを本文の結びとして、一度筆を置きます。


あとがき 

 本当はもっと色々な話題について書く予定だったのですが、想像以上に長くなってしまったのでここで一度区切りとします。
 最後になるので、もう一度断っておきますが、今回論じたことは、あたかも事実のようにして書き連ねた定義まで含めて、全て僕の主観に基づいています。なので、主観を自分勝手に並べ立てた僕が否定されることはあっても、主観を一方的に浴びせられただけのみなさまが否定されることは一切ありません。「百合」やら「百合作品」やら勝手にこちらで定義づけた概念を振りかざしただけの本記事が、誰かにとっての「百合」を傷つけてはいないか。それだけが心配であり、心残りです。
 一応、他に書きたかった議題を下に羅列しておきます。また気が向けばこの中にあるものをテーマにした記事を書くかもしれません。来週のサザエさんは的なアレです。

TSやふたなりを好まない理由

現実の関係性を百合的コンテンツとして消費することについて

vtuberの百合について

中山可穂先生の例から考える、作品に「百合」というラベルを貼ることの是非

男性である自分が「百合」をコンテンツとして消費することの是非

「百合」と「女性同性愛」の関係、自分の所感



それでは、最後までご拝読いただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?